2-6 大きな存在

 時刻はもうすぐ夜の十時。

 宗太の顔を見ていくとは言ったものの、流石にもう非常識な時間だ。ぐっすり寝ている可能性が高いし、ここはもうひっそりと帰ろう。

 と、思っていたのだが。


「えっ」


 ガタンッ、という音が宗太の部屋の方から聞こえてきて、思わず足を止めてしまう。微かな音だったため、廊下にいる侑芽夏しか気付いていないようだ。

 侑芽夏は挙動不審にきょろきょろとしてから、宗太の部屋の扉をノックする。


「宗太くん、起きてるの……?」


 ゆっくり扉を開けると、そこにはベッドの脇でうずくまる宗太の姿があった。「嘘」と無意識に呟きながら、侑芽夏は慌てて宗太の元へ駆け寄る。

 顔をまじまじと見てみると、辛そうに強張っているのがわかった。


「そっ、宗太くん大丈夫っ? 立てる? 熱は……なさそう、だけど……」

「……ユメちゃん?」


 宗太は元々大きな瞳をますます大きくさせてこちらを見ている。

 まるで「何でここに?」と言いたいように、口をポカンと開けていた。


「あ、いや、侑芽夏さん……っ! あの、その……僕…………。足の小指、ぶつけただけだから……」


 侑芽夏の表情がそれほど心配オーラに溢れていたのか、宗太はあたふたしながら弁解を始める。

 確かに、さっきから宗太は足の小指を握っていた。どうやら、さっきの「ガタンッ」は足の小指をぶつけた音だったようだ。


「別にユメちゃんって呼んでも良いんだよ?」


 恥ずかしそうに頬を赤らめる宗太の姿に、侑芽夏は話を逸らすようにドヤ顔を浮かべてみせる。しかし宗太にとってはそれが逆効果だったようだ。


「ご、ごめんなさい! お姉ちゃんの前だとついつい釣られてユメちゃんって呼んじゃってて……。侑芽夏さんは侑芽夏さん、だから!」

「そっか。残念だなぁ」

「へっ? いや、でも……うー……」

「ごめんごめん、冗談だよ。それより本当に大丈夫? ぶつかった音が廊下まで聞こえてきたんだけど」


 困り果てる宗太の姿は確かに可愛いが、病人をこれ以上からかう訳にはいかない。苦笑を浮かべながら訊ねると、宗太はすぐに頷いてくれた。


「うん、今はもう大丈夫だよ。ぶつけた直後は凄かったけど」

「そっかそっか。ビックリしたよ、もう」

「ごめんなさい。でも、ビックリしたのは僕も同じなんだけど?」


 小首を傾げながら、宗太はじっとこちらを見つめてくる。

 そんな宗太の寝間着はグレーのスウェットだった。水琴といい宗太といい、可愛さを期待してしまったところがあり、残念ではある。でも宗太のスウェットはだぼっとしていて、結局のところ可愛いという結論に至った。


「何でニヤニヤしてるの?」

「いやいや、何でもないよ。宗太くんが心配で来た……って言いたいところだけど、今日はキミに会いに来たんだ」

「……その『キミ』っていうの。時々勘違いしちゃうんだよね」


 何故か不服そうに唇を尖らせる宗太。

 侑芽夏は「ほほう」とますます口元を緩めた。


「発音が違うよ?」

「そうなんだけど、何か……。君って呼ばれてる気がしちゃって」

「宗太くんじゃなくて、君って呼んだ方が良い?」

「や、やだよ。何か恥ずかしいもん」


 侑芽夏の中にある「ほほう」がますます大きくなる。

 ついつい宗太をからかってしまうのは、きっと侑芽夏が一人っ子であることも要因の一つだろう。こんなにも可愛い弟がいたら、毎日が楽しいに決まっている。水琴がブラコンになってしまう理由もなんとなくわかってしまう気がした。


