2-5 きっと、大丈夫。
水琴の表情はすぐには見られない。
ただ、なかなか言葉が返ってこないのはわかった。
てっきり、水琴は仕事だから原作漫画を買ったのだと思っていたのだが……どうやら違ったらしい。
原作第一巻が発売されたのは、今から四年ほど前だ。侑芽夏も『娯楽運びのニンゲンさん』について色々と調べたのだが、週刊トリップファンタジーに連載が始まったばかりの頃から人気があり、単行本もすぐに重版されたらしい。
初版なんて、余程のファンでない限り持っていないはずだ。
「…………」
水琴は未だに無言を貫いたまま、あからさまに顔を逸らしてくる。
その反応が何よりの答えになってしまっていた。侑芽夏もなんて声をかけて良いのかがわからず、口をパクパクさせてしまう。
「ね……ねぇ。キミって、もしかして……」
「ちっ」
――いきなり舌打ち……っ?
やっとの思いで問いかけようとしたのに、まさか光の速度で舌打ちをされてしまうだなんて思っていなかった。刺々しい胡桃色の瞳はもちろんのこと、眉間にしわまで寄せて不機嫌オーラがムンムンだ。
「キミ、今絶対にファンに見せられない顔してるよ」
「んー、だって今は君嶋水琴じゃないしぃ」
「だから本名なんだから君嶋水琴で合ってるでしょうが」
「細かいこと言わないでよー、もぅ」
水琴は髪を指でくるくるさせながら、不満そうに頬を膨らませる。
そうそうその可愛い反応だよ、なんて密かに思いながらも侑芽夏は覚悟を決めて水琴の瞳をじっと見据えた。
「それで、キミは元々『娯楽運びのニンゲンさん』のファンだった……ってことで合ってるんだよね?」
だったらどうして、アニソン戦争に選ばれたことに対して喜ばないの。何でやる気が起きないの。そんなにも冷静なの。
矢継ぎ早に訊きたい気持ちをどうにかして抑えつつも、侑芽夏は水琴の言葉を待った。
「それ、は…………」
初めて、水琴の瞳が不安定に揺れた。
さっきまでのわかりやすい反応とは大違いの弱々しい水琴の姿。もうわかり切っている話のはずなのに、何故か水琴は口を開くのを躊躇っていた。
らしくない水琴の姿に、侑芽夏の心もざわついていく。
気付けば侑芽夏は、
「……水琴?」
と、普段は呼ばない名前を口にしていた。
珍しい……というよりも、多分初めて呼んだような気がする。
「はあっ?」
少しは動揺してくれるだろう。……と思っていたのだが。
「何急に名前で呼んでんの。馬鹿なの? 馬鹿だよね? ばーかばーか」
動揺どころではなく、思い切り嫌悪感を露わにされてしまった。
本当にこの子は高校生なのかと不安になるほどに「ばーか」を連呼する水琴。確かに可愛らしい姿ではあるのだけど、ここまで否定されてしまうと侑芽夏もショックを受けてしまうものだ。
「べっ、別に今はプライベートなんだから名前で呼んでも良いでしょ?」
顔を引きつらせながら、侑芽夏は必死に問いかける。
しかし、
「やだよ。ビジネスライクだもん」
水琴の返答は想像以上に無慈悲なものだった。
「ビジネス……ライク……」
思わず項垂れる侑芽夏。
お互いの家を当たり前のように行き来しているのに。宗太とも仲が良いのに。ビジネスライクには当てはまらないほどの仲だと思っていたのに。
信じられない気持ちでいっぱいになった侑芽夏は、しばらく顔が上げられなくなってしまう。
「そんなに落ち込まないでよ。ただの事実なんだから」
「……お願いだから追い打ちをかけないで……」
「追い打ちじゃないってば。あたし達、仕事仲間なんだよ。だから……」
水琴は侑芽夏の肩にそっと手を置き、顔を寄せてくる。
つり目だけどベビーフェイスで可愛らしい水琴の顔が目の前にあって、侑芽夏はついつい仰け反ってしまった。しかし視線は逸らせなくて、じっと胡桃色の瞳を見つめてしまう。
「……理由、話すから。聞いて」
いつになく真剣な眼差しを向けながら、水琴は囁く。
無意識のままにコクリと頷くと、水琴は侑芽夏から離れ、少しだけ躊躇いを見せてから口を開いた。
「あたし、好きだよ」
「……『娯楽運びのニンゲンさん』が?」
「うん。意外って思ってるでしょ。あたし、異世界ものとか仕事以外では全然観ないし」
「だねぇ」
水琴の部屋を見回すと、改めて女性アイドルや女性キャラクターのポスターやタペストリーだらけだと実感する。二次元キャラクターの作品は、アイドルものや日常系のものが多かった。
