逆光の樹影、ガラスのリノウ

故水小辰

逆光の樹影

 骨にこたえる寒さが緩み、温かい日差しが部屋を照らすようになってきた三月の終わり、それがあきらが俺に会いに来た最後の日だった。

 看護婦さんの案内で俺の部屋に現れたあいつは、しわひとつない真っ白な軍服を着て、帽子を小脇に抱えてにっこり笑っていた。

「こんにちは、和人かずとさん」

 いつものように入り口で挨拶をしたあいつの笑顔はいつにも増して朗らかだった。こちらに一歩ずつ歩み寄る昌の、コツ、コツと床を打つ革靴の音が高らかで、軽やかで、嬉しそうで、そんな昌を見ていると思わずこちらまで顔がほころぶ。俺は起き上がり、枕を背中にずらしてもたれかかると、「卒業おめでとう」と声をかけた。

「ちょっと、まだ何も言うてませんよ」

「言わんでも分かる。卒業式終わって、舞鶴からそのまま飛んできたんやろ。里帰りか?」

 俺がそう言うと、昌はちえ、と口をとがらせる。その顔で丸椅子にストンと座るところがやけに子どもっぽくて、俺ははは、と声を出して笑った。

「面白ないやないですかあ。せっかく和人さんに一番に報告しよ思て、うち帰るより先にここ来たのに」

「それやからすぐ分かるんや。お前は昔っから……」

 そう言い返したとき、喉に何かが引っかかった。あ、と思う暇もなく、肺が押し出されそうな勢いの咳が飛び出す。一度これが始まったらろくに息を吸うこともできず、空気のない肺はこれでもかというほどに圧迫される。薄い体を跳ねさせてひたすら咳き込んでいると、昌の温かい手が伸びてきた。

「……すまんな」

 空咳を無理やり飲み込んで背中をさする昌に謝ると、昌は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。

「体、良うないんですか」

「今年は冬が寒すぎた。さすがにもう、次の冬までは持たんかもしれん」

 ため息をつくとまた咳が出そうだったからそれも飲み込んで、昌が注いでくれた水を流し込んで無理やり抑えつける。一息ついて背中の枕に体を預けて、ようやく昌の顔をちゃんと見ることができた。

 まん丸い眼鏡の奥で、丸っこい目がじっと俺を見つめている。唇を噛んで眉間にしわを寄せて、文句のひとつでも言いたげな顔だ。

 だが、底冷えの冬が年々苦しく、辛くなっていくのも事実だ。手紙の中では楽観的なことを書けても、顔を合わせればそうもいかない。それでも今日だけは、昌のこの心配そうな顔を見たくはなかった。

「なあ、そんな顔せんといてくれや。四月から軍人さんやねんろ? どこ行くんか知らんけど、俺かて暗い話で送り出したないねん。せっかく立派になったんやし、俺がどれだけ咳しても、嘘でも芝居でもええから、今日ぐらい嬉しそうにしてくれや」

 ぱらぱらと落ちてくる髪をかき上げて笑ってみせれば、昌はぐっと天井を見上げて鼻をすすってからもう一度にかっと笑ってくれた。それから、俺の肩先に落ちる髪に手を伸ばして、ベッドの脇の引き出しの上、水差しの隣に置いてあるブラシを取り上げた。



 その日は天気が良かったから、俺たちは中庭に移動して話をすることにした。太陽は東の空を昇りきろうとしていて、枯れた梢が初春の陽光を浴びて短い影を作っている。それでも節くれだった枝にはつぼみが膨らみつつあり、春の準備が着々と進んでいるのが見て取れた。

 木の真下を通りがかると、昌は海軍の帽子を軽く持ち上げて、枝を見上げて

「もうすぐですね」

 と言った。

「ここの桜はいつもきれいやから、時間があったら見に来たいんですよね」

「そういえば、お前、どこの港行くんや?」

 俺はふと思い出して訊いた。近ければ時間を工面して来れるだろうと期待して訊いたのだが、昌の答えは呉だった。

「設計図書くんが上手いから、船造ってるところに行ってこい言われて」

「やけど、遠いな。舞鶴やったら良かったのに」

 俺がぼやくと、昌は「せやけど」と言って頬をちょっとだけ膨らませる。

「呉鎮ですよ。海軍の要所です」

「そうやな。偉いもんや」

 俺は笑って、それから少し咳き込んだ。すかさず昌の手が伸びてくるのを大丈夫だと言って断ると、俺も花のない桜の枝を見上げた。逆光に目を細め、手でひさしを作って黒く影になった枝を見ていると、昔、昌に連れられて桜を見に行ったときのことが思い出された。


 もう何年も前のことだ。昔から体の弱かった俺は学校も休んでばかりで、よく家に出入りしていた昌が唯一友達と呼べる存在だった。その実、昌は俺より六つ年下だ。母さんたちが近所の若い母親どうし仲が良かった関係で、よくうちに遊びに来ていたのだ。あれは俺が高小に上がった春のこと、新学期早々風邪をこじらせた俺の部屋に昌が忍び込んで、いい場所があると言って寝巻のまま連れ出された。俺は昌に手を引かれるまま賀茂川の河川敷まで連れていかれ、追いかけてきたお手伝いさんに回収された。結局その夜、俺は下がっていた熱がぶり返して寝込み、昌は家に来た親御さんにこっぴどく叱られた。それでもあのとき見た桜、夕日を背に受けて黒々とした影になり、そよ風にぶわりと散る桜は格別にきれいだった――それ以来、桜が咲くと昌は決まって顔を出す。ふとそのことに気づいた俺は、昌に視線を戻した。ついさっき、時間があれば来たいと言ってはいたが……

「でも、呉におったら、こっち来れへんのとちゃうん」

 首をかしげた俺に、昌はばれたか、と言うようにぺろっと舌を出した。

「そうですよねえ? やっぱり今日来といて良かったです」

 新任の海兵がどれだけ忙しいのかは俺には分からないが、中学を出て、士官学校も出たからには、すでにそれなりの肩書がついているはずだ。就任前の今でないとまとまった時間は取れないのではないか、という俺の疑惑はあっさり的中した。

「このあと家に顔出して、荷物まとめたらすぐ呉に発つんです。やからほんまは全然時間なくて」

 申し訳なさそうに眉根を下げた昌に、俺は「別にええよ」と返した。

「やったら、俺に構うのもほどほどにして、はよ帰ったげ」



***



 真新しい軍服に身を包んだ昌は、丸眼鏡の奥で誇らしげに笑いながら、また手紙書きますねと言い残して病院を去っていった。それから十日ほどして桜が咲いて、昌から手紙が来た。俺は返事を書いて、馴染みの看護婦さんに郵便局に持っていってもらった。

 五月には、見舞いに来た母さんが、昌ちゃん元気にやってるみたいよ、と、昌の母さんから聞いたという話をそっくりそのまましてくれた。俺は咳き込んだり笑ったりしながら、昌に宛てた手紙を母さんに預けた。あいつの誕生日が近かった。


 そして六月。昌の乗っていた艦船が沈んだ。

 昌の家には訃報と遺品だけが届けられ、俺は母さんから簡単なあらましだけを聞かされた。

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