第20話
「どうしてこの国は、夜になってもこんなに暑いんだ……裸で過ごしたら問題か?」
「はは……問題問題。露出狂だって怒られるのはもちろんだけど、お前の場合、そのバッキバキの身体見てキャーキャー言う女が出るから、やめといたほうがいいぞ」
「チッ……」
ぶつぶつ言うリオをなだめながら、イリッツァはそっと教会を出る。
「悪いな、持たせちまって」
「別に。……”聖女様”はイメージも大切なんだろう」
「おっしゃる通りで」
苦笑して答えてから、ルンルンと足取り軽く足を踏み出す。
想像通り、だいぶ患者も落ち着いたため、ここ数日の最大の功労者であるイリッツァとリオは早めに休むように周囲が気を回してくれた。
そこで二人は、約束していた通り、趣味――剣術の鍛錬をしよう、ということで、教会を出たのだ。
聖女が剣を持っていると知れれば、何事かと騒ぐ聖職者ばかりのため、持ち込んでいた訓練用の剣はリオに一緒に持ってもらっている。
「俺、今日から自分の屋敷に戻るからさ。今夜はあの部屋、ゆっくり使ってくれ」
「あぁ。……ところで、イメージが大切な”聖女様”が落ち着いて剣を振れるところなんかあるのか?」
「ん?……あぁ、大丈夫だよ。騎士団の連中は、俺が剣を振ることを知ってる。一応世間一般に向けては、有事の際の護身用にってことで、家でヴィーに教えてもらってる、ってことになってるから、テキトーに話合わせてくれ」
イリッツァは、騎士団が常駐している兵舎へと向かっていた。――特別講師を頼まれている彼女が、この国で唯一人目を気にせず剣を振ることができる場所だ。
「話を合わせることは構わないが――実際には、騎士団長には教わっていないということか?」
「へ?うん」
「あの男に出逢う前から嗜んでいたと言うことか?お前、どれくらいの心得があるんだ」
「う、うーん……」
しまった。ついうっかり、気を抜くといつも、こうして苦しい返答を要求されてしまう。
心を許して会話してしまっているせいだとわかっているが、こういうときに、親友のように高速で回転する頭脳が羨ましくなる。
「いつ始めたか、なんて覚えてないくらい昔からだよ。物心ついたときにはもう剣握ってた」
「ふぅん……よく親が許したな。理解のある親だったのが幸いだ」
「はは……うーん、理解があったかどうかはわからないけど、俺が剣を極めることを推奨してくれたことだけは本当に感謝してるよ」
赤銅色の髪をした鬼みたいに怖い父親を思い出して、苦笑しながら認める。
自分が聖人だと判明したとき、そのまま聖人としての人生を歩ませる選択肢もあったはずだ。
極端なことを言えば、何もわからない息子を洗脳して幼いころから神殿に閉じ込め、聖人としての役目を全て押し付けてしまえば、母フィリアは聖女としてではなく、ただ一人の女としてバルドと共に人生を歩めただろう。
そしてきっと、そうすることこそが、彼女のような女にとっては幸せだったはずだ。
だが――現実には、その選択肢は取られなかった。
フィリアは、決して彼女には向いていなかったであろう聖女という役割を死ぬまで自分が果たすことを選び、息子には、自分が死ぬまでは一般人に擬態して生きることを許した。
滅多に家に帰ってくることがなかったバルドは、帰って来ればずっとリツィードに剣を教えた。バルドとリツィードを繋いでいたのは、剣を教わる時間だけだった。
おかげで、聖人として我欲を持つべからずと徹底的に教育された人生の中でも、剣術というリツィードが個人として打ち込む趣味が出来た。
「剣を振ってると、集中するじゃん。そうすると、頭が空っぽになって――あぁ、生きてるなぁって実感するんだよなぁ。あの感覚が、昔から好きでさ」
「……そうか」
剣を振っている時だけは、ただ、剣のことだけを考えろ。他のいかなる雑事も頭をよぎらせてはいけない。
それが、亡き父の教えであり――そのおかげで、どんなに孤独に押しつぶされそうな時も、剣を振れば忘れることが出来た。
リツィードだった時代はわからなかったが、今になって思えば、あれは、あの鬼のように怖いが死ぬほど不器用だった父親なりの、愛情だったのかもしれない。
自分たちが死んだ後――孤独を抱え、国のために”聖人”として寂しく生きることを運命づけられていたリツィードが、心を壊すことなく生き抜けるように――と。
(……だとしたら、不器用にも程があるけどな)
ふ、と口の端にほんの少しの笑みを浮かべて、イリッツァは嘆息する。
