第20話 再び交わる運命
1
西の窓から覗く空はもうすっかり暗くなっていた。ここから見える星空は、このごろ、これまでより心なしか高くなったように感じる。
「そういえば」
突然そう言ったのは、氷室だった。
「最近よく笑うようになったよな、後野」
祭里と氷室の二人がいるのは、文実委員のプレハブだ。夜闇に包まれている学校構内で、そのあたりだけは明るかった。
「そうかな?」
祭里が言いながら壁にかけてあるカレンダーを見やると、速水と話をしたあの日から、二週間が経っていた。本当に自分に笑顔が増えたかどうかは分からないが、たしかにあの日、自分の中で何かが変わったような気はした。
祭里は大きな丸テーブルの上に散らばった書類をクリアファイルの中にしまう。彼女の向かいで、氷室も同じことをしていた。
「まあ、俺は知ってたけど」
氷室はそう呟くが、祭里は彼が何を知っているのか分かりかねていた。首をかしげた彼女の様子を見て、氷室は祭里の頭に浮かんでいる疑問符を理解したらしい。
「ほら、この前、言ったじゃん」
それでもなお、祭里は彼が何を言っているのか理解できなかった。
「……まあいいや。明日は第二回の打ち合わせだよな。さっさと帰って、明日に備えよう」
2
一段、また一段と階段を踏みしめ、階上へと向かう。
三階に着くと、目の前にパステルグリーンの扉が見えた。
祭里はそれを開く。
彼女が訪れたのは、棚田のような階段状の構造をした、例の音楽室だった。
『文化祭実行委員』と書かれたプレートがある席は、窓際にあたる教室左側のエリアに位置している。一段につき二つ席があり、文実エリアの中で最も高度が低い席に座るのは祭里と氷室だ。彼女らの席の一段上に二つ、さらにその上に一つ席がある。
この席の数と、二人が座る席の位置は、氷室が決めたものだ。そして、それらのことを会場設営の担当である生徒会に伝えたのも彼だ。
その生徒会の席があるエリアは、文実エリアの向かいだ。例の怜悧そうな司会は、七つある椅子の右から三番目に座っていた。その一段上にある二つの席には、それぞれ生徒会長と生徒会副会長が座ることになるらしい。生徒会エリアの最も左側に位置する席の隣にはピアノがある。
入口から見て正面奥のエリアは、祭里と氷室の席がある段より二段低く、そこには各クラスの学級委員が座るための席が設置されていた。
時計の針が一分を刻むごとに約三人のペースで音楽室に人が増えていく。
そして、針が四時ぴったりを指すと同時に、チャイムが音楽室に響き渡った。その音の余韻までもが完全に消失するのを待ってから、司会役の生徒が喋りだす。
「それでは。これより、第二回・文化祭企画本会議前打ち合わせをはじめます」
祭里の席の後ろにある窓から見える空は、乾いた筆で塗り付けたようなペールブルーにオレンジが混ざり込みはじめていた。
前回と同様、一番最初に喋ることになるのは文実委員だ。新しく独創的なアイデアを二つ生み出すというのが、前回文実に課された使命だった。
氷室は相変わらず黙っている。なんにせよ結局は文実委員長である祭里が話すことになるのだから、黙っていても問題はないのだが。
「まず、今考えている後夜祭の流れなんですが、軽音楽部の演奏で開会して、軽音楽部終演後に間髪入れずに有志団体のパフォーマンスをいくつか、というものです。これは例年の流れなので、」
祭里は喋りながら、妙な清々しさの中にいた。こんなにすらすらと言葉が出てくる感覚ははじめてだった。胸の辺りが緊張してこそいるが、すーっと吹いてくる爽やかな風を全身で受けているようだった。自然と口角は上がった。
二週間前のあの日から、氷室と速水が人前で喋る練習に付き合ってくれたおかげだろうか。間違いなくそれは彼女が今うまく喋れていることに大きく貢献しているのだろうが、それ以上に大きな変化が自分の中で起こっているように祭里は感じていた。
「その流れのあとに、例年とは違う企画を一つ挟みたいと考えています」
「その企画とは?」司会が訊いた。
それまで
「そ、その企画は、」
周囲の視線が一身に集まってくる感じがした。ただ、多少の動揺はあるものの、なぜだか、前回のような不安感はない。
「──女装ミスコンテストと、男装ミスターコンテスト、です」
お、おおー、という、賞賛によるものなのか呆れによるものなのか釈然としない声があちこちから上がった。
