雄二の憂鬱

 意味が分からず、ホテルからおいていかれた雄二は少し経つと平静さを取り戻した。これは雄二の良いところであり、また悪いところである。変に雰囲気に陶酔することが出来ないのだ。余韻というものが雄二の中には欠けていた。余韻のある人生を送れるのは、余韻のある生活を送れたものだけだと雄二は考えていた。

 余韻を感じる暇があるのならば、雄二は今この場所にはきっと存在しなかったであろう。父に与えられたものをこなすだけの器用を持ち、何でも悠然とこなしてきた雄二は、それが不自由さであるとの認識すら持ち合わせていなかった。

 父に言われたから勉強で良い成績をとる。他人が良いと勧めるから生徒会に入る。塾の講師がこの大学に受かってほしいと言われるからその大学に入る。

 自分の定言命法として決めた「弱いものを救う」これに反しない限り、雄二はすんなりと物事を行った。それに対して疑問を持つことがなかったからである。

 いや疑問を持つということを知らなかったというほうが正しい。自分の信念を曲げられない限り、雄二はそのほかのことは心底どうでも良かったのである。

 ただ、桃子においては少々取り乱した。なぜなら、彼女は弱さの象徴であったからである。弱いものを救うという信念に対して、救わないまま桃子を放り出してしまったのではないのかと恐怖を抱いた。

だが、それも長くは続かなかった。弱い女が自身のペニスを握り、さようならも言わず退出するようなことがあるだろうか。これは弱いものではなく、むしろ強者がとる行動ではないのかと雄二は考えた。弱いものは母の様にきっと守られるべきものであり、桃子の様に暴力といった手段に出るわけがない。

 彼女の中に見出した母の存在はたちまち打ち砕かれることになった。桃子は弱い人間ではない。そう結論付けるにはそう時間はかからなかった。少し頭を左右にひねり、先ほどの強烈な痛みを感じたペニスをなでるようにさすると、雄二は洗面台の方へ向かい何事もなかったかのように歯を磨き、就寝した。


 次の日、目を覚ますとスマホに三件ほど桃子からメッセージが届いていた。開くと、「昨日は帰ってごめんなさい。女らしいと言われたのが少々気に食わなかった。」「あなたのことは大切にしたいと思っている。ただ、女らしいというのはやめてほしい」「今度の日曜日、ラフマニノフのピアノリサイタルがあるから一緒に行きませんか」とクマのかわいらしいスタンプが押してあった。

 雄二は、少々この桃子の行為に首を傾げた。女らしいと言われることが彼女にとって心底嫌なことであったのだろうかと。

 雄二にとって女らしいは最高の誉め言葉と考えている。誰にでも見いだせるわけではない心の奥底に持った女らしさがあるのは、寧ろ特権的でどの人にもまねができないものであると思っていたからである。

 そのまま指がタッチパネルから動かず、空をなぞる。なんて返信しようかと考えあぐねているのも、桃子に対して昨日彼女は弱くないと結論付けたばかりであるからである。

 女を見いだせない彼女にこれ以上付き合う必要があるのかと自問自答を繰り返す。

 そして極めつけはこのラフマニノフである。雄二はラフマニノフが好きという女を好きになれはしなかった。ロシア特有の低音でもの悲しい暗さを感じさせる重厚な音に共産圏の冷たさと苦境を感じさせるマイナーの響き。雄二にとってラフマニノフは父の象徴であった。

 父が持っている雰囲気にラフマニノフはそっくりであるのだ。偉大で超えられない厳しさと母を無下にする小さいつららのような刺してくる冷酷さを持つ雄雄しい曲。

 むしろバッハやモーツァルトが好きとどこか答えてほしかった自分がいる。バッハのキリスト教をもじった教会音楽の母を象徴するような温かみとモーツァルトの音遊びを繰り返すような楽しい音楽。

 雄二にとって、女らしいとは強さではなく弱さを表すものであったのだから。少し考えた後、高圧的にこう返信することにした。



「君の行動は確かにいきなりであまり良いとは取られない行動であったと思う」

「君は女であることに困ることがあるのか」

「ラフマニノフは少々嫌いでね、同じ日にバッハのコンサートを見に行こう。時間はまた日を追って説明する」



 雄二はそのまま返信が返ってくるのも確認せず、大学が始まる時間に合わせて、課題を丁寧に終了させ講義を受けに行くとした。


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