第17話 向いてねえよ(3)
(あれは……)
祭里の目に留まった紙には、電話番号が記されていた。
(あの番号……)
1
「突然何の用だよ」
夕焼け空の下、坊主頭の少年が、公園で彼を待っていた。「朝、急に連絡してきやがって」
「ちょっと聞きたいことがあってな」
そう答えた彼に対し、坊主頭の少年はなんともいえない表情をしてみせた。悲しんでいるようでもあれば、怒っているようでもあった。
「いまさらなんだってんだよ。──氷室」
坊主頭の少年が待っていたのは、氷室だった。例の打ち合わせがあったばかりなので、詰襟の制服姿だった。
二人がいるのは、氷室の家のすぐ近くの公園だ。
氷室は、少年に向けて軽く頭を下げた。
「あのさ……悪かった。時間が経って、いろんな出会いがあって、気づいたことがあるんだ。だから……お願いだ、教えてくれ」
直後、二人は同時に口を開いた。
「あのときのことを」
「あのときのことか」
空から降り注ぐ夕焼けの赤を目一杯受けながら、氷室は真ん中に手すりがある二人掛けのベンチの右側に座り、自身の手に真っ黒のグローブを取り付けていた。
坊主頭の少年は彼の隣には座らず、三メートルほど離れた別のベンチに座り、氷室と同じことをしていた。グローブは夕日が沈みかけている今の空模様のような
「……あの日のボール、持ってんだろ、氷室」
坊主頭の少年は、そう言って氷室の方に視線を向けた。ストレートの投球のような真っ直ぐな瞳だった。
「──ああ。ユーキ」
坊主頭の少年は、名を
彼は空を見上げながら一度深く息を吸い込み、すぼめた唇からフゥッと吐き出した。そしていかにも野球児らしいシンプルな真っ白のキャップを深くかぶった。「──つまんねぇ」
首をかしげた氷室を見て、勇気は退廃的な笑みを浮かべた。
「──ほんッとにつまんねえんだわ。毎日。お前が、野球できなくなってから」
氷室は澄ました顔をしている。彼は顔を伏せ、グローブの中にあるボロボロのボールを見つめた。
そのボールを見ていると、胸から上のあたりが強張ったようになる。腹筋に力が入っているような気もする。
氷室は一瞬小さく息をつき、投球のフォームに入った。そのときの彼の脳裡には、先ほど二人が話していたあのときの記憶が蘇っていた。
*
轟木中学の暗い廊下を、中学三年生の氷室は歩いていた。照明は消されていた。窓からは、藍色の
後ろから、ドタドタという騒々しい足音が、老朽化した廊下の床板が軋む音とセットで追いかけてきた。
「──おい、待てよ、氷室」
呼びかけられて振り返ると、そこには水島勇気がいた。
「なんだよ」
氷室は面倒くさそうにそう言った。
「お前、ほんとに野球部やめんのかよ。大人に禁止されたくらいで、やめちまうのかよ……野球……」
勇気は言いながら顔をゆがめ、首を横にブンブン振り回した。
「……違うだろ。お前は、野球に対して、誰よりも正直で、誰よりも誠実だった。一流の選手は道具を大切にするってよく言うけど、お前はまさにそうだったじゃねえか。あんな、小学生をバットで暴行なんて……。ありえねえよ……」
氷室は鼻を鳴らした。
「そうだろ、ありえねえだろ。軽蔑しろよ」
「──そぅじゃねェッ!」
勇気は全力で叫んだ。「そぅ」の部分で声を自分の胸に落とし込むように低め、「じゃねェッ!」の部分ですでに歪んでいる顔をさらに歪めながら
「ありえねえのは、あのニュースだよ。あんなこと、お前がするわけねえだろ」
「……」
氷室は無言で彼に背を向けた。そのまま、窓から差し込む街灯の光が薄れていく奥の方へと歩いていき、闇の中に姿を消してしまった。
「おい、なんとか言えよ、氷室! 氷室ッ‼︎」
その翌日から、勇気は野球部の練習もそっちのけで、毎日氷室の帰路に同行した。そこで「野球やろうぜ」「一回だけでも」と声をかけ続ける。
