1-4 ファンモード
「あっ」
水琴に対するわだかまりは確かにある。
でも、自分の意見はしっかりと言えたのだ。侑芽夏は満足感に包まれたまま事務所を出ようと思っていた。
しかし、
「君嶋さんに古林さん、こんにちは」
事務所のロビーでばったりと会った人物に、侑芽夏は思わず背筋を伸ばす。
「
月影アイリ。
Lazuriteが所属するカエデミュージックの先輩で、元々侑芽夏もファンだったアーティストだ。
心の中では彼女の愛称である「アイリン」と呼んでいるが、仮にも同じレーベルの先輩。ファン気分で声をかけられる訳もなく、緊張感丸出しで頭を下げた。
「そんな、私なんかにかしこまらないでください」
「いやいやそんなっ、月影さんは尊敬する大先輩なので!」
「……でも、古林さんとは二つしか違わないので」
か細く呟きながら、アイリは小さく微笑む。
胸辺りまで伸びた向日葵色の髪をハーフアップにしていて、背は侑芽夏よりも少し高いくらい。鼻が高く整った容姿は、まだ二十歳とは思えないほどに大人びている。
服装は黒のレースチュニックにデニムショートパンツ。すらりとした長い脚を思わずじっと見つめてしまうと、ふと水琴に肩を叩かれた。
「ユメ、ユメ。見すぎだよ?」
「えっ、あ……す、すいませんっ」
慌ててアイリの真紅色の瞳に視線を移すと、アイリの顔はわかりやすく朱色に染まってしまった。「あ、こちらこそ」と言いながら目を逸らすアイリの姿は、ファンにとってたまらないほどに愛らしいくてたまらない。
「ええと……。お二人は新曲の打ち合わせか何かですか?」
「あー……」
困ったように話題を逸らすアイリに、侑芽夏は言葉を詰まらせる。
「はい、そんなところです」
助け舟を出すように水琴が頷いた。
新曲であることは確かだが、シングルとして発売されるのはアニソン戦争に勝った場合の話だ。負けた場合はきっと、その曲を封印するか、もしくはアルバム曲に入れるくらいだろう。
「凄いですね。確か、もうすぐミニアルバムが出るんですよね?」
「ぅえっ?」
アイリの言葉に、侑芽夏は思わず変な声を漏らしてしまった。
憧れの人が、自分達のリリース情報を把握している。そんなの、ファンとしては嬉しくない訳がない。
「月影さん。さっきから相方が挙動不審でごめんなさい。実はユメ、月影さんのファ……」
「待って。まだ伝えてないから、待って」
「……さっさと言っちゃえば良いのに」
小声になりながらも、必死に水琴の言葉を遮る侑芽夏。
ジト目でこちらを見てくる水琴から逃げつつ、侑芽夏は慌てて笑顔を張り付けた。
「ファン……?」
「あ、いや、そこは拾わなくて良いんですっ! と言うか、呼び止めちゃってすみませんっ」
自分の顔が赤くなるのを自覚しながら、侑芽夏は勢い良く頭を下げる。
確かに、今ならちゃんとファンだと伝えるチャンスなのかも知れない。しかし、勢いで言いたくはないのだ。
Lazuriteとしてアニメソングを歌う。
どうせなら、その夢が叶ってからアイリにファンだと告白したいと思うのだ。
「いえ、その……。呼び止めたのは私の方なので」
「もしかして、何かご用件がありましたか?」
遠慮がちに呟くアイリに、さっきまでおどけた表情をしていた水琴が冷静に訊ねる。
何故だろう。アイリを目の前にして使いものにならない侑芽夏には、水琴の姿が頼もしく見えた。とりあえず、ただのファンモードになりつつあるのをなんとかして抑えなければ。
と、思っていたのに。
「今日は来月のライブの打ち合わせだったんです。それで、ちょうどお二人を見かけたので、ご招待をと……」
「……っ!」
ファンモードはいとも簡単に復活した。
だって、大好きなアイリがライブに招待してくれたのだ。こればっかりはどうしようもないし、仕方がない。
「ひえぇ、良いんですかぁ……」
こうして、ただの月影アイリオタクが登場したのであった。
***
「ひえぇ、だって。ふ、ふふふっ」
「そんなに大袈裟に笑わなくたって」
