2-3 走り出す想い

「…………えっ、行けなくなった?」


 五月半ば。月影アイリのライブ当日。

 珍しく水琴から着信があったと思ったら、彼女はとんでもないことを言い始めた。


『聞こえなかった? 今日の月影さんのライブ、あたし行けなくなったから』

「いやだから、何で。急に仕事が入ったとか?」

『ううん、宗太が体調崩しちゃってさ。看病しなきゃだから』

「…………」


 本当は「このブラコンがぁ」とでも言いたかった。

 でも、まさか今日のライブに来られなくなるとは思わなくて、侑芽夏は唖然としてしまう。


『もしもーし? あれ、聞こえてる?』

「……聞こえてるよ。ショックで何も言えなかったんだよ」

『何で。別に仕事に穴開けた訳じゃないのに』

「そうなんだけどねぇ……。はぁ……」


 アイリのライブで水琴の心を変えよう作戦は、あえなく失敗に終わってしまった。

 まさかこんな形で躓いてしまうとは思わず、侑芽夏は遠慮なくため息を吐く。


『あ、わかった。今日のライブであたしを月影さんの沼に落とそうっていう作戦だったとか?』

「違う……けど、違わない……」

『何だそりゃ』


 どっちつかずな侑芽夏の反応に、水琴の呆れたような声が帰ってくる。

 だいたい、呆れているのはこっちの方なのだ。看病なら親に任せて良いはずなのに、水琴にはその選択肢がないらしい。


『まぁ、とりあえずそういうことだから。またリリイベでね』

「うん、また…………あ、もう切られてる」


 あっさりと通話を切られてしまい、侑芽夏は何とも言えない気持ちでスマートフォンを見つめる。「はあぁ」と大きめのため息を吐いてから、


「せっかくのアイリンライブなんだから、楽しまなきゃね!」


 無理矢理にでも気分を切り替える侑芽夏だった。



 ライブの関係者席というものは、基本的にライブが始まっても座ったままで立つことはない。ペンライトを振る人はごく一部……という感じだろうか。

 侑芽夏が声優デビューしてから、何度かライブに招待されたことはあった。しかし本当はもっとはしゃぎたいと思ってしまうことから、時々自分でチケットを買ってこっそり参加することがある。

 実のところ、今回のライブのチケットも自力で手に入れるつもりでいた。しかしながら、最速のチケット抽選が行われていた頃はLazuriteのリリースイベントの日程が決まっていなかったのだ。

 もちろん、アイリのライブと被っていないとわかってから、プレオーダー先行や一般発売にも挑戦した。しかしどれも惨敗で、最後の望みは招待のみ。

 その望みが叶ったのだから、侑芽夏としてはもっとテンションを上げたいところだった。


「はぁーあ、隣にキミがいればなぁ……」


 開場したばかりの関係者席はまだ人が疎らだ。

 それを良いことに、侑芽夏はぼそりと愚痴を零す。頬杖を突きながら、徐々に増えていく観客をじーっと眺めていた。


「アイリンって、やっぱり凄いな……」


 今日の会場は一万五千人ほどが収容できるアリーナだ。

 月影アイリは自分よりもたった二つ年上で、それなのに一人でこの広い会場をファンで埋めてしまっているらしい。


「…………」


 気付けば、侑芽夏は何も呟けなくなってしまった。

 関係者席の人が増えてきたから、というのも理由の一つではあるのだろう。でも、違うのだ。まだワンマンライブすらやったことがない侑芽夏には、開演前のこの光景すら夢のまた夢に思えて仕方がない。


 今思えば、この感情は何かの前触れだったのだろう。


 開演前のアナウンスが流れると、アイリのイメージカラーである黄色のペンライトがぽつぽつと灯り始める。やがてBGMもフェードアウトしていき、会場が暗くなると一斉に観客が席を立った。

 侑芽夏も立ちたい気持ちを抑えつつ、灯したペンライトを控えめに振る。


 オープニングムービーが流れ終わると、ついにアイリがステージに姿を現した。

 青いリボンでハーフアップにした、眩しい向日葵色のロングヘアー。夜空をイメージしたような、星が散りばめられた濃紺色のドレス。スクリーンに彼女の姿が映し出されると、耳元を月のイヤリングで彩っているのがわかった。


