第5話
リオへの情報共有のため、落ち着いて話ができる場所――といっても、どこも患者の一時収容所として人が溢れかえっているため、唯一、人の出入りが制限されている個室へと通す。
それは、この緊急事態が始まってから、朝も夜もなく働き詰めて屋敷に帰る余裕などなくなったイリッツァの私室としてあてがわれた部屋。
本来、外部から著名な聖職者――例えば枢機卿団の誰か、等――が来訪したときに使われる部屋であり、その昔、リツィードが母フィリアから神学と聖人として生きるための心得を学んでいた部屋でもあった。
「どうぞ」
「あぁ」
入室を促すと、ペコリと軽く会釈をしてから入ってくる。
一回だけ、幼少期にカルヴァンがこの部屋へ来たときに腰掛けていた大きな窓からは、燦々と初夏の強い日差しが入り込むせいか、リオは屋内にも関わらず色眼鏡をかけたままだ。
リオの後ろに続いて入室して来たのは、まだ若い修道士。束の間とは言え聖女の私室ともいえる場所に、エルム教の教義や常識を知らぬ年若い男と二人きりにすることは許せぬと、戸口に厳しい顔で控えているが、リオは気にした様子はない。
客人を招くには不躾ともいえる待遇に、文句もなく受け入れてくれるのは、知識の上だけでも、王国の文化にある程度の理解を示しているせいなのか。イリッツァは隣国の使者の寛大な心に感謝し、リオへと分厚い紙束を渡した。
「これが、ここへ治療を受けに来た王都民たちの記録をまとめたものです」
「あぁ。助かる」
リオは、まず最初に現状を正確に把握したい、といって患者たちの
耳慣れぬワードに疑問符を上げるイリッツァや聖職者たちに、リオはぎゅっと眉根を寄せ、困惑した空気を出した。ファムーラでは当たり前に使われているそれが、王国に存在しないことに驚いたのだろう。
しかし、それを責めることは勿論、侮るような素振りも見せず、すぐにリオは言葉を尽くして診療録に代替する何かがないかと尋ねた。
平易な言葉で何とか王国の概念に無いものを伝えようとするリオには頭が下がる。
すぐに理解したイリッツァは、患者たちの個人情報と施した治癒の内容を記録した書類が該当すると当たりを付け、リオにこうして目を通してもらうことにしたのだ。
じっ……と黙って紙束に目を通すリオは、無言だ。
「あの……この資料で、良かったでしょうか」
「いや……」
恐る恐る声をかけると、リオはぼそりと小さな声で呟く。あまり口を開いて発音をしないというファムーラの言語の癖なのか、本人の性格なのかはわからないが、少しくぐもって聞き取りにくいそれを、イリッツァは真剣な表情で聞き漏らすまいと耳を傍立てた。
「……俺が求めたのは、”検査”の記録だ」
「え……?え、えぇ……」
「”検査”というのは――すまない、王国の言葉では、俺が意図している単語と異なるのかもしれないが……」
ザッと目を通し終えてから捲っていた紙束を閉じ、ぎゅっと眉根を寄せてリオは必死に言葉を探す。
ここにカルヴァンがいてくれればもう少し意思疎通は早かったかもしれないが、無いものをねだっても仕方がない。イリッツァはこくり、と真剣な表情で頷いて、耳を傾ける。
「何と説明すればよいか――例えば、軍に遠征用の物品が支給されれば、まずは検品作業が発生するだろう」
「へ――?」
急に、妙なたとえ話が出てきて、イリッツァは思わず間抜けな声を上げる。
もどかし気にリオは身振りを交えながら、必死に言葉を尽くした。
「納品された品物に間違いがないか、不良品がないか、正しい性能が見込まれるかどうか、そういう、作業が――あぁ、すまない。女にこんな例えをしてもわからないか」
「い、いえ!わ、わかります!」
もどかしさに歯噛みするように言われて、イリッツァは慌てて返事をする。
リツィードとして生きていた兵士時代には、率先してそれらの検品作業を担ったこともある。一般市民などより――あるいは今戸口にいる若い修道士などよりも――よほどその作業について詳しいだろう。
「その――検品作業のようなことを”検査”とおっしゃったのなら、我々が認識している”検査”の意味と、貴方の意図している”検査”の意味に、齟齬はないように思います」
「?……ならば、どうしてコレが出てくる?」
疑問符を上げて、リオは軽く手にした紙束を掲げる。
今度は、イリッツァが困惑する番だった。
「え――っと……逆に、リオさんは、どのようなものを想定していらっしゃったのですか?」
書類に書かれているのは、今、教会にある患者に関する記録の全てだ。
患者の氏名、年齢、住所。教会に来た日付、訴えた症状、それに対して施した治癒の魔法。治癒の後、再び症状が発症して再来すれば、その日付を記入して同様に記録を取っていく。