「それでさ、宗太くん」

「……な、何?」

「お絵描きしてたみたいだけど、体調はもう大丈夫なのかな?」

「あっ」


 わかりやすく身体を硬直させる宗太。

 部屋の中央にあるローテーブルには、明らかに漫画専用の原稿用紙が置かれていた。ペンやインク、スクリーントーンまである。

 さっきからそれを隠すようにして会話をしていたが、侑芽夏にはバレバレだった。


「体調は大丈夫だよ。今回は大したことなかったから」

「油断は禁物だから、早く寝なきゃ駄目だよ」

「うん、ごめんなさい。…………もっと、詳しく聞かれるのかと思ってたんだけどな」


 目を伏せながら、宗太は独り言のように小さく漏らす。

 ニコニコしながら黙って見つめていると、やがて宗太はちらちらとこちらの様子を窺ってきた。どうやら、聞かれたくないという訳ではないらしい。


「絵描くの、好きなんだね」

「……うん。さっきまで描いてて、そろそろ寝なきゃと思ったらベッドに小指をぶつけちゃって……。あはは、お姉ちゃんにもバレてないんだけどなぁ」


 苦笑を浮かべながら、宗太は頭を掻く。

 どうやら侑芽夏は、あんなにもブラコンな水琴が知らない弟の隠しごとを知ってしまったようだ。

 小さな罪悪感が襲いかかり、侑芽夏は心の中で「キミ、ごめん」と謝る。


「せっかくだから、さ……。見て欲しいんだけど、良いかな? 中途半端だとなんか、もやもやしそうだから」


 ローテーブルの前に座りながら、宗太は隣の座布団をポンポンと触る。

 相変わらずの苦い笑みと、朱色に染まった頬。わかりやすく恥ずかしがっている宗太の姿に、やっぱり頬が緩んでしまう侑芽夏だった。



 宗太の見せてくれた漫画は、侑芽夏の想像を遥かに超えるものだった。

 内容は言うなれば少年漫画で、剣と魔法の冒険ファンタジーだ。週刊トリップファンタジーを読んでいると水琴も言っていたし、異世界ものが好きなのだろう。


「宗太くん……これ、お話も考えたの?」

「勇者になって、お姫様と出会って、そのお姫様が攫われて……っていう、よくある話だけどね。……そ、それより、絵を褒めて欲しいな」

「褒めて欲しいんだ?」


 クスリと笑いながらも、内心では驚きに満ちていた。

 宗太はまだ中学生になったばかりだ。ついこの間まで小学生で、侑芽夏にとっては「可愛い男の子」という印象が強かった。

 でも、彼は彼なりに努力を重ねていたのだろう。「病弱」の一言では片付けられないような彼の歩みが、その漫画には詰まっていた。


「凄い……。うん、お世辞抜きで凄いって思うよ」

「えへへ、良かったぁ」


 素直に照れる宗太に、侑芽夏は思わず頭に手を伸ばしくしゃくしゃと撫でる。また水琴に怒られてしまう行為だ。

 しかし、


「宗太くん……?」


 そんなこと、今はどうでも良いと思った。


「あれ……? ご、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど」


 震えた声を出しながら、宗太は両手で目元を拭う。

 再びこちらを見つめた宗太の瞳は、すっかり赤くなってしまっていた。


「僕、お姉ちゃんのことを誇りに思ってるんだよ。声優としても、家族としても、自慢のお姉ちゃんだって思ってる。……でも」


 宗太は笑顔を作る。

 どう見たって無理矢理作ったような笑みなのに、何故か優しさに溢れているように感じた。


「いつだって、僕が迷惑かけちゃうから。今日も月影アイリさんのライブに招待されてたんでしょ?」

「それは……月影さんのファンなのは私の方だから。それに、今日キミがライブに来なかったのはただのブラコンのせいだよ」

「それ、僕はどう反応したら良いの?」


 困惑気味に微笑む宗太は、少しだけ元気が戻ってきたように見えた。「ブラコン」を否定しないということは、宗太自身もそう感じているということなのだろうか。

 どちらにせよ宗太は微妙な表情をしている。この話題はやめておいた方が良いだろうと思った。


「私にとってキミは、努力の人だって思ってた。だけど違ったんだね。君嶋姉弟が努力の人だったんだって、今わかったよ」

「……だって、僕も頑張りたいんだもん。皆に甘えてるだけじゃなくて、僕にだってできることがあるんだって。ちゃんと、証明したい」


 ――この子は本当に中学生なのだろうか。


 そう思ってしまうほどのまっすぐな視線がそこにはあって、侑芽夏は吸い込まれるように見つめ返してしまう。


「僕、漫画家になるんだ」


 なりたいじゃなくて、なる。

 きっぱりと言い切る宗太の姿には、弱々しい部分など一ミリもなかった。可愛い男の子も、病弱な男の子も、どこかへ行ってしまったようだ。


「ねぇ、侑芽夏さん」


 丸々とした胡桃色の瞳が、いつになく眩しい。

 きっと、今の自分は呆けた顔をしているのだろうな、と思った。


「いつかお姉ちゃんを驚かせたいから、このことは内緒にしてね」


 囁くように言いながら、宗太は人差し指を唇に当ててみせる。


 ――あぁ。


 侑芽夏はそっと、両手を握り締める。

 たった今、侑芽夏は気付いてしまった。

 水琴のことはもちろん好きだ。でも、宗太のことも大好きで、時々顔を合わせるご両親も決して他人と呼べる存在ではない。

 侑芽夏にとって君嶋家は、あまりにも大きな存在になっている。


 決してビジネスライクなどではない。

 だからこそ侑芽夏は、水琴の気持ちに寄り添いながらアニソン戦争へ向かおうと心に決めるのであった。

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