第19話 向いてねえよ(5) 

「……今度は、僕の話を聞いてくれる?」


 開け放した扉から夜風が吹き込むプレハブで、速水はゆっくりと語りだした。


          *


 あの日──僕が高校二年生になったばっかりのある日、赤と橙の光が差し込む教室でね、その光を背に安斎先生は言った。


 ──あなたを文化祭実行委員長に任命します。


 窓の外では、散った桜の花びらが──花吹雪というほどではなかったけど──舞ってた。


 いきなりのことで驚いたけどさ、「やっぱりな」っていう気持ちもあった。入学したての去年の時点でも、友達や女の子からの推薦が多かったからね。


 そんな僕だからさ……きっと仲間もたくさんいるだろうし、素敵な文化祭をつくっていきたいな、なんて思いながら、ある日引き継ぎを受けるためにプレハブに行ったんだ。


 そのとき、はじめて知らされた。


 僕以外に文実委員はいないって。


 愕然としたね。


 正直、自分は人気者なんだって、自分でも思ってた。休み時間に話しかけてくる友達の波が途切れることはなかったし、どんな輪の中心にも僕はいたから。みんな僕を頼ってくれるし、僕もその気持ちに応えてあげていた。だからきっと、こういう大きな仕事に挑戦するとき、みんな協力してくれるだろうと思っていた。


 まぁ……結構、心にくるものがあったね。


 これは後で知ったことなんだけど、誰かが「文実はブラック委員会だ」って話を吹聴ふいちょうしてたらしい。そのせいで、誰も協力してくれなかった。


 それでもね、教室にいれば、みんな「頑張って!」「応援してる!」って声をかけてくれるんだ。そんなことされちゃったらさ、期待に応えたくなっちゃうじゃん。だから、しゃかりきになって頑張ったよ。


 最近後野さんがやってる仕事と同じことをね。


 そして迎えた、企画会議の前の二回ある打ち合わせの初回。


 ……ボコボコにされたよ。


 ──委員を一人も集められない委員長にこんな大仕事が務まるんですか。


 ──企画も月並みなものばかりですが。


 必死になって考えた企画だったから、みんなに賞賛されると思っていた。でも、そんなことはなかった。


 ケチがつけられていくごとに胸に矢が突き刺さってくるようだった。あの棚田みたいな形の音楽室は、悪魔の祭壇なのかと思った。もちろん、その打ち合わせには学級委員も集まっていたから、何人か友達も来てたよ。


 ……でも誰も助けてくれなかった。


 理不尽な罪に問われて公開処刑をされる中世フランスの人はこんな気持ちだったのかな。周りに自分を助けられる人はいっぱいいるはずなのに、誰も助けてくれない。されるがまま、終わりのときを待つ。


 それまで、僕は輪の中心にいることは多かったけれど、自分一人でみんなの前に立つことは一回もなかった。


 そこで気づいたんだ。僕は一人じゃ何もできないんだって。


 しかも、友人はいっぱいいるけれど、誰も大変なときに助けてくれはしない。


 打ち合わせのあと、失意の中で家に帰ったよ。


 そのときは、とにかく母さんのあたたかさに慰められたかった。あの膝の温もりに、癒されたかった。戦場から帰ってきて──逃げ帰ってきて、子供に帰りたいと思った感じかな。


