第24話
剣を振るのに邪魔にならないよう、高い位置で括られた絹のような銀髪を揺らしながら、イリッツァがリオの元へと小走りに駆け寄っていくのを、カルヴァンは苦笑と共に見送る。
「団長、珍しく大人な対応ですね。もっと嫉妬むき出して怒るのかと思っていました」
「俺ももう三十一のいい歳をした大人だぞ。いつまでもガキみたいな聞き分けのないことを言ったりはしないさ」
「……あ、待ってください。今の発言、ちょっと書面にしたためてもらって良いですか?今度、職務中に横暴なことを言い出した時に声に出して読み返してもらうために」
後ろからやってきたリアムが軽口を叩くのを鼻の頭に皺を寄せて聞く。
「お前は本当に、上官に対する態度をもう少し学べ」
「そのためにはまず、部下らしい振る舞いが出来るような上官になってください」
しれっと言い返してくる童顔の補佐官は、初めて彼がその職に就いたときから比べると、だいぶ面の皮が厚くなったように思う。
最後の診察を終えて、部屋の隅で医療器具を鞄の中に収めて整理しているらしいリオの元に駆け寄ったイリッツァは、その鞄を覗き込みながら、何かを会話しているようだ。指をさして何かを問いかけると、リオがそれを手に取って答えているところを見るに、”診察”に使った器具に興味が尽きないのだろう。
「さすが俺の嫁は、好奇心旺盛だ。向上心も高くて何よりだな」
「本当に、息をするように惚気ますよね、団長……」
しれっと独占欲の塊のような発言をする男のどこが、三十一の大人なのか。リアムは半眼で小さくツッコミを入れる。
ニヤついた顔で婚約者を眺めていると、どうやら先ほどカルヴァンが興味を示した携帯型の照明について質問しているようだった。見覚えのある乳白色の細い棒状の器具を取り出して、ピカッと先端を光らせている。
イリッツァはそれに驚いて、何か興奮しながらまくしたてているようだ。きらきらと薄青の瞳を輝かせている少女の、溌溂とした横顔を満足げに見守る。
(あの男がどれだけツィーの信頼を得ようと、ツィーの”女”の顔を知っているのは俺だけだ。最近は、キスしただけでわーきゃー言うこともほとんどなくなって、無自覚なんだろうが色っぽい顔を晒すことも多くなった。たとえどんなにイケメンだろうと、アイツのそんな顔を拝めるのは世界でたった一人、俺だけかと思うと、堪らない優越感を感じるな)
イリッツァ自身の言葉で、リオとの関係性を聞いた。素の口調で話すせいで、周囲に聞き取られないように少し他者よりも距離が近くなることも理解できた。
何より互いに、恋愛になど発展する余地などないと明言された。
カルヴァンは、独占欲をしっかりと満たされたことで、おおらかな気持ちで二人を見守り――
「――――おい」
「待ってください団長」
低い声を出して長い脚を踏み出したカルヴァンを、むんず、と肩を掴んでリアムが即座に引き留める。
「あれは、さすがにおかしいだろう!!?」
「いえ、おかしくないです。診察です」
活き活きと顔を輝かせるイリッツァに、いつもの無表情のまま何事かを考えたリオは、実演で使い方を説明しようと思ったのだろう。
イリッツァの唇に手をかけ、口を開かせて携帯照明で照らしながら、至近距離で中を覗き込んでいた。
「完っっ全にキスする距離だろう、あれは!!!!!」
「診察です。――さっき、野郎相手にも同じことしてたでしょう。考えすぎです」
大人げないにもほどがある上官に、頭を振りながらリアムは努めて冷静な声を出す。
「あんな風に強引に手で口を開かせる必要があるか!!?」
「先ほどと違って相手が寝転んでるわけじゃないから、見えにくいんでしょう。イリッツァさん、口小さいですし」