これが、リオの望んでいるものではないというのなら、いっそ彼の望むものを直接的に聞く方が早いだろうと判断し、イリッツァは水を向けた。
リオは、軽く腕を組んでから顎に手を当て、考えるようにして口を開く。
「まず、臨床検査記録が欲しい」
「り……りん、しょ……??」
「それに、既往歴もみたいところだ。遺伝的な要素によって症状の差異がないかわからないだろう?」
「き、きおう……?」
ぽかん……と口を開けて、何度も瞬きを繰り返す。未知の単語が出てきて、イリッツァはとにかく困惑した。
リオは再び眉根を寄せて、口を開く。どうにも、言語がスムーズに通じない。
「血液、尿、便。病原を特定しようとしていたんだから、最低限それくらいは検査しているだろう?それらの検査結果の記録が欲しい、と言っている」
「――……えっと」
ひくり、と頬を引きつらせてイリッツァは絶句する。入り口に控えていた修道士もまた、同じく絶句していた。
「まさか――ない、のか……?」
「は、はい……す、すみません……」
「個人情報の管理の観点で、部外者である俺に見せられない――というわけではなく?まさか、存在していない、ということか?」
「はい……」
その返答は、想定していなかったらしい。リオは、色眼鏡越しでもわかるほどに驚愕した。
「まさか、記録に残していない――のか?」
「いえ、そもそも、そんな検査をしたことがありません。っていうか、どうやってやるんですか……?血……?べ、便……?便って……便、ですか……?」
未知との遭遇、と言わんばかりのイリッツァの発言に、リオの方が驚いて返す。
「便だ。糞だ。高熱の症状を訴える人間がこんなに多いんだぞ。喉から来る熱なのか、腸から来る熱なのか、真っ先に疑うだろう」
「え――えぇと……?待ってください。まず、熱が喉からとか腸からって概念がよくわからなくて――」
「……嘘だろう……」
根気強く会話を試みてくれていたリオも、ついに天を仰ぐ。
ファムーラが、大陸の中で最高峰の医療技術を誇っていることは世界の共通認識だ。
だが、大陸最大の領地と力を持つかの大国・クルサール王国は、光魔法の聖地といって過言ではない。光魔法の研究が最も進んでいるのは間違いなくこの王国であり、それは即ち、魔法による治癒の世界最先端を誇っているということだ。
だから、アプローチの方法が違うだけで、医療水準としては、ファムーラと同等であると思い込んでいたのに――
「あの……り、リオ、さん……」
「いや……すまない。当初の想定よりも圧倒的に医療後進国だったことに驚き、絶望しただけだ。そうか……このレベルか……」
絶望的な声を出され、反論も出来ずに、ぐっと詰まる。
しん……と部屋の中に沈黙が降りた。
「……わかった。すまないが、人命がかかっている。もしかしたら、アンタたちの教義や文化に沿わないこともあるかもしれないが、今後は俺たちのやり方で進めてもいいか」
「は、はい……それは、勿論――」
「こんな調子で、よく深刻な伝染病の一つもなく、六百年も無事に国家が続いていたな……奇跡としか言いようがない。まさかそれすらも、『エルム様のご加護』とでもいうつもりか……?」
ぼそり、と小さな声で漏らされた独り言には、さすがにムッとする。
「あ、貴方たちの国の常識とは異なるだけでしょう。私たちには光魔法があり、それを極限まで研究し、治癒においては万能と言えるまでに磨き上げ――」
「結果が、このザマなら、意味はないだろう」
痛いところを付かれて、ぐっと言葉に詰まる。
確かに、”万能”と言いながらも、今この未曽有の事態の解決に至っていないのは、矛盾している。
「第一、光魔法の研究というのなら、そもそもの根幹を作ったのはうちの建国者の研究だ。彼女の研究の結果、光魔法は『対処療法としては万能だが、病を根治させるのには向かない』とはっきり示された。だから俺の国ではこの六百年あまり――光魔法の研究だけではなく、帝国の薬師の知識も合わせて、全く新しい”医療”という技術へと進化させることにしたんだ」
「ぅ……」
全く以てぐうの音も出ない正論を淡々と説かれ、閉口する。
「念のために聞くが――この辺りで採れる薬草の一覧などはあるか?」
「な……ない……です……エルム様のお膝元たる王都には、そもそも薬師という存在がありません」
「そうか。……まぁ、期待はしていなかった」
リオの声に、侮るような響きはない。ただ、淡々と現状を把握しているだけだ。把握し――呆れているだけだ。
「まぁいい。とにかくまずは、臨床検査だ。血と、尿と、便。まずは症状のある患者からこれらを集めてきてくれ」
「っ……」
呆れたように出される指示に、イリッツァは小さく息を詰めた。
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