紗耶香の罪①
高いトーンの鐘の響きと電子音の組み合わさったエレクトロニクスチャイムとともに、教室の中へと生徒が一斉に入り、雄二が前の席に座る。雄二君と声をかけようと思ったが、雄二の服を見て思いとどまった。
雄二が昨日と同じ服を着ていることは紗耶香にとって胸をかき乱す事案だった。善の骨頂である雄二が何であんな善のかけらもない女なんかと付き合うのだろうか。
紗耶香は不快に思い眉をひそめたが、周りの友達にそれを外られないよう目が疲れている振りをした。
紗耶香は善であることこそ自分の使命であると思い込んでいた。
紗耶香の家族は、父も母も警察であった。紗耶香が勉強が出来なくても何も注意することがなかった両親は善と悪に対してだけは厳しく躾けていた。紗耶香の両親にとって善とは、モラルや罪に反せず人を助ける行為を指した。荷物が多いおばあさんがいたら、それを持ってあげる。悪いことをしている人がいたら注意してあげる。道を聞かれたら素直に答える。困っている人がいたら自分を犠牲にしてまで助ける。
両親は紗耶香のそのような行為を盛大に褒めたたえた。紗耶香もその行為を率先してすることで、両親の表情筋がほころぶのを見ることが出来ると思うと非常に嬉しかった。その時だけは家族になることが出来ている気がしていたのである。
その実、紗耶香の両親の夫婦仲は最悪なものであった。正義感が強い父と母は、国民を守るという立派な使命のために休日出勤もたびたび行い、自身の主張を曲げることを知らない。衝突し合うのは当然の事柄であり、怒号が飛び交うのが日常茶飯事だった。
ある意味、自分が正しいと思ったことには何も考えず突き進むだけの美しいまでの直情的な魂を互いに持ち合わせていたのだが、それは幼い紗耶香にとって良い影響を与えるばかりではなく、曲がりくねった生き方は許されないという原罪を背負わせることになってしまったことには終ぞ気づくことはなかった。
ある日紗耶香は、自身を顧みず仕事に明け暮れる両親を見て、一つ罪を犯してみたい気持ちになった。中学二年生夏期講習の帰り、コンビニに寄り、お菓子を万引きしようと考えたのである。
これが紗耶香にとって初めての罪の体験となる。
これから罪を犯す人間とは考えられないほど平然とふらっと立ち寄った。夜のコンビニほど格好のターゲットはない。従業員は疲れて注意が回っておらず、万引きのそれを注意深く見るような客もいない。沙耶香は目の前にある30円のチロルチョコに狙いを定めた。
常々、万引きは窃盗罪だ。万引きという名前で済まされているが、刑法を侵すことを忘れるな。と両親が何度も復唱していたことがここで思い返さされる。
そう、私はその両親を「裏切る」のだ。いい子である自分が瞬く間に虚像であったかのように遠く感じた。呼吸を少し整え、息を止める。心臓の音がどくどく耳の中まで聞こえてくる。ポケットの中の手を開いたり閉じたりして手の具合を確かめる。
……よしいける。一歩、二歩……盗った!よしこのままコンビニを出るぞ。誰にも気づかれないよう慎重に歩いて出る。ポケットに手を突っ込んでいるのは怪しくないか、目線は正しいだろうか、再三注意をした。後をつけてこないか心配だったが、その心配はどうやら杞憂で終わりそうだ。心臓が口から飛び出そうなほどバクバク言っている。
私は両親を裏切ったのだ。手の中にあるチロルチョコが罪の凝縮された烙印であるかのように感じた。これ以上の喜びがどこにあるのだろう。
罪という言葉は「両親を裏切る」という意味を持つ紗耶香にとって甘美な響きを含んでいた。家に帰って怒鳴り散らし合っている両親を見ても何ももう感じなかった。紗耶香は既に両親の善を砕いてのみ込む必要がなくなった証拠をこのポケットの中に持ち合わせていた。
しかし、次の日ワクワクして罪の烙印を確認すると、それはただの変哲もないチョコに変身していた。紗耶香にとって烙印は一時の裏切りに過ぎなかったのである。肩をすっかり落とした紗耶香はそれを無造作に解くと口の中にほうりこんだ。
……あれ、違う、違う!そうではない。……なんだこれは。甘い、苦しい、でも甘い。なんて美味しいのだろう。チョコの甘さは喉の水分をすべて奪い尽くし、紗耶香の裏切りはここに存在したと証明してくれたのだ。両親の善をすべて奪いつくチョコの熱さ、痛さ、そして消えていく悲しさ。
チョコ一つされどチョコ一つ。
紗耶香は目から大粒の雫を落とした。この両親への裏切りは確かに存在したことがしっかりとチョコに刻まれていたのを確認したからだ。この美味しさという両親への裏切りは誰でもない紗耶香の体内に取り込まれる。
この何にも形容しがたいチョコ美味しさをもっと味わってみたい。
しかし、紗耶香には裏切りをもう一度しようと実現する機会はなかった。なぜなら、そののち一か月もたたないうちに両親が離婚をしたからである。
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