「男なら誰でも、小さい口を無理やり開かせたときの女の苦しそうな表情に興奮するもんだろうが!!!」
「いやどんな世界の常識ですか……」
ぐい、と掌と親指を使ってイリッツァの口を大きく開かせるリオの仕草は、爛れた性生活しかしてこなかったカルヴァンからすれば、酷く卑猥なものにしか見えないらしい。
リアムにはわからない世界の男の常識を説かれて、全力で呆れ返る。
「落ち着いてください、団長。――三十一の余裕のある大人なんでしょう」
「っ……」
ぐっと言葉に詰まって嫌な汗が滲んだ拳を握り締める。ギリリ、と奥歯を噛みしめて無理矢理気持ちを落ち着けた。
リアムの言うとおり、ここは先程のパートナーの言葉を信頼してぐっと耐えるのが男というものだろう。
そのまま見ていると、イリッツァの喉の奥を見たリオは何かに気付いたようだ。
軽く首をかしげると、隣にある医療器具が詰まった鞄を探り始める。
中から取り出したのは、茶色の濁った液体が入った小瓶。そこに、白く小さな綿の塊がついた棒を突っ込み、液体をしみこませる。
「あ、俺、あれ知ってます。過労とかでちょっと無理が祟ってると、喉が痛いなんていう自覚症状すらない時でも、喉の奥が腫れてることがあるらしくて。遠征からずっと働きづめの俺を見かねて”診察”してくれた医療団の人に、俺も塗られました。すっごい苦いんですけど、不思議と楽になるんですよね」
「塗るってどこに――」
カルヴァンの疑問は、リアムが答えるまでもなくすぐに解消された。
リオは、再びイリッツァに向き直ると、先ほどまで手にしていた携帯照明を口に咥えた。いつもその端正な顔立ちを際立たせていた無表情が軽く歪んで、急に野性味のある”雄”の色香を纏う。
そのまま再び、イリッツァの顎に手をかけ、ナチュラルに親指を口に入れて大きく開かせる。舌が邪魔だったのか、ぐいっと指で舌を抑えたらしかった。
他人に口の中を指でまさぐられる経験など、あるわけがない。「……ぅ」と少しだけ苦しそうな声をイリッツァが上げた――
――あたりで、カルヴァンがその場を駆けだしていた。
「あっ、ちょ、団長!!」
リアムの制止の声も聞かずに駆け寄るが、目の前で”診察”は続く。
歯で噛んだ照明で器用に喉の奥を照らしながら、上から覗き込む距離は、日常生活では決して犯されることのない完全なるパーソナルスペースだ。
駆けだすカルヴァンは、焦燥に駆られる。
長い付き合いだ。イリッツァが何を考えているかなど、大体わかる。
(「――ぅわ。至近距離で見ると、やっぱコイツ、すごい男前だな……」とか、思ってるんだろう……!!!)
感心したような表情なのがその証拠だ。吐息が混ざりそうな距離で、瞬きの風すら感じられそうな切れ長の紅い瞳を前に、性的なことに一切危機感のない少女は、暢気にそんな感想を抱いているに違いない。
ガリ、と噛んだ照明が小さな音を立てるのにも構わず、リオはどうということもない慣れた様子で薬剤の沁み込んだ棒をイリッツァの喉の奥に突っ込んだ。
「っ、ぅー―」
「我慢しろ」
苦さと喉奥に異物を突っ込まれる不快感に涙目で目を眇めたイリッツァに、リオは低い声で不愛想に言ってから、棒を引き抜き――
ドガンッ!!!
カルヴァンは、二人の間に割って入るようにして、その長い足を壁へと容赦なく叩きこんだ。
「――……あーぁ……」
上官を止めることが出来なかったリアムは、怒りのあまり加減をする余裕がなかったらしいカルヴァンの脚によって破壊された鍛錬場の壁を見て、これからかかる必要経費を想って額に手を当てたままげんなりと頭を振るのだった。
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