「だってユメ、月影さんを前にするとポンコツ化するんだもん。いつもあたしがしっかりしなきゃだから、大変なんだよ?」
アイリと別れた途端に、水琴はお腹を抱えて笑い始めた。
文句を言いながらもどこか楽しげな水琴の姿は、どう見ても等身大の女子高生だ。――いや、容姿だけで言えば中学生と言っても良いのかも知れない。
「キミって身長百四十センチだっけ?」
「え、いきなり何。……百四十五だよ。だいぶ違うよ」
「そっかそっか。可愛いねぇ」
侑芽夏より十五センチほど低い水琴の頭を撫でながら、侑芽夏はニヤニヤと笑う。水琴はすぐにその手を払い、キッと鋭い瞳を向けた。
「またそうやって子供扱いする。あたしの方が先輩なんだよ? 子役の頃から考えると、あたしがどれだけ先輩かわかってるの?」
「うん。だから私、ずっとキミのファンだから」
「…………月影さんには言えなくて、あたしには躊躇いなく言えるの、謎だよねー」
水琴は不服そうに眉根を寄せる。
わざとらしく腕時計を確認する動作をしてから、「ふぅ」と息を吐いてみせた。
「だってキミは相方だから」
「ふぅん。相方にしては年下扱いしたり先輩扱いしたり……。やっぱり謎だよねー」
「うっ」
痛いところを突かれ、侑芽夏は顔を強張らせる。
しかしここで狼狽えている場合ではないのだ。さっきのテーマ決めでの態度は相方としてちゃんと注意しなくてはいけない。声優としては先輩でも、アーティストとしては対等の立場なのだ。
それに、早いうちに言っておかなければ、二人でアニソン戦争へと向かえない。
「それよりキミ、さっきのテーマ決めだけど……」
「あ、ごめんユメ。あたし次の現場があるから」
「……そ、そっか」
しかし、そう言われてしまうとなかなか話を続けづらくなる。
水琴は今をときめく売れっ子声優だ。
幼い頃から目立つことが大好きだったようで、五歳の頃から子役としてデビュー。主にドラマやCMに出演していたが、中学一年生の頃に事務所から声優オーディションを勧められる。のちに話題作となる映画のヒロインに抜擢され、声優として注目されるようになった。
水琴が声優デビューをしてから約四年間、「君嶋水琴」の名前はメインキャラクターのクレジットで見かけることが多い。モブなんて経験したことがないのではないかと思うくらい、水琴はずっと最前線にいる。
「キミ、大丈夫? 学業との両立、大変じゃない?」
「それを言うならユメもでしょ」
「まぁ、そうなんだけど。私は今日の予定はないから。明日ゲームの収録はあるけど」
言いながら、侑芽夏は心の中ではっとした。
自分はあくまで声優だ。確かにアニソン戦争は大事だが、そればかりに目を向けている訳にもいかない。
「私も帰って台本チェックしなきゃ」
「そーそー。ユメがアニソン好きなのはわかるけど、一直線すぎるんだって」
呟きながら、水琴はじっと胡桃色の瞳を向ける。
ようやく、少しだけ水琴の本音が見えたような気がした。アニソン戦争に一直線すぎる。水琴の言葉は的確なものだと思った。
明日はゲームの収録がある。なのにも
「うーん、確かにその通りかも。キミ、ありが……」
「まっ、あたしがアニソン戦争にやる気が出ないのは変わらないんだけどね」
「…………」
お礼の言葉を言いかけて唖然とする侑芽夏をよそに、水琴は「じゃねー」と去っていく。
引き締まったはずの顔がげっそりと崩れていくのがわかった。
もちろん声優としての仕事も大切だ。それはわかっているのだが、自分と水琴がLazuriteであるという事実もしっかりと存在する。来週発売予定のミニアルバムがあって、これからリリースイベントも増えていく訳で……。
「相方が手強すぎる……」
途方に暮れながら、侑芽夏は小さく呟く。
君嶋水琴という名のハードルは、侑芽夏にとって想像以上に大きなものだった。
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