「ふつうのミスコンテストとミスターコンテストもやろうとは思っています。ただ、それだけではありきたりかなと」
「……なるほど」少なくとも、司会の彼は納得できたらしい。「わかりました。二つ企画を持ってきていただくよう要請していましたが、もう一つは?」
「これはまだ、できるかどうかわからないのですが、」
次に挙げる企画は、氷室の発案によるものだった。数日前、彼はとある人を懐柔できるかもしれないという、
「お昼の時間に、校庭で、俳優・
その瞬間。空気が割れた感覚があった。
細波は、今日まででもたった三日しか登校していない。仕事が忙しいからだ。そんな彼が、文化祭などという利益にならないことに協力してくれるはずがないという意見が上がった。
しかし、前回の打ち合わせで祭里に対して痛烈な批判を繰り返していた少女が、今度は祭里の側に味方していた。これこそが、氷室の描いていたシナリオだった。彼の言っていた『とある人』とは、彼女のことだったのだ。
「あたしはいい企画だと思いますけど⁉︎ もし実行してくれるなら、私は今の文実委員長を全力で推します! 推しまくります!」
一方で、前回の打ち合わせの際に、──そんなおどおどしてて、文実委員長できんの? 大丈夫?──と何とはなしに言うような口ぶりで祭里に問いかけてきた茶髪の少年は、今回も変わらず否定的な立場だ。
「いや、企画の良し悪しじゃなくて、現実的にできるかどうかって話をしてんの。無謀ではないと思うけどさ、彼も忙しいんだから」
その口論がどんどんヒートアップしてゆく。上がっていた祭里の口角はひきつったようになり、しだいに真一文字に近づいていった。
事態の収拾を図ろうと、司会の生徒が「静粛に」と言う。しかし、彼女らの耳には届かない。
口論はあらゆるところに飛び火してゆく。その声も大きくなっていき、彼女らは叫びながら互いに口撃を浴びせはじめた。
「だいたい君さあ、前回まで文実委員長に対してめっちゃ否定的だったじゃん。急に意見変わりすぎじゃない? 手のひら返しすぎて複雑骨折してない?」
「あたしはただレンくんの話が聞きたいだけ! 本音を言えばレンくんには委員長でいてほしかったけど! というかレンくんの下で働きたかったけど‼︎ レンくんの意思を無視してまでそんな思い持ちたくないし‼︎ それに、あたしは
「いつから委員長が細波くん推しになったんだ? ただ彼のトークイベントを企画しただけだろう⁉︎ というかオタクなのかあんた、やかましいな、黙ってくれないか」
「はあ⁉︎ オタク迫害すると痛い目見るわよ! 最近のオタクは社会的に認められてきて強いんだから!」
司会は諦めたのか、彼女らを放置して議事を進めはじめた。
「……では、今挙げていただいた企画についての審議に移ろうと思いますが、」
言いながら、彼は何とはなしに祭里の方を見る。──そして一瞬目を見張り、怪訝な顔をした。
先ほどまで、自信満々とまではいかずともはきはきと喋っていた祭里は、背中を丸め、両耳を手で覆い、うずくまっていた。震えてもいた。
その原因については、本人を除いて誰もわからなかった。氷室だけは、薄々と感じてはいたが。
「え、えー……。そ、そうだ問題点。前回の打ち合わせのあと、生徒会内部で話し合いをした結果、いくつかの問題点が浮き彫りになったので……」
しかし、もはや誰も聞いてはいなかった。
祭里の震えは、彼女自身がかつてから抱いていた問題だけに起因するものではなかった。複雑な要因が絡んでいた。
(なんで……今……。せっかく、はきはき喋れて、みんなからそこそこ認めてもらえたのに。なんで……もう、いやだ、こんな私……)
いつものように、襲ってくるのは自己嫌悪の波だった。
大事なタイミングで体調を崩すというのは、彼女自身が自覚している運命のようなものの一つだった。そしてもう一つのそれは、順調になってきたときに、どん底まで突き落とされるような事件が起こること、だった。
(なんなの、私)
そのとき、扉が開いた。光を背に、三人の影がそこに立っていた。
「──ひっどい有様。向いてないんじゃないかな、今の君は」
《註釈》
※1:同じ対象を応援するファンのこと。
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