4-4 胸に灯る炎
日も傾き始めてきた午後四時すぎ。
洋服やブレスレット、パンが入った買い物袋をぶら下げながら、侑芽夏と水琴はパファーム横浜へとやってきた。
水琴は一度だけイベントで来たことがあるらしいが、侑芽夏は初めてだ。
今日はテレビでも最近よく見かけるアイドルユニットの公演があるらしく、会場付近にはライブグッズを身に着けたファンで溢れかえっていた。色とりどりの法被を羽織った人や、若い女性まで、ファン層は幅広いようだ。
「あ、列形成が始まってる。ってことは、そろそろ開場時間なのかもね」
「あたし達、一番人が多い時に来ちゃったかもね。……ほら、帽子深く被って」
きょろきょろと挙動不審に辺りを見回しながら、水琴は小声で呟く。
上手く女性ファンに紛れ込めないだろうかと思ったものの、油断は禁物。侑芽夏は言われた通りにキャスケットを深く被り、列から離れようとする。
しかし、
「俺、来週もここ来るんだよね」
列に並び始めていた男性客の一人の声が、はっきりと侑芽夏の耳に届いてしまった。きっと、水琴にも聞こえたのだろう。二人揃って足を止め、思わず聞き耳を立ててしまう。
「あー、アニソン戦争だっけ。好きなアーティストでも出演すんの?」
「いや、そうじゃなくて原作ファン。姉貴の影響でな。……まぁ、姉貴の方は抽選落ちたんだけど」
「マジか。人気だって噂は聞くけど、すっげぇな。アニメ始まったらそれこそ社会現象になるんじゃねぇの」
「だろうな」
一瞬だけアニソン戦争に参加する男性の得意げな笑顔を見てしまってから、侑芽夏は慌てて視線を逸らす。
多分『娯楽運びのニンゲンさん』についてそんなに詳しくないであろう隣の友人も、当然のように「人気だって噂は聞く」と言っている。
侑芽夏もアニソン戦争がきっかけで原作に触れたものの、タイトルは聞いたことがあった。読んでみたらやっぱり面白くて、気付けば夢中になっていて、無限にわくわくが湧き出てきて……。
侑芽夏はそっと、空を見上げる振りをして会場を見つめる。
茜色の夕日に照らされる「パファーム横浜」の文字が、まるで侑芽夏を現実へと引き込むようにキラキラと輝いて見えた。
これは決して夢ではない。
来週、水琴とともにこの会場に立つ。
「…………キミ」
じんわりと胸に灯る炎が、徐々に大きくなっていく。
ずっと考えていた。水琴を支えるにはどうすれば良いだろう。水琴と向き合うにはどうすれば良いだろう、と。
でも、違うのだ。
もっと単純な気持ちが、胸の奥で眠ってしまっていた。
アニメソングを歌うこと。
今、そのチャンスを掴んでいるということ。
タイアップ先が大人気漫画であるということ。
読んで、侑芽夏も大好きになってしまったということ。
溢れて溢れて溢れて、止まらない。
侑芽夏は声優だ。でも、同じくらいアニメソングも大好きだ。
本当はもっと大騒ぎしたかった。憧れのアニソンが目の前で待っているのだ。そんなの、情熱を爆発させて前に進みたいって思うに決まっている。
だけど自分には、一緒に全力を出せる相手がいなかった。隣に立つ水琴には大きすぎる事情があって、気付けなかった壁もある。
だから、これは仕方のない話だって。
――もう、そんな風には思えなくなっていた。
「お願いがあるの。聞いて」
水琴に事情があるように、侑芽夏にだって譲れない思いがある。
それは酷く単純で、ストレートな言葉だった。
「私と一緒に、アニソン戦争で勝ってください」
頭の中で、茜の言ってくれた「勝ちましょう」も同時に流れてくる。
そこに水琴の言葉も加われば、きっと無敵になれると思った。
「…………」
本当に、今更馬鹿みたいだ。水琴を更に傷付けてしまう可能性だってある。なのに、やがて訪れた沈黙に胸が痛むことはなかった。
もう、自分に嘘は吐きたくない。
勝ちたくて勝ちたくてしょうがない気持ちは、何ものにも代えられないのだから。
「馬鹿」
気のせい、だろうか。
長らく無言を貫いていた水琴がようやく口を開いた――と思ったら、放たれた言葉は「馬鹿」だった、なんて。
そんな訳ないと思った。
「え?」
意味がわからなくて、侑芽夏は聞き返してしまう。
でも、確かに水琴はそう言ったらしい。
「聞こえなかった? 馬鹿って言ったの」
「…………」
自分の顔が強張るのがわかる。
わざわざ繰り返して言わなくても、と思わず心の中で突っ込んでしまった。でも、なかなか声には出せない。
だって水琴は、
「くくっ、間抜けな顔してる」
どこか嬉しそうに、満面の笑みを零しているのだから。
「ま、間抜けって……」
ようやく口にできた言葉も、困惑とともに宙に浮いていく。
水琴の言う通り、自分の表情はかなりのアホ面になっているのだろうと思った。だって、水琴が笑っている。「そんなこと言われても困る」なんて言葉は一つもなくて、代わりに放たれたのは「馬鹿」の一言のみ。
いったい何が言いたいのだろう。
何かがわかりそうで、でもわからなくて、侑芽夏は瞬き多めに水琴を見つめてしまった。
「やっと、ユメがユメになってくれた」
やがて囁かれた言葉にも、侑芽夏の頭の中はクエスチョンマークに溢れてしまう。小首を傾げる侑芽夏に、水琴はまたふふっと笑みを零す。
「あたし、ずっとユメにそう言ってもらいたかったんだと思う。一緒にアニソン戦争で勝とうって、あたしの気持ちごと引っ張ってもらいたかったんだろうね」
言いながら、水琴はじっとこちらを見つめる。
気のせいか、その瞳は潤んでいるように見えた。
「あたしは、ユメに助けられたかった訳じゃない。アニソン戦争を最初から諦めたかった訳でもない。……ユメと一緒なら大丈夫だっていう自信が、今の今まで足りてなかったんだと思う」
――そこには、今までに見たことがない君嶋水琴の姿があった。
弱さと強さの間で揺れ動いているような、一見不安定に見える姿。
でも、そうじゃない。
今、水琴は決して弱さを見せている訳ではないのだ。
何かを掴もうと必死に動こうとしている。
「ねぇ、ユメ。ずっと逃げててごめん。困らせてばっかりでごめん。面倒臭い相方だなぁって自覚はあった。……でも、怖くて、不安で、動けなかったから」
「…………うん」
水琴は眉根を寄せている。だけど笑顔なのには変わりなくて、水琴にしては不格好な表情だった。
侑芽夏は静かに、温かい気持ちに包まれる。
「あたし、ユメと一緒にアニソン戦争で勝ちたい」
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