ガラスのリノウ
梅雨もまっただ中のある雨の日、珍しく昌の母さんが俺の見舞いに来た。おばさんは多くを語らず、俺の具合だけを手短に聞いて頷いて、鞄から一通の封筒を出して渡してくれた。
「あの子の日記、最後に使てたのは一緒に沈んでしもたみたいで古いのしか帰って
俺は礼を言って手紙を受け取った。息子を亡くしたおばさんは最後に会ったときより格段にやつれていたけれど、俺よりはまだ健康そうに見えた。
昌が死んでから、俺は日がな一日、今までに受け取った昌からの手紙を広げては読み返す日々を送っていた。最後の手紙は暗唱できるくらい読んだ。手紙に書かれた日付けは四月の中ごろ、ちょうど昌が呉に赴任して二、三週間くらいのものだ。最後のページまできっちり書き込まれた手帳の背表紙のところに挟んであったのだとあとから聞いた。
それにしても訃報しか聞いていないからだろうか、どの手紙を読んでも不思議と涙は出なかった。しかし七月、宵山が近付いてきた頃、体調が急に悪化した俺はそれどころではなくなった。
熱が出て何日も下がらなかった。咳がひどくなり、咄嗟に口を覆った手に血がつくようになった。熱に浮かされて同じ悪夢を何度も見た。夢の中では、あの白い軍服を血と膿でどろどろに汚し、潰れた顔に歪んだ丸眼鏡をかけた昌が、指が五本ともバラバラの方向に曲がった手で俺の背をさすろうとした――俺はそのたびに飛び起きて布団に吐いた。むせたらそのまま咳が止まらなくなって吐瀉物の上に血が飛んで、日に何度もそんなことがあったから俺はどんどんやせていった。もちろん食欲なんてなかった。どれだけ弱っても咳だけは出続けた。このやせ細った体のどこにこんな力が宿っているというのだろう勢いで、咳は俺の体を締め上げた。起きて咳き込んでいると今にも内臓が口から飛び出しそうだったが、寝たら寝たで悪夢で飛び起きて嘔吐するのがおちだった。困り果てた主治医の先生が知り合いという精神病の医者を連れてきたが、まさか昌のことを言うわけにもいかず、俺は遠くの方で警報が鳴っているのをぼんやり聞きながら最悪と最悪のはざまでまどろんで過ごしていた。
「なあなあ
ふと耳に飛び込んできた少年の声に、俺はハッと目を覚ました。病室を見回すと、窓から伸びる陽だまりの中に少年が座り込んでいる。隣の蓄音器に首をかしげていると、そこは一瞬のうちに
絨毯の敷き詰められた洋風の部屋、大きくて背の高いベッド、窓際の勉強机、金魚鉢の乗った背の低い棚に、子ども部屋には不釣り合いな蓄音機。机側の窓は全開で、何ともいえない夏の空気を取り込んでいた。蓄音機の横、曇りガラスの飾り窓からは鈍い夏の日差しが差し込んで、少年の座る床をぼんやり照らしている。九つか十だろうか、床の少年はまん丸い坊主頭にくりくりと大きい目が特徴的で、その前にはレコードがばらばらと散らかっていた。
「……昌か?」
思わず呟いた俺に、幼い昌はきょとんと首をかしげた。
「和にい何言うてんの? さっきからぼくしかおらんで」
……これは夢なんか。思わず呟きそうになった言葉を飲み込んで、俺は代わりに咳をこぼした。久しく聞くことのなかった、軽い風邪のような可愛らしい咳が出た。
「でさあ、和にい、リノウって何か知っとる? 何やと思う?」
昌は俺よりもレコードが気になるらしく、床に広げたレコードを生真面目な顔で睨んでいる。俺はベッドから出ると、昌の横にしゃがんでレコードを一緒に見た。
ジャケットの名前はどれも外国語で、高小止まりの俺にはどれも読めたものではない。
「分からんなあ。リノウって何や」
俺は昌の質問に答えることにした。すると昌は丸い目を輝かせて、
「ぼくが今作った言葉や」
と言う。なんやそれ、と返すと
「リノウって、キラキラしてると思わへん?」
と言われた。