氷室にとっては、勇気がとにかく鬱陶しかった。氷室と勇気は、市内最強のバッテリーだった。だからこそ、鬱陶しかった。
ある日、氷室は家に戻ってから、バットを持って、再び玄関の扉を開いた。勇気は、いつも氷室が家に帰ってから数十分そこで待ち続けていた。
(こんな発想が出てくる時点で、俺はもう終わってんな。ベースボールプレイヤーとして。人として)
氷室はそれで殴りかかってやるつもりだった。もちろん、当てるつもりはない。勇気の野球人生を終わらせたくはない。ただ、勇気に、いや、勇気にだけは、軽蔑されたかった。
──このクズが、お前なんて野球を奪われて当然だよ。一生戻ってくんな。
その言葉が欲しかった。
それなのに、勇気はとんでもなく無邪気な笑顔を咲かせて、「野球やってくれる気になったのか!」などと言ってきた。
氷室は調子が狂って、勇気に流されるようにして、家のすぐ近くの公園に行ってしまった。
ダメだ、と思った。何と何によるジレンマなのかはわからないが、とにかく強い葛藤に苛まれていた。
「いくぞー」と勇気が言った。
弾けるような、無邪気な笑顔だった。
(やめろ……。やめてくれ……)
その瞬間、氷室はバットを投げ捨てた。無意識だった。そのまま勇気の方へと走っていき、彼の胸ぐらを掴む。
「……クソッ!」
冷静な自分が、何をやっているんだと咎めてくる。一方で、意固地な自分は鎮まらない。
喉元まで込み上げた言葉を呑み込むのは難しい。今のような、怒りに支配されている時であれば、なおさら。
「……ッ鬱陶しいんだよ! その顔やめろよ、やめてくれよ! 馬鹿みたいに、何も知らない善人みたいな顔しやがって! 頼むから、もう二度と、俺の前に現れないでくれ!」
勇気の頬に一発だけ平手打ちし、氷室は公園を後にした。
「……ッ。バカヤロ────────ッ!」
勇気のその咆哮が、赤い空に吸い込まれていった。
*
「……あのとき、公園で最後の野球をしたとき、お前は俺を励まそうとしてくれてたんだよな」
氷室は、懐古しながら、水島とのキャッチボールを続けていた。
勇気はこれまでのキャッチボールの流れに、ごく自然と「当然だろ」という言葉を組み込んだ。
「……ああ、普通に考えたら、当然だってわかる。でもあのときの俺には……。いや、あのときの俺も、わかってた。でも、何故だか認めたくなかった。他人に懐柔されたくないっていう、クソみたいなプライドがあったのかな。死ぬほど辛かったからこそ……簡単に励まされたくなかった」
勇気は何も言わない。
「なあユーキ、教えてくれ。あのころの俺みたいに──自分の変な決意に固執して、意固地になって、
勇気のグローブが、パン、と音を立てた。「俺は、失敗したんだぞ。お前を救うのを」
氷室はかぶりを振る。「それでもいい」
勇気は諦めるように笑った。「変わらねえな」
彼は空を見上げる。もうほとんど夜の様子だ。公園の上は紺色で満ちていて、西側に少しだけ
しばらくの
「自分の決めたことに真っ直ぐで正直なところ。それが変な方向にいっちまった結果が、さっきお前が言ったような状態なら……」
勇気は顔を氷室の方に向け、無邪気な笑顔を咲かせた。
「──真っ正面からぶつかってみるしかねえだろ。俺とお前みたいに、疎遠になっちまうかもしれねぇけど、そうしなきゃ、相手は一生土壺にはまってるかもな。まぁ、疎遠になっても、今日の俺たちみたいに仲直りできるかもしれないし」
氷室も、思わず頬を緩めた。
(この笑顔に、俺は弱い)
その時の彼の脳裡には、保育園のときによく見せていた、祭里の笑顔が蘇っていた。
(あまりに善人すぎるんだよ、お前らみたいなのは)
2
「──もしもし」
祭里が電話をかけると、忙しいであろうその人は、すぐに電話に出てくれた。
「突然すみません。お話、聞いてもらえますか」
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