4-6 後悔だけはしたくない

 時刻は午後四時五十五分。

 京ケン先生が特集される番組は五時から始まるため、どうやらギリギリ間に合ったようだ。侑芽夏と水琴はフロントで受け取った荷物を部屋に下ろして、靴からスリッパへと履き替えた。


「ふぅ。何か、ようやく一息ついた感じだよ」

「お昼食べてからずっと歩きっぱなしだったもんね、あたし達」

「……うん。自分の食欲にビックリだったよ」


 昼食後の食べ歩きを思い出し、侑芽夏は苦笑を浮かべる。しかも結構動き回ったからか、しっかりとお腹は空いてきているのだから驚きだ。


「パンはまだ駄目だよ?」

「う、うん。わかってるよ」


 水琴の言葉に、心の中を覗かれたような気分になる。

 侑芽夏はますます苦い笑みを作り、やがて恥ずかしさから逃げるように窓の外へ目を移した。


「夕焼けでこれだけ綺麗なら、夜景はもっと凄いんだろうね」


 茜色に染まる横浜の街並みを眺めながら、侑芽夏はぽつりと呟く。


「だね」


 頷きながら、水琴も窓の外の景色をじっと見つめている。

 まるで、非現実的な光景に包まれているような気分だった。

 二つ並んだセミダブルのベッドに、開放感のある大きな窓。どうやらこのベッドルーム以外にもリビングルームがあるらしく、しかもバスルームからは海が眺められるらしい。

 スイートルームとは聞いていたものの、まさかここまで豪華だとは思っていなかった。しかし、色々と見て回りたい気分に駆られつつも何故か身体は動かない。


「後悔だけはしたくないな」


 代わりに零れ落ちたのは、こんな本音だった。

 この夢のような時間は一生続く訳ではない。

 旅が終わった先に待っているのは、戦いの場所だ。アニソン戦争に選ばれただけで嬉しい――という気持ちも、ほんの少しくらいはある。まだ声優デビューもしてない頃の自分に教えてあげたいくらいだ。遠くて仕方がなかったアニソンの世界が、目の前まで迫っているんだよ、と。


 ――でも、違う。


 勝ちたい。水琴と二人でアニメソングを歌いたい。

 アニソン戦争で自分達の全力をぶつけたい。


 湧き上がる気持ちが溢れて止まらなかった。

 侑芽夏と水琴にできることは、アニソン戦争のステージで歌うこと。ただそれだけのことなのに、「他に何かできることはないか」なんて考えてしまう。


 水琴と向き合って、二人で前を向いて――それから、どうしたいのか。

 ついつい、考えを巡らせてしまう。

 すると、


「ねぇ、ユメ」


 気付いた時には水琴の顔がすぐ隣にあった。

 距離感を間違えているのではないかと思うくらい、水琴の顔が近い。

 そんなに自分はぼーっとしてしまっていたのだろうか。侑芽夏ははっとして、「そっか、テレビのあるリビングルームに行かなきゃ」と思った。

 しかし、その前に水琴が口を開く。


「無謀なこと、言っても良い……?」


 囁くように呟きながら、水琴はおもむろに一冊のノートを差し出してきた。小首を傾げながらも受け取ると、水琴の小さな身体がますます縮こまってしまう。


「見て良いの?」


 訊ねると、水琴は恐る恐るといった様子で頷く。

 こんなにも弱々しい水琴を見るのは初めてだった。いや、色々と本音を告げられた時の水琴も弱々しかったが、それとは種類が違うのだ。


 自信がなさそうというか、恥ずかしそうというか。

 とにかく、いつにも増して小動物感が強かった。


 水琴の視線に妙な緊張感を覚えつつも、侑芽夏はノートを開く。


「…………っ」


 そこに書かれていたのは――歌詞だった。

 多分、『peace sign TREASURE‼』の歌詞なのだろう。

 元々の歌詞と同じく夢と希望に溢れていて、前向きな気分になれるメッセージが込められていた。


「キミ。これって……」

「…………」


 夕日のせいなのか、水琴は赤面したまま固まっていた。

 しかし、やがて覚悟を決めたようにこちらを見つめてくる。


「今の歌詞に納得がいってない訳じゃないよ。だけど、『娯楽運びのニンゲンさん』のことを考えていたら、新しい歌詞が降ってきたっていうか……。逃げたいけど、怖いけど、それでも何かできることはないかって。それで……」


 だんだんと、水琴の声が小さくなっていく。

 俯く水琴の肩を、侑芽夏は咄嗟に抱き寄せた。でも、水琴の顔を見ることはできなくて、まっすぐ外の景色だけを見つめてしまう。


「ありがとう」


 それ以外、何も言えなかった。

 辛いことや悲しいことをたくさん抱えて、逃げたい気持ちも怖い気持ちもあって。それでも彼女は、少しでも動き出そうとしていた。

 ただただ水琴のことで悩み続けていた自分が馬鹿だと思うほど、彼女の姿が眩しく見える。


 ちゃんと、彼女は隣にいた。

 Lazuriteの相方として、立ってくれていたのだ。


「『娯楽運びのニンゲンさん』は出会いの物語だから。あたし達二人で歌うから意味がある……そんな曲にできたらなって思って。……でも、やっぱり難しいね」


 言いながら、水琴は苦笑を浮かべる。

 そんなことないと言わんばかりに、侑芽夏は首を横に振った。

 難しいと言いながらも、水琴は必死に考えてくれたのだ。『娯楽運びのニンゲンさん』のために。アニソン戦争で勝つために。その気持ちだけで、侑芽夏は胸がいっぱいになりそうだった。


「あー……、うん。やっぱり無謀すぎたよね。よくよく見てみると『peace sign TREASURE‼』のメロディーと合ってない部分もあるし。なんて言うか、改めて昼岡さんの凄さがわかったっていうか……。うん……それがわかっただけでも収穫、みたいな」


 あはは、とあからさまに乾いた笑みを零す水琴。

 水琴の言いたいことはよくわかる。頭の中で歌ってみると、どうしてもピタリと歌詞がハマらない部分があるのだ。こればっかりは、プロのクリエイターには敵わないということだろう。


「『君と出会えた奇跡は無敵色☆ファンタジー』……」

「あっ、ちょ、ちょっと読み上げないでよ! しかも一番恥ずかしいところをっ」

「…………」

「えっ、まさかの無視……?」


 水琴が動揺丸出しなのはわかっていた。

 でも、どれだけプロには敵わないとわかっていても、水琴の書いた歌詞から目を逸らすことができなかったのだ。


 ――『娯楽運びのニンゲンさん』は出会いの物語だから、二人で歌うことに意味がある。


 先ほど言っていた水琴の言葉と、目の前の歌詞が混ざり合う。

 元々の『peace sign TREASURE‼』のテーマにはなかった、出会いを通じて芽生える様々な感情。それは、まるで水琴自身の気持ちのようにも感じられた。


「キミ」

「……な、何……?」


 いきなり冷静な声を出すものだから、水琴はどこか怯えたような視線をこちらに向けてくる。侑芽夏は思わず、心の中で「ごめん」と謝った。

 感じ取ってしまったこの思いを隠すことなどできない。

 だから、


「これ、『キミの瞳にユメは映る』のアンサーソングみたいだね」


 水琴の瞳をじっと見つめながら、侑芽夏は正直な感想を零していた。

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