「こーゆうザラザラのガラスがキラキラしてんのとか、和にいの金魚がキラキラしてんのとか、全部リノウて言うたら、ただ光ってるんよりきれいそうに聞こえん?」
俺は静かに頷いた。正直リノウが何なのかさっぱり見当もつかなかったが、そう言われればそんな気もする。
「やから、」
ふと昌の声が低くなる。また場面が変わっていた。同じ絨毯、同じ調度品、同じ夏の日差しと生ぬるい空気の中、鉢の中の金魚は違う模様に変わっていて、蓄音機の横に立つ昌はぐんと背が伸びて丸い眼鏡をかけていた。着ている服は海軍機関学校の制服だ。
ついさっきまで床にばらまいたレコードとじっと睨めっこしていた昌は、今ではどれが誰の何の曲かジャケットを見れば分かるらしい。金魚鉢の棚から一枚選び、慣れた手つきで針を落とすと、少しの雑音に続いて軽快な金管の音が部屋に響きわたった。
「おじさん、またレコード買わはったんですねえ」
そうだ。このころには昌は、俺を和人さんと呼んで敬語で話しかけるようになっていた。蓄音機もレコードも俺が退屈しないようにという父さんの配慮でここにあったのだが、正直俺より昌の方がこの手のことには詳しかった。
「ええんか? 未来の軍人さんが、外国のレコードなんか進んでかけて」
からかうように声をかけると、昌は悪戯がばれた子どものようにシーッと指を口に当てた。
「ええんです! それにこれ、演奏してるんはドイツの人ですし」
それから昌は変な足の運びをしながらベッドの傍に来た。俺がぽかんとしていると、昌は耳を真っ赤にして「西洋の踊りです」と言った。
「そら、僕は運動もできひんし、踊りもヘタやけど……」
「……っは、ほんまやわ」
目を逸らせて言い訳する昌が可笑しくて、俺は声を上げて笑った。久しぶりに気分がすっと楽になっていた。
昌は笑う俺をじっと見つめていたが、ふいに左手を背中に回すと、右手を俺に差し出してちょっと腰を曲げた。
「なんや」
「僕と、踊ってくれはりますか?」
よほど怪訝そうに聞こえたのか、実に威勢よく昌が言った。俺は余計に驚いて目を見開いた。
「俺が?」
「ヘタやけど、和人さん引っ張って踊るぐらいはできます」
むきになったような返事だったが、俺はぷくっと膨れた頬が可笑しくてたまらなかった。俺は二つ返事で昌の手を取って、足の裏で絨毯をぐっと踏みしめた。
それから俺たちはレコードを取っかえひっかえ、ああでもない、こうでもないと言い合いながら部屋じゅうをぐるぐる踊り回った。昌の足取りはたしかにたどたどしかったが、俺の手を持って、腰を抱いて右に左に誘導するさまはそれでも頼もしかった。昌は俺より背が高く、体つきもがっしりしていた——俺は決して手に入ることのできない、強い男の体だった。そんな昌に貼りついて、俺はさらにたどたどしい足取りで昌を真似して踊った。ここはこうか、これはどうするねん、何やそれ、俺にはできひんわ、ちょっと待て、ああほんま可笑しいわあ。俺が声を上げて笑うと昌も丸い目を細めて笑ったし、俺が茶々を入れたら昌はやめてくださいと言って真っ赤な頬を膨らませた。俺は休みますかと訊く昌に大丈夫だと言って、次から次へとレコードに針を落とした。昌も和人さんが大丈夫ならと、棚からレコードをどんどん選んだ。緩やかなバラードをかけたとき、昌の服が例の軍服に変わっているのに気付いたが、俺は「よう
悪夢のことなどどうでもよかった。いつにも増して体が軽くてよく動けて、満たされていることがただただ嬉しかった。
蓄音機の横の曇りガラスは輝くリノウを床に投げかけて、まるで時間が止まったように、いつまでも消えることがなかった。
逆光の樹影、ガラスのリノウ 故水小辰 @kotako
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます