第4話

 カン カン カン


「――――!」


 大通りの方から甲高い鐘の音が鳴り響くのが耳に届き、思わずイリッツァは礼拝堂の中で顔を上げる。

 硬質的な音が三つ響くこの合図は、王族や国賓といった身分の高い者や、神の名のもとに魔物を殲滅する騎士団などが通りを行く際に、一時的に全ての交通を止めさせるための合図だ。


「聖女様――!」

「わかっています。すみません、少しの間、こちらを頼みます!」


 汗だくで手伝ってくれていた見習いの聖職者が顔を輝かせるのに安心させるよう頷いて、イリッツァも額を拭って立ち上がる。玉の汗がびっしりと白い額に浮かんでいた。


「アラン。きっと、カルヴァンがファムーラから応援を連れて帰ってきた合図です。通りへ向かいましょう」

「かしこまりました」


 同じように礼拝堂に詰め寄せる患者たちに必死に治癒魔法をかけ続けていたアランに声をかけると、ほっとした顔で頷いて持ち場を周囲に任せて立ち上がる。

 一応この教会の長は、アラン・フィードだ。この国で聖女が特異な身分を誇っているとはいえ、アランも又、他国の応援を迎え入れる場に同席する必要があるだろう。彼は、枢機卿団の長でもあるのだから。


「しかし……カルヴァン・タイターも考えましたね。ファムーラを頼るとは……」

「はい。”医療”でしたっけ……”医師”という職業の人間たちが、傷病に関する研究を続けているとか」


 足の踏み場もないような礼拝堂を、横たわっている人々を避けるようにして注意深く歩きながら、つい最近、カルヴァンから聞いたばかりの会話を思い出す。


「ですが、かの国の”医師”の認識では、「光魔法は神の奇跡ではない」というのが通説とのこと……果たして、我々にその価値観が受け入れられるかどうか――」

「そう言わないでください。今は、緊急事態です。この状況下で我々が優先すべきは、守るべき民の命。この事態を収束させるためには、猫の手でも借りたい――というのが、私たちの本音でしょう」

「は……おっしゃる通りでございます」


 親子ほど歳が離れている男に嗜めるように言うと、アランは白髪が混じり始めた頭を当然のごとく伏せて聖女の言葉を拝命する。


「結局、我々だけではこの未知の病に対し、何も出来なかった――それは事実なのですから。もしもこの未曽有の事態を解決する術を、異国の者がもたらしてくれるのであれば、受け入れましょう。……大丈夫ですよ。神の声を聞けたという初代王クルサールも、ファムーラの建国に好意的だったと伝わっています。かの国の思想は、エルム様の教えに真っ向から反するような異質なものではないと言うことでしょう。今はそれを信じて、助言を請うのみです」

「はい」


 素直に頷く初老の男ににこり、と聖女の微笑みを残してから、ギィ……と外へ続く大きな扉を開ける。歴史ある重厚な扉は、女子供は身体全体を使わなければ重すぎてなかなか開閉できないと噂だが、イリッツァはそんな噂など幻想だと言わんばかりに軽々と開け放った。

 薄暗い教会内とは打って変わって眩しい陽光が視界を焼いて、一瞬目を眇めながら手で日差しを遮る。石畳をたくさんの蹄が鳴らす音が、遠くから響いていた。

 国立教会は、王都で一番大きな通りに面している。駆け出したい逸る気持ちを抑えて、通りへと早足で向かえば、案の定大通りは通行止めになっており、蹄の音が間近まで近づいていた。


(ヴィーだ……!)


 通りをまっすぐにやってくる一団の先頭に、遠目にも目立つ紅のマントを見つけて、心の中で声を上げる。大きく聖印が描かれた紅のマントは、王国騎士団長のみが身に着けることを許される特別な装束だ。


(それにしても、随分早いな……ファムーラの”医者”っていうのは、知識階級だって聞いてたから、どんなに急いでももう二、三日はかかると思っていたのに……)


 ファムーラには貴族制度がないと聞くが、知識階級と呼ばれる職は高収入であることが殆どであり、生活に困ることはないと言う。王国の貴族階級がそうであるように移動はもっぱら馬車が主であり、自ら馬に乗るような人間は稀有だろう。

 風の魔法使いが最大限に移動速度を上げるように追い立てたとしても、重い鉄の車を引く馬車の限界速度はある。

 今の季節、雪による障害はないと思っていたが、それでも王都にカルヴァンからの返事が来たタイミングから逆算すれば、もう数日はかかるだろうとイリッツァは踏んでいた。

 イリッツァは瞳を閉じると、軽く胸の前で聖印を切って、予想より早く応援が到着した奇跡を素早く神に感謝する。

 瞳を開けると、すぐ目の前に見慣れた騎馬が来ていた。


「待たせたな、ツィー。逢いたかった」


 馬上からニッと片頬を歪めて笑う幼馴染は、出発前と何も変わらない。

 どこか人を食ったようなその笑顔を見れば、何故だかはわからないが、どんな困難も乗り越えられるのではという気になるから、本当に不思議だ。


「感謝します、カルヴァン。貴方の機転のおかげで、王都が救われます」


 本当は、「俺もだよ、ヴィー」と軽く笑って軽口を返してやりたい気持ちだったが、今は周囲に信者やアランの目もある。

 聖女の仮面をかぶったまま――彼が嫌う「神に感謝を」という文言だけは避けて――礼を言うと、その絶妙な気遣いが伝わったのか、呆れたように軽く嘆息してから、カルヴァンは馬を降りた。

 一行を率いる将に近い身分のカルヴァンが下馬したのを皮切りに、後ろについていた一団も一斉に馬を降りて慌ただしく馬に括られていた積み荷を降ろしていく。


「緊急事態だ。王城より先にこっちに来た。ファムーラの人間はここに置いていくが、俺とリアムは一度王城に顔を出して、今回の件の詳細と――ついでに討伐任務の報告もして来なくちゃならん。肝心な時に手伝ってやれなくて悪い」

「それは全然……っていうか、先に帰してくれた新兵たちだけでも、めちゃくちゃ助かったし……」


 イリッツァは、ぼそぼそと周囲に聞こえないように、口の中で小さく感謝の意を述べる。

 新兵たちが騎士団不在で閉ざされていた騎士団専用の鍛錬場をはじめとする施設を解放してくれて、遠征用に用意されている栄養価の高い備蓄食料や持ち運び可能な寝具、光魔法が付与された聖印などを惜しみなく提供し、軽症者の受け入れを積極的に担ってくれた。

 意識が朦朧として動けない重傷者を運び込む男手はいくらあっても嬉しかったし、何より騎士は、民にとっては、神の加護を特別に受ける心強い存在だ。彼らが真紅の装束で人々に励ましの声をかけるだけで、気力が漲る者も多い。


「お前たちが気になっているだろう言語についてだが――この医療団の責任者を務めるリオという男は、日常会話も問題がない程に堪能だ。それ以外の者も、濃淡はあれど、意思疎通に問題はない。最も言語に不自由な者でも、ゆっくり話してやればこちらの意図を理解することぐらいは出来るレベルだ。ここに来るまでの数日間でも皆必死に覚えようとしていた。発音が根底から違うから、付け焼刃の連中は、訛りが酷いのは勘弁してやれ」

「そ、それは勿論――っていうか、むしろ、ありがたすぎて――」


 その昔――もうだいぶ遠くなってしまったリツィードの幼少期の記憶の中で、カルヴァンが教えてくれたファムーラの言語事情を思い出しながら恐縮して頷く。


「王城への報告が終わったら、俺もこっちへ来る。