床に積まれているゲームソフトもシミュレーション系が多く、RPGは見当たらない。ファンタジー自体あまり触れることはなかったのだろう。
「……偶然、さ。宗太が買ってたトリップファンタジーを読んでみたらちょうど『娯楽運びのニンゲンさん』の第一話でさ。可愛いヒロインもたくさん出るし、それで興味が出ちゃって」
「ああ、メインヒロインのセレナちゃんとか可愛いよね」
「…………うん」
返事をする水琴の声が、何故か震えている。
好きなのに、どうして水琴はこんなにも後ろ向きなのだろう。自分とはあまりにも正反対な水琴の姿に、侑芽夏の心は自然と苦しくなる。
「好きだから、怖いんだよ」
やがて零れ落ちた水琴の声は、驚くほどに弱々しいものだった。
――好きだから怖い。
その感情はやっぱり侑芽夏には理解できなくて、気付けば息が止まりそうになってしまった。
水琴は侑芽夏が声優デビューする前から活躍していて、侑芽夏よりも先輩だ。でも、今この瞬間、侑芽夏はひしひしと感じてしまう。
水琴だって、か弱い一人の女子高生であるということを。
「……あたし、昔から色んな人に期待されてさ。子役なのに凄い。まだ中学生なのに凄い。まだ高校生なのに凄い。結局さ、君嶋水琴は完璧じゃなきゃいけないんだよ」
顔を逸らしたまま、水琴は小さな声を漏らす。
侑芽夏も高校生の頃にデビューしているから、「高校生なのに凄い」とは言われ続けていた。でも、水琴はもっと幼い頃から活躍しているのだ。周りの期待の目は、侑芽夏と比べものにならないほどに大きなものだったのだろう。
「たくさん努力もしてきたし、役も勝ち取ってきた。それでも落ちることは多くて……いつもだったら、次だ次って思えたよ」
でもさ、と言いながら水琴は顔を上げる。
普段は刺々しい水琴の瞳が、こんなにも頼りなく見えるのは初めてのことだった。
「好きな作品に全力で挑んで……それでもし駄目だったら。立ち直れる自信なんてあたしにはないよ」
言いながら、水琴は笑う。
まるで「だからごめん」とでも言いたいような、情けない笑みだった。
「仕事だからやることはやる。でも、全力にはなれないっていうスタンスは変わらないから」
「…………そっ、か」
Lazuriteとして活動してきて約一年ちょっと。
初めて、水琴の本音を聞けたような気がした。
声優として、歌手として、あまりにも完全無欠すぎる彼女の正体は、やはり一人の少女だったのだろう。
強がっている振りをして、だけど心は繊細で――そんな一人の少女の姿を目の当たりして、侑芽夏の鼓動はドクンと跳ねる。
不安に満ちている彼女に、自分は無理矢理「やる気を出して」と言い続けていたのか、と。思えば思うほどに心は苦しくなっていく。
「キミ」
「……何。もう話は済んだでしょ。帰ったら?」
「今まで気付けなくて、ごめんね」
「…………っ」
さりげなく頭を撫でると、水琴は鋭い瞳をこちらへ向けていた。
さっきまでの弱々しさはどこへやら。まったくもって表情がころころと変わる子だ、と侑芽夏はひっそりと思う。
「ユメのお姉さんぶるところ、あんまり好きじゃないんだよねー」
「うっ」
正直すぎる水琴の言葉に、侑芽夏は眉根を寄せる。
しかしいつもの水琴が戻ってきたような気がして、侑芽夏は嬉しい気持ちに包まれた。
「何でニヤニヤしてるの。気持ち悪い」
「……えへへぇ」
「うえぇ、やめてよもー」
過剰に嫌がる水琴が可愛くて、侑芽夏はついつい水琴の頭を撫で回してしまう。髪を結んでいないのだから、水琴を可愛がるのは今がチャンスなのだ。
実際に自分の方がお姉さんなのだから仕方がない。
心の中でそんな言い訳を漏らしながらも、侑芽夏は言い放つ。
「ねぇ、キミ。私達はLazuriteなんだよ。一人じゃないんだよ」
頭に置いていた手を離しながら、侑芽夏は優しく微笑む。
「私がいるから、大丈夫」
今はこんな綺麗ごとしか言えないのが情けない。
でも、それが侑芽夏の導き出した答えだった。アニソン戦争に向かって頑張ることも、結果を受け止めることも。一人じゃなくて、二人なのだから。
だからきっと、大丈夫。
自分にも言い聞かせるように放った言葉は果たして水琴に届いたのか。侑芽夏にはわからない。
ただ、自己満足だろうが何だろうが、侑芽夏の心はアイリのライブ直後よりも落ち着いていた。
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