イリッツァには二人目の父の記憶がある。――ナイードにいる、ダニエル・オームだ。
片田舎でまだまだ昔の風習が根強く残っているナイード領において、女が剣を振るなど、王都よりもさらに受け入れがたい価値観だっただろう。
だが、奉納された聖剣を手にキラキラと目を輝かせるイリッツァに困った顔をしながら、鍛冶屋に頼んで訓練用の剣を発注してくれた彼は、今から思えば本当に出来た人間だ。理解のある優しい理想の父親像だ。
(二人の父親の厳しさの振れ幅がデカいんだよな……司祭様は本当に、聖印が浮かばないだけで、心根は聖人といって差し支えないくらいの慈愛に満ちた人だったし……親父はもう、”鬼”っていう言葉がこれ以上当てはまる人間はいない、ってくらい怖くて厳しい男だったし)
しかし、どちらの父も、リツィードを、イリッツァを形作った基礎となる、かけがえのない人たちだ。
特にバルドとの関係は、第三者から見れば複雑だったかもしれないが、イリッツァは確かに彼に感謝している。
「練兵場は、空いているのか?軽症患者の簡易収容所として開放していたんだろう?」
「あぁ、うん。収容所として開放していたのは、鍛錬場の方だから、練兵場は空いてる」
「別なのか?」
「うん。練兵場は屋外で、兵士や騎士が日中の勤務時間に調練する場だな。鍛錬場は、基本的には休みの日とか朝夜の勤務時間外とかに、自主的に使う以外は、雨天の時くらいしか使われない。敷地の中には、兵士団と騎士団の施設がそれぞれあるんだけど、線対称になってる。騎士になるには兵士を経なきゃいけないんだけど、対称になってるだけだから、騎士になってから施設で迷うことはまずないって聞いたことある」
「ふぅん……軍用施設も意外と整っているんだな」
感心するリオに、機密情報にならない程度の情報を解説する。過去、兵団に所属していたイリッツァは、その辺りの最低限の知識も勿論持っていた。
「リアムに聞いたら、教会の方が落ち着いたタイミングで一般市民は全部教会に引き継いだから、今鍛錬場にいるのは騎士で罹患した奴だけだってさ。だから、まぁ騎士たちは俺が剣を振ること知っているとはいえ、気を遣わせるのも嫌だし、練兵場で剣を振ろうかなって。着いたら、最初に少し療養してる騎士たちを見舞ってから、念のため敷地内の施設に解毒の魔法かけてやるよ、ってリアムに言ったら熱心に拝まれた」
「騎士、っていうのは、文献で見たときもわからなかったが、実際に目にして言葉を交わしても、よくわからない存在だな。俺たちの国の価値観ではどうにも奴らの価値観が理解できない」
「はは……よその人間から見たら、まぁ、ただの狂信的な信者で構成された武力集団だよな」
あながち間違っていない認識だが、それが王国では国民の憧れの職業だというのだから、理解できない価値観というのも仕方がないだろう。
「カルヴァン・タイターも……ここ十五年あまりの魔物を相手にした凄まじい戦績はファムーラにも届いていた。何度か、ファムーラも王国に魔物討伐の応援要請をしたことがあるからな。鬼神と謳われるほどの戦いぶりは、己の命すら容易く擲つかのようで――俺たちの国は信仰の自由が認められているが、それでも宗教っていうのはのめり込みすぎると怖いもんだと親戚連中に教わった」
「う、うーーーーん、アイツの場合はなんかちょっと違う気もするけど――まぁ、大多数の騎士は、魔物討伐ってのは神様から承った使命だと思ってるから、その最中で命を落とすのも仕方ない、むしろ最高の誉だと思ってるのは事実だな」
一応、大陸中から注目される王国騎士団のイメージを阻害しないように、真っ向から否定はしないが、カルヴァンが誤解されているのを聞けばどうしてもムズムズする。
あの、神をも恐れぬ自由人の、どこをどう見たら敬虔な信者に見えると言うのか。あれが敬虔な信徒だと言う認識だけは、世界各国の人間に今すぐ改めてほしい。エルム教が誤解される。
「そういえばリオは、何歳から剣術を始めたんだ?」
「さぁ……?俺も、物心ついたときには叔父に習ってたな。五つの時には、大会で優勝した記録があるから、確実に始めてたはずだ」
「へぇ、すげぇ。そんな小さいときから大会があるんだな。叔父さん、道場主とかだったのか?」
「いや?職業軍人だ。――今は、ファムーラの軍務卿だな」
「!!?」
あっさりと当たり前のように言われて、思わず咽る。
「何だ。……言っただろう。俺の一族は、軍人か、医者か、政治家になる奴が多い」
「いや……いやいやいや、軍務卿って――軍のトップじゃねぇの!?」
「そうだな。……?……そんなこと言ったら、俺の父親は今、ファムーラの元首だ」
「はぁ!!!???」
「去年、選挙で選ばれたばかりだが。前の選挙で選ばれなかった時、滅茶苦茶悔しがってたからな。軍属になってからしばらくまともに家に帰っていないからゆっくり話してはいないが、まぁ、今頃張り切っているんじゃないか?前任の元首の時からずっと、最優先で王国との関係を築くべきだと言っていたから、今回俺が派遣されると決まったときも、父親と叔父の無言の圧が死ぬほど強かった」
「……か、完全に、国がそのまま一族経営みたいなもんじゃねぇか……」
一族で牛耳っているとしか思えないラインナップに、思わずつぶやくと、むっとリオは不愉快そうに眉をしかめた。
「別に、不正は一切していない。元首はもちろん、軍務卿も外務卿も財務卿も、公正に選ばれてる。軍務卿に至っては、昔から特に不正の余地なんか入りようがないくらいの実力主義の世界だからな。事実、前の元首は久しぶりに俺の一族とは無関係の人間だったし、叔父の前の軍務卿も、血のつながりはない。だが、まぁ――能力的なものが遺伝するのか、親や親戚の背中を見て育つせいでその職業に好意的な印象を抱くのかは知らないが、実際に同じ一族から出ることは多いな。バチェット一族なんかも、昔から財務卿だの外務卿だのをやたらと輩出してる」
「へぇぇ……すげー……世襲じゃないのに、そうなるんだ……え゛。もしかしてお前んち、相当金持ち……?」
「さぁ……俺は早い段階で軍属になって家を出たから、あまり意識したことはないが、まぁ、食うには困っていないな」
(いやだって――軍医って、将校相当なんだろ。軍国主義のイラグエナムでも、二十五歳とか、こんな若さで将校クラスってのはないはず……)
もしもファムーラの軍隊が本当に不正の余地がない実力主義の世界だとしたら、リオはかなりのスピードで出世しているのではないだろうか。
一瞬、明かされる事実が信じられなくて、この若さで医療団の責任者を任せられたのも、血筋からのコネではないのかと疑ったが、リオのこの国に着いてからの働きぶりを見れば、本当に実力で選ばれたのかもしれないと考えを改める。
(第一、将校相当の人間が、徹夜で自ら気の遠くなるような検査に明け暮れて、毎日床で寝て誰より一番働いて――って、よく考えたら凄いことだしな……)
「なんていうか――お前、凄いな」
「?」
「全然偉ぶらないし、不愛想だし、そんな風に見えないのに――女が嫌だから軍属になっただけ、とか信じられねぇわ」
「始まりなんてそんなものだろ。俺は、昔から好きだった剣が振れて、女がいない世界に行ければそれでよかっただけだ。父親みたいに崇高な考えがあるわけでもないし、叔父みたいに軍務卿になりたいなんて思っていない。……今回の医療団に手を上げたのも、父や叔父の思惑とは無関係に、単純に、行ったことのないクルサール王国という国に興味があっただけだ。最近は戦争もなかったし、父親は多分戦争に関しては反対派だから、しばらく軍医としての仕事は平和なものだろうから、刺激が欲しかった。それだけだ。……父親と叔父には、ここぞとばかりに圧をかけられたが、正直知ったことじゃない」
「そ、そんな理由――」
「知らないことを知れるのは、楽しいだろう。軍医にならないかと言われたときも、そんな理由で承諾した。事実、医学っていうのは、学べば学ぶほど、知らない知識ばかりで楽しかったしな」
「お前、どんだけ流されまくって生きてんだよ……それで成功してんのはもはや天才だろ……」
本来、医者になるために必死に勉強してきた人間が、務める先として軍を選ぶのが通常の軍医の成り方だと聞いたが、そんな理由でさらりと進路変更をしてしまえるリオは、最初から適性があったのかもしれない。
努力をしなくても天才なのに、努力を怠らぬ天才なのだろう。
彼がこの若さで将校クラスに相当する地位を得ている背景を、イリッツァはやっと理解した。
「お、そこの角曲がったら兵舎が見えて来るぞ。最初に見舞いと解毒しなきゃだから待たせるけど――」
「構わない。俺も手伝おう」
「マジ?やったぁ。助かる」
イリッツァは笑いながら、趣味の時間を想い、わくわくと浮き立つ心を抑えて、少し早足で目的地へと向かうのだった。
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