 一曲目から彼女の代表曲であるアニメソングが流れ始め、割れんばかりの歓声が会場を包み込む。その歓声に応えるような、力強いアイリの歌声。真紅色の瞳は観客一人一人を貫くようにまっすぐで、自信に満ち溢れていた。


 確かにアイリは侑芽夏よりも背が高いし、鼻も高くて容姿が整っている。そんな完璧な彼女は、遠い席からでもオーラが半端じゃなかった。

 でも、普段のアイリはそうじゃない。もちろん綺麗な人ではあるのだが、こんなにも堂々とした人ではないのだ。誰に対しても丁寧で、物腰が柔らかくて、控えめで……。

 本人曰く、元々人前に出るのが得意ではなかったらしい。だからデビュー前は顔を出さない動画投稿サイトで活動していたし、デビューして間もない頃はライブも渋っていたという。


 そんな彼女は今、いったいどこにいるのだろう。


 侑芽夏はただじっと、ステージを食い入るように見つめてしまう。

 本当は、全部わかっていたはずだった。

 彼女の実力も。ファンの情熱の高さも。全部、全部。わかっていたからこそ、侑芽夏の心はぐわんぐわんに揺さぶられる。


(…………っ)


 いつの間にか、侑芽夏の手はピタリと止まってしまっていた。

 普段の侑芽夏だったら、大興奮でペンライトをブンブン振ってコールも完璧だったはずなのに。今だけは自分が声優であることもアーティストであることも忘れて、ただただ楽しもうと思っていたはずなのに。


 ぎゅっとこぶしを握り締める。

 今、この瞬間。

 自分はいったいどんな表情をしているのだろう?

 高鳴る鼓動の中に、隠しようもない思いが募っていく。時には圧倒的な歌声で会場を包み込んで、時にはピアノの弾き語りでしっとりとした音色を響かせる。と思いきや、そのままピアノの速弾きをしてアップテンポな楽曲へと変わっていく。


 月影アイリは才能の塊だ。

 歌だけじゃなくて作詞や作曲の能力にも長けていて、特にピアノの旋律が魅力的な曲が多い。一度聴いただけで彼女の世界へと引き込まれて、気付けば彼女の虜になっている。


(あぁ、良いなぁ……)


 侑芽夏はまた、こぶしを握った。

 もしかしたら、あまりにも遠すぎるアイリの姿に絶望している気持ちもあるのかも知れない。ついつい弱気になりそうになるほどに、ステージ上の彼女は眩しくて仕方がなかった。


 でも、侑芽夏の辞書に『弱気』なんて言葉はない。

 むしろ、逆だった。


(このままじゃ、駄目なんだ……っ)


 一瞬だけ、侑芽夏は俯いた。

 アイリの姿が見えなくなった代わりに、侑芽夏の頭には一人の少女の姿が浮かび上がる。


 君嶋水琴。Lazuriteの相方。


 自分はもっと、彼女と向き合わなければならない。いや、今までだって向き合おうとはした。

 でもそれは、きっと上っ面の形だけだ。

 何でアニソン戦争に正面からぶつかろうとしないのか。その理由をちゃんと聞かなければ、始まるものも始まらない。


 アニソン戦争で完璧なパフォーマンスすることだって。

 二人でアニメソングを歌うことだって。

 Lazuriteとしてのワンマンライブをして、ファンと一体の空間を作ることだって。


 ――キミと向き合わなきゃ、できない。


 もうどれだけの間、こぶしを握り続けているのだろう。

 強い衝動に駆られて、だけど目の前のステージから逃げることができなくて、すべての感情を自分の手のひらだけに込めている。思わず乾いた笑みが漏れそうになった。しかしアイリの歌声がそれを許してくれなくて、侑芽夏は必死に表情を隠す。


 いつか月影アイリのように、この広いアリーナを満員にしてみたい。

 ……なんて、遠い遠い夢物語のように聞こえるだろう。でも、侑芽夏は本気でそう思った。

 確かにアイリは凄い。

 そんな彼女と戦うなんて、今でも信じられないくらいだ。


 でも、LazuriteにはLazuriteにしかできない音楽がある。そのためには水琴の気持ちをちゃんと知らなければならない。

 侑芽夏はじっとアイリのステージを見つめながら、闘志を燃やした。

 アイリのライブが終わったら、水琴の元へ駆け付ける。

 そこからようやく、スタートラインに立てるのだ。


 もし、彼女の本音がただのやる気の問題だったら。

 その時は説得するまでだ、と侑芽夏は心の中で笑った。

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