3-3 意地悪なチャンス

「…………」


 イベントが終わったあとの楽屋で、こんなにも沈黙したことはないだろう。そう断言できてしまうほどの重苦しい空気が楽屋の中を包んでいた。

 トークパートはグダグダになってしまった部分もあるが、少なからずライブパートは完璧だったと思う。新曲も反応も良かったし、昼岡しおり楽曲については安心感が凄すぎてこちらまでニヤニヤしてしまうほどだ。

 だったらやっぱり、水琴の心に襲いかかっているのはアニソン戦争のことだろうか。


「ごめん、あたし……」


 侑芽夏が思考を巡らせていると、ついに水琴が口を開いた。

 あの日水琴が零した「好きだから怖いんだよ」と同じような、弱々しい声だ。侑芽夏ははっとなり、水琴の元へ駆け寄る。

 そっと手を握ると、その手は小刻みに震えているのがわかった。


「ユメには散々アニソン戦争のことばっかり考えちゃ駄目とか言いながら、あたし……そのことばっかりで」

「仕方ないよ。もう今月末なんだから」

「…………ねぇ、ユメ」


 沈んでいた瞳が、こちらを向く。

 胡桃色の瞳は侑芽夏の思った以上に潤んでしまっていた。


「今日……キャスト、発表されたね」

「あ、うん、そうだね。『娯楽運びのニンゲンさん』も、着々とアニメ化に向かってるんだなぁっと思うよね」


 なるべくポジティブな返事の仕方をした、つもりだった。

 視線を合わせてくれているはずなのに、どこか遠くを見つめている。そんな錯覚が襲いかかって、侑芽夏は「他に何か言うことはないか」と必死に絞り出そうとした。こんな時に、すぐ言葉が出てきたらどれだけ良いことか。

 でも、現実はそんなに甘くはなかった。


「ユメ。あたし、ユメに言ってなかったことがあるの」

「言ってなかった、こと……?」


 侑芽夏が訊ねると、水琴は微かな動作で頷く。

 いったい何だろう――と思う前に、水琴の表情がぐにゃりと歪んだ。



「あたし、落ちてるんだよね。『娯楽運びのニンゲンさん』のオーディションに」



 言いながら、水琴は笑う。

 こんなにも辛そうな笑顔が存在するんだ、と思った。


「…………キミ……あの、私…………」


 何かを言おうと思っても、言葉が言葉にならない。

 頭が真っ白になって、だけど鼓動は速くなって、息苦しくなる。

 アニメのオーディションに落ちる経験なら、水琴だって山ほどあるはずだ。でも、それが自分の好きな作品だったら。


 いちいち落ち込んでいられない……なんて、言える訳がないと思った。


「辛い気持ちは一度経験してるんだよ。だって、好きなんだもん」


 とうとう目を逸らしながら、水琴は呟く。

 侑芽夏はそんな水琴の背中をさすった。こんなにも小さかったっけ? と思ってしまうほど、今の水琴は情けなく縮こまってしまっている。


「キミは初版から原作を持ってるくらい好きなんだもん。仕方ないよ」

「……違う」

「え?」


 目を合わせないまま、水琴は小さく首を振る。

 やがて、戸惑う侑芽夏の耳に届いたのは、


「そりゃあ、あたしも好きだよ。でも、一番好きなのは宗太だから」


 という真実だった。

 一瞬、水琴が何を言っているのかよく理解ができなかった。

 娯楽運びのニンゲンさんよりも、宗太が好き? ただのブラコン宣言? と。ついついそんな現実逃避をしたくなる。


 でも侑芽夏だって馬鹿ではない。

 じわじわと、水琴の言いたいことが心の中へと入り込んでいく。


「元々、宗太くんが好きな漫画だったってこと?」

「……そう。あたしが好きなのは、宗太がきっかけってだけ。…………ごめん、嘘吐いてて」

「いや、別に嘘ではないと、思うけど……」


 ぼそりと謝ってくる水琴に、侑芽夏は動揺しながらも言葉を返す。


 ――キミが悩んでいたのは、自分だけじゃなくて宗太くんのこともあったんだ。


 今までの水琴の態度の理由がようやくわかったような気がした。いや、もちろん「好きだから怖い」と告げられた時も納得はしていたのだろう。

 でも、今はその時の比ではない。

 むしろ、あの時感じた『本音』は、決して『本音』ではなかったのだろう。そう断言できてしまうほど、今の水琴は不安定だった。


「声優オーディションの話が来た時は本当に嬉しくてさ。宗太にも、『宗太の大好きな作品のオーディション来ちゃった』って話しちゃって……。絶対ヒロインの役を取ってみせるからって、約束までしちゃったんだよ」


 まるで、その行為を後悔しているような言い方だった。

 弟が大好きな作品のオーディションが決まったなんて、嬉しいに決まっている。侑芽夏だって身近な人が好きな作品のオーディションが来たら、黙っていられないと思う。

 確かに、受かるとは限らない。

 でも、話が来た時点で舞い上がってしまうのは仕方のないことだと思った。


「落ちたって知った時よりも、宗太に報告する時の方が辛かった。……だって、あの子は気を使いすぎる。大丈夫だよって笑うんだよ。…………本当は、心の底から喜ぶあの子の姿が見たかったのに」


 ――なのに、全部駄目だった。


 声にもならない声で、水琴は本当の意味での本音を漏らす。


「…………」


 何かを言いたくて、でも言えなくて。侑芽夏は下唇を噛み締める。

 小さな身体の中に、こんなにも大きな思いを抱えていたなんて。自分は何も知らなかった。気付くことさえもできなかった。


「神様ってさ、意地悪だよね」


 やがて、水琴は囁くように言い放つ。


「こんなあたしに、またチャンスが巡ってくるなんてさ」


 再びチャンスが訪れる。

 ポジティブな言い方をすると、今度こそ弟を喜ばせることができるかも知れないということだ。でも、水琴はそれを「意地悪」だと言う。

 彼女が見つめているのは希望ではなく、その真逆の思いに囚われているのかも知れない。


「……宗太くんは、このこと……知ってるの?」


 恐る恐る、侑芽夏は訊ねる。

 アニソン戦争への出場が決まってから今まで、宗太とは何度も顔を合わせた。しかし、思い返すと眉間にしわが寄る。アニソン戦争の話題になることも、『娯楽運びのニンゲンさん』の話になることも、決してなかったのだ。


 陰で努力を重ねるほどに、漫画が好きなのに。

 水琴にまで影響を与えてしまうくらい、『娯楽運びのニンゲンさん』が好きなのに。

 声優として活躍する水琴のことを、あんなにも尊敬しているのに。

 宗太は、気にする素振りさえ見せていない。


「言える訳ないでしょ」


 やがて放たれた水琴の声は、驚くほどに冷たい色をしていた。

 じっと俯いたままの水琴の表情はよく見えない。なのに、手に取るようにわかってしまうのだ。その氷のような声は、侑芽夏に向けられたものではない。

 自分自身を傷付けるために、放たれた言葉だ。


「また、同じことの繰り返しになったらどうしようって。……そう思ったら、言えるはずがなかった。…………こんなの、ただのあたしのわがままだけどさぁ。でも、仕方ないじゃん」


 ポロポロと零れ落ちる言葉とともに、水琴はその場で膝を抱えて丸くなる。


 ――もう、無理なんだよ。


 やがて小さく吐露された言葉が、侑芽夏の耳にまで届いてしまった。

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