第9話
「え……ヴィ――カルヴァンは、来られないのですか……?」
当然、カルヴァンも一緒にやってくるものと思っていたのに、リアム一人が教会にやって来たため、イリッツァは薄青の瞳をパチパチと瞬かせて軽く驚きを露わにした。
「はい。宰相と外交官も病を発症した今、ファムーラの言語に堪能で国家の代表として対等に渡り合える人材は団長しかいないとのことで……王都を出て動く必要が出たときに、自由に動ける人材が必要だと、しばらく外交関係を手伝うように、隔離処理が命じられました」
裏にある政治的な思惑には言及せず、事実のみを簡潔に伝えると、イリッツァは素直に納得したようだった。
ほんの少しだけ痛む心を押し殺して、リアムはヘラッと笑って付け足す。周囲には数々の教会関係者や医療団がいる。どこで誰が聞いているかわからない今、下手なことは言えない。
「でも、手紙のやり取りは出来るとのことで。すぐにイリッツァさんに手紙を書くと言っていましたよ。俺にも、毎日業務報告という形でイリッツァさんの様子を克明に報告しろと、公私混同極まりない業務を課せられました」
「あぁ――……カルヴァンらしいですね」
冗談めかして言うリアムの言葉に、クスリ、とイリッツァは困った顔で笑う。殺伐とした現場に、ほんの少しの気のゆるみを届けられたことにリアムはホッとしながら、さりげなく周囲に視線を走らせた。
こうして人目のあるところで宣言すれば、業務の合間にカルヴァンへの”報告書”を書いていたとしても違和感が減るだろう。
「あの人、ああ見えて書類仕事も滅茶苦茶早いので、きっとすぐに手紙を書いて夕方には送ってきますよ。きっと、俺にもまた無茶苦茶な指示を出すんだろうなぁ……」
「ふ……ははっ……大丈夫ですよ。本当に無理なことは言わない人です」
「いえそれはイリッツァさんにだけです。俺たちには普通に無理なことを当たり前みたいな顔で要求してきますよ。鬼みたいな顔で」
うっかり本気の愚痴をこぼしながら、リアムは談笑の最中も周囲に気を配り続ける。
ファムーラの医療団の中に、怪しい動きをする者はいないか。カルヴァンや王城の動きを必要以上に気にかけているそぶりをしている者はいないか。
(……少なくとも、視界に入る範囲の人物は、真面目に救護活動に取り組んでいるようだな……)
どちらかというと、立ち話をしている自分たちのことなど全く気にしている余裕などない、という様子で、必死に額に汗して救護活動を手伝う者たちばかりだ。
「さて、それで――お忙しい所大変申し訳ないのですが、現状を正しく把握させてほしくて。鬼みたいな上官への報告義務がありますし。医療団が到着してから半日くらい経ってますが、今、どんな状況ですか?」
「あ……えっと……」
イリッツァはいつもの天使のような余所行きの笑顔を少しだけ引きつらせた後、視線をさまよわせる。
(ん……?なんだ……?)
一瞬、リアムに緊張が走る。まさか、彼が到着するまでのわずかな時間で、既に何か異変が起きたのか――
「ちょっと、ここで話すのは――こちらへ来てくれますか?」
「は、はい」
礼拝堂から場所を移すことを提案され、童顔にピリッとした空気を纏わせながらついて行き――
「は、はぁ!!!?聖女様にそんなものの提出を求めたですって!!!!???殺しますか、そいつ!!!?」
「ま、まま待ってくださいリアムさん!!!結局、私は何も――教会の皆さんが代わりに率先して手を挙げてくださって――」
「当たり前でしょう!!!!?俺だってイリッツァさんにそんなことさせるくらいなら自分のを差し出しま――いややっぱり神の御名のもとに異教徒を成敗します!!!!今からでも遅くないです!どこにいますか異教徒は!!!」
「こここ声が大きいです!!!」
一瞬、任務を忘れて過激派信徒に変貌した童顔の騎士を必死になだめる。瞳を血走らせて腰の剣の柄に手を伸ばしている当たり、きっと冗談でも何でもないのだろう。
今にも刃を抜き放ちかねない右手を抑えるようにして制しながら、イリッツァは眉を下げて困った顔をした。
「今、教会関係者から集めたものを、えぇと――し、試薬?とかいうものを使って分析していらっしゃるところです」
「何ですかそれは!」
「な、何か、えぇと、特殊な鉱物とか薬とか……あとは、水魔法つかいと光魔法使いが協力して造るものらしくて――詳細な説明に関しては、私の知識が乏しいせいで、その、理解が出来なくて――」
「怪しすぎる!本当に信頼できるのですかそれは!!」
いつも穏やかで気が弱そうに見えて、兄に似たのか意外と沸点が低い激情家なリアムは、イリッツァに声を荒げる。
イリッツァはさらに眉を下げた。
(お、俺だって、もっとちゃんと知りたかったけど――)
イリッツァと教会関係者の間で誰が検査に協力するかの話がまとまった後――リオはまず、祖国から持ってきた荷物の中から、部下に命じていくつかの鞄を持って来させた。
その中の一つには、イリッツァには読めない異国の言語で書かれたラベルが貼られたたくさんの瓶がぎっしりと入っていた。
興味深く眺めるイリッツァなど気にした素振りも見せず、リオは迷いなくその中から厳選していくつかを取り出し、”臨床検査”とやらを始めたのだ。
「それは何ですか?」
「試薬だ」
「し、やく――?」
「あぁ。ファムーラは昔から、鉱物の産地でもあるのは知っているか」
「鉱物――宝石のことですか?」
「あぁ。宝石は、結局、鉱物を加工したものだからな。昔、ファムーラの奥地で、特定条件下で色を変える不思議な鉱物が発掘されて――長い年月をかけた研究の結果、医療に転用できると証明された」
「医療に転用……?」
「臨床検査の試薬として使える、ということだ。鉱石そのままでは使えないんだが、水魔法遣いが特殊な水を作り、その鉱石の欠片を一定期間浸しておく。その後、光魔法で――」
カチャカチャと準備を進めながら、イリッツァを振り返ることもなく一息に説明してから、ふと気づいてチラリと色眼鏡がこちらを向く。
美しい相貌にぎゅっと難しそうに眉根を寄せて、今にも唸り出しそうな顔をしたイリッツァがいた。
リオはそれを見て、一つ嘆息した。
「……まぁ。とにかく、この瓶に入った水に検体を浸すと、特定の条件で色が変わる。瓶の数だけ条件は違う。どの瓶の水で反応が起きたかを見れば、過去の症例と照らし合わせて病原が特定できる。……特定まで行かなくても、確実に違う選択肢を排除は出来る。そのためには、一人の検体だけあっても意味がない。十分な検体の量を用意して、一つ一つ記録する。年齢や既往歴なんかも参照して、確からしい仮説が出るまで繰り返す。――俺たちが病原を特定する、っていうのは、こういう作業だ」
詳細な説明は、施したところで理解不能だと諦めたのだろう。彼なりに十分平易な形でかいつまんで話してくれたのだろうが、それでもイリッツァには耳馴染みのない難解な言葉が並んでいることに変わりがない。
「もう少ししたら、検体が届くだろう。……お前はどうするんだ?」
「へ……?」
「ここから先は、とにかく単純作業だ。手伝ってくれるなら助かると言えば助かるが、聖女っていうのは、稀有な力を持った光魔法使いなんだろう。患者や、他の所へ行ってやることがあるなら優先してくれて構わない」
「あ……は、はい」
逆に気を遣われてしまい、思わず頷く。
それは確かに優先すべきことなのだが――
(少し――見て、みたかった……)
リオが”単純作業”と称したそれは、イリッツァにとっては異国の知恵が詰まった未知の作業だ。
そして、それこそが今のこの絶望に包まれた状況に希望の光を見出す唯一の作業だと、彼は言っているのだ。
もしも本当にそれで国が、民が救われるのだと言うのなら――一体どういう原理で、どういう作業を経て、どんな考察をすることで解決できるのか。
この国で将来同じようなことが起きたときのために知っておきたい、と思うのは、国の未来を真摯に願う聖女として当然の思考だった。
(でも、確かに――今の俺には、他にやらなきゃいけない仕事が沢山あるのも事実だ……)
重傷者の治癒はもちろん、聖水づくりや聖印に加護を施す仕事。そして何より、礼拝堂で熱に浮かされ、神の名を口にしながら絶望する信者を励まし、支えるという何よりも重要な役割がある。
それは、他の誰でもない――イリッツァにしかできない、唯一の仕事だ。
「では……お言葉に甘えて、私は一度礼拝堂の方に戻りますが――何かあれば、すぐにおっしゃってください」
「あぁ、わかった」
くい、と色眼鏡を押し上げるようにしながら振り返ることもなく返事をして、リオは机に並べた瓶の他にも、いくつかの見慣れぬ器具を取り出している。
おそらく、もう、イリッツァのことになど構っていられないということなのだろう。
(ヴィーが言ってた通り、本当に不愛想な奴だな……)
そっけない態度に胸中で呟きながら、ふと、先ほど彼が口走った言葉が脳裏に蘇る。
『だが、俺は医者だ。一つでも多くの命を救うために、ここにいる』
最大限まで譲歩しきった末に、彼が苛立ちを爆発させたときに口走った言葉が、それだ。
きっと、彼が決して譲れぬ、信条なのだろう。
(まぁ……ヴィーが言った通り、不愛想ではあるけれど、腕は確かなのかな。少なくとも、悪い奴じゃなさそうだ)
イリッツァは口の端に小さな微笑みを浮かべて、そっとリオの邪魔をしないように、静かに部屋を出て行った。
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