 母さんは離婚してから、ずっと一人で僕を支えてくれた。大変なときには優しく接してくれた。僕はそんな母さんが大好きだった。


 それで家に帰ったら……母さんは倒れていた。


 何回「母さん!」って呼んでも、返事はなかった。


 目からぶわっと涙が溢れ出してきて、そのうち何滴かが母さんの頬に落ちて、そこを伝って床に落ちた時、気付いた。


 ──救急車。


 それから急いで救急車を呼んだけれど、間に合わなかった。過労に起因する心不全とのことだった。


 ……母を殺してしまったのは僕なのかもしれない。医者は、こう言っていたから。


 ──あと少し早ければ、助かったかもしれません。


 母さんを呼んでいる間に、泣いている間に、救急車を呼んでいれば、母さんは助かっていたのかもしれない。


 辛かったし、悔しかった……。


 でも、誰も助けてくれないんだ。父親の連絡先は知らないし。


 学校に行ったら、みんな色々声をかけてくれた。でも、そのどれも、今じゃ覚えてないくらい軽薄で、上部うわべだけのものだった。いや、そんな風に感じただけかもしれない。


 その後文化祭実行委員の仕事もどんどん忙しくなっていって、第二回の打ち合わせでも打ちのめされた。


 救ってくれる人もいなければ、抱きしめてくれる人もいない。


 僕は一人だ。弱いのに一人だ。


 でも、悩んでなんかいられない。悩んだら、また取り返しのつかないことになってしまう。


 これからは、悩むより先に動く。


 頑張らなきゃ……。


 それからの日々は、飛ぶ矢のようなスピードで過ぎ去っていった。


 ある日、学校で、僕は倒れた。


 目を覚ましたとき、病院のベットの上だった。するとすぐに、誰かが抱きしめてくれた。久しぶりの温もり。自然と涙が溢れた。


 安斎先生だった。ごめんね、と何回も言っていた。でも、あたたかく抱きしめてくれた。


 先生の隣には、見ず知らずの華奢な女生徒がいた。彼女は今日までの僕を見ていてくれたらしく、経緯をすべて安斎先生に話したらしい。


 その子は、翌日すぐに文化祭実行委員に入ってくれた。これまで入れなかったのは、人気者だった僕と二人になるのが怖かったかららしい。でも、僕の「人間らしい面を見て、どうしようもなく支えたくなった」んだって。


 ……自分は単純なやつだなとか思いながらも、好きになっちゃった。


 だってさ、傷を知ってくれて、その上で支えようとしてくれるなんて、あまりにも……あまりにも……ね。


 まあ、とにかく、僕は彼女に救われた。できるだけ好意を隠しながら文化祭実行委員の仕事に彼女と二人で取り組んだ。


 そして少しずつ、本当に少しずつだけど協力してくれる人も増えていった。彼女に嫉妬した女生徒たちとのいざこざもあったけど、そのあとにはみんな協力してくれた。雨降って地固まるってやつだね。


 結局、彼女と恋仲になることはなかったけれど──文化祭は最高の出来になったし、彼女とも「ありがとう」って、笑いながら言って別れられた。これが、きっと一番幸せな僕の文実委員長としての日々の終幕だったんだと思う。


 そうして、今に至るんだ──。


          *


 速水はそう話を締め括った。


 祭里は涙ぐんでいた。速水の話と自分の話に重なるところが多かったからだ。やはり、この世に生きる人は、誰でも孤独を抱えているのだろう。


「……僕がここに来たのは、今言ったみたいな過去を思い出して懐かしくなったのと……」


 彼はおもむろに椅子から降りて、そのゆっくりとした動作で正座した。そして両腕を広げた。


「──辛いときに、抱きしめてくれる人がいたら、きっと心強いだろうなって、思ったから」


 祭里は、我知らず、速水の胸に吸い込まれるように飛び込んだ。彼は祭里を優しく抱きしめながら頭を撫ででくれた。


 言葉を紡ぐ余力もなく、祭里は慟哭した。


 あたたかい。


 これまで受けてきた傷が、じわぁと音を立てて癒えていくようだった。


 そういえば、こんな温もりをくれる人が、昔いた。


 母もそうだけれど、もっとあたたかく、柔らかい温もりをくれる人が。


 けれど、その人はもういない。最後の最後に彼女の胸に穴を開けて、天高く飛び去っていってしまった。

 

 その心の穴を、速水が埋めてくれたような気もした。


 数分後、彼女を抱きしめたまま、氷室は口を開いた。


「後野さん」


 祭里はかぶりを振りながら、ぼそっと呟く。「……り」


「え……?」


「……ごめんなさい。今は、まつり、って、呼んでくれませんか」


 速水は、彼女の瞳に自分であり自分でない誰かが写っているのを見て、こくりと頷いた。そして、彼女の後頭部を撫でながら、声を大人びさせ、ゆっくりと言う。


「まつり、がんばったね」

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