2-4 紺色ジャージとライブT
時刻は夜の九時すぎ。
家族には水琴の家に寄ってくると連絡済みだが、水琴には何も告げずに家へと訪れた。アポなしで彼女の家に行くことは初めてで、きっと水琴も何ごとかと思ってくれるだろう……という目論見もある。
心残りなのは、アイリに挨拶できなかったことだ。関係者席にいたレーベルの先輩にご飯に誘われもしたが、それも断ってきてしまった。
申し訳ないことをした気持ちにもなったが、今はLazuriteとしての問題解決が第一だ。若干緊張しながらインターフォンを鳴らすと、水琴のお母さんが驚きながらも出迎えてくれた。
「突然すみません。キミ……水琴さんから、宗太くんが体調を崩したと聞いたので」
「あら、そうだったのね。宗太なら大丈夫よ。軽い風邪で、ご飯も食べられるようになったから。宗太、もう寝てるかも知れないけど、顔見ていく?」
「あっ、はい。でもあの、今日は水琴さんに用がありまして……」
「あー、そうなの。水琴、部屋にいるわよ」
侑芽夏と同じ大学生といっても違和感がないくらい若々しい印象のあるお母さんは、水琴とは真逆のたれ目で優しい雰囲気だ。
彼女と接していると穏やかな気持ちになるのだが、今日は何故だか声色が違うような気がした。
「あの……何か、ありました?」
「やっぱりバレちゃう? ……水琴、今日は機嫌が悪いみたいなのよ」
「……なるほど。わかりました」
苦さが混じったような笑みを浮かべるお母さんに、侑芽夏もまた苦笑を返す。
水琴の機嫌が悪い原因は宗太の体調不良のせいなのか、はたまたアニソン戦争関連なのか。
様々な憶測を浮かべながら、侑芽夏は部屋の扉をノックした。
「はぁい。どうしたの、おかーさ……ん」
ややあって扉を開いた水琴は、侑芽夏の姿を確認するや否や眠そうにしていた瞳を徐々に見開いていく。
今はもう夜遅いし、侑芽夏が来ることも伝えていなかったのだ。水琴の反応は当然のもので、侑芽夏は思わずへらりと笑う。しかし、心の中では残念に思う気持ちもあった。
水琴のことだから、きっと可愛らしいもこもこのパジャマを着ているだろう――と。
妄想混じりに考えていたのだが、そういえば水琴はだらしない性格なのだった。
当然のように学校指定の紺色ジャージに身に着けている水琴に、侑芽夏は何とも言えない気持ちに包まれる。
「……てゆーか、ライブTまで着てたんだね」
「え、突っ込むのそこ?」
予想外のことに、水琴が注目したのは侑芽夏の服装だった。
確かに関係者席でライブTシャツまで着る人は珍しいだろう。でも侑芽夏は先行通販でゲットしてしまっていたのだ。ライブに参加できるならライブTを装備しないという考えはなく、当然のように着ていた。
侑芽夏にとってはただそれだけのことだったため、唖然としてしまう。
「いやまぁ、色々と非常識だとは思うけど」
水琴はちらりと壁かけ時計に視線を移してから、刺々しい瞳を侑芽夏に向けてくる。今は所謂「君嶋水琴モード」になる気はないのか、髪は下ろしたままで結ばないようだ。ジャージではあるものの新鮮な水琴の姿に、侑芽夏は「ほえぇ」と言いながら凝視してしまった。
「いやいや、一応怒ってるんだけど何その反応」
「…………可愛いなと思って」
「はあぁ?」
ついつい馬鹿正直な言葉を漏らすと、水琴はわかりやすく腰に手を当ててこちらを睨み付けてきた。ジャージでなければ怒った姿もますます可愛らしかったことだろう。まったくもってもったいない話だ。
「良いから早く要件言ってよ。何かあるから来たんでしょ?」
ベッドの上に座りながら素っ気なく言い放つ水琴。
侑芽夏も隣に座ろうとしたのだが、あるものに目が留まってピタリと足を止めてしまった。
「あらあら。何だかんだ言って勉強熱心なことで」
ベッドの枕元に置かれていたのは、間違いようもなく『娯楽運びのニンゲンさん』の単行本だった。よくよく見てみると、本棚にはしっかりと十巻まで並べられている。棚に入りきらない本が床に散乱しているのが水琴の部屋なのに、『娯楽運びのニンゲンさん』だけは綺麗に本棚にしまってあるのだ。
「……一応、仕事だし。てゆーか、前にも原作は買ってあるって言ったでしょ。……ユメほどやる気は出ないけど、やらなきゃいけないことはやるってだけ」
ぼそぼそと呟く水琴とは裏腹に、侑芽夏の口元に徐々に緩んでいく。
思えば、水琴に対する違和感の原因は「態度」だけなのだ。やる気がないと口には出しながらも、アニソン戦争から逃げるという行為はしていない。確かに楽曲のテーマ決めでは少しくらい意見を出して欲しいと思ったが、不満があるとすればそこくらいなものだ。
ただ、侑芽夏のアニソン戦争に対する熱が強すぎるだけ。
水琴はちゃんと、水琴のやるべきことをしている。
「そっか。そっかそっかぁ」
アイリのライブ直後はあんなにも心が燃え上がっていたのに、今ではむしろ落ち着いていた。もしかしたら、侑芽夏の考えすぎだったのかも知れない。
水琴が自分のように情熱的にならなきゃいけないなんて、そんなのはただの気持ちの押し付けだ。
そのことにようやく気付けたような気がして、侑芽夏はふうっと息を吐く。
「何自分だけ納得したような顔してるの」
「いーや? 何でもないよ」
「ふぅん……。それで、今日は何の用だったの」
「キミを説得しようと思って。でもまぁ、大丈夫なのかなって」
言いながら、侑芽夏はウインクを放ってみせる。
水琴は露骨に嫌そうな表情でこちらを見つめてきた。何か言いたげに口を開いてから、ため息とともに視線を逸らす。
「キミは一巻から読み返してた感じなの? 私もついつい何度も読み返しちゃってさ…………」
枕元の『娯楽運びのニンゲンさん』第一巻を手に取って、侑芽夏はパラパラとページをめくる。
何気なく最後のページの奥付に目を移すと、侑芽夏は思わず目を瞬かせてしまった。
「ユメ、どしたの?」
「……ねぇ。キミってアニソン戦争が決まってから原作買ったの?」
「え……っと。う、うん。そうだけど」
「でもこれ、初版だけど」
その言葉は、思った以上にさらりと零れ落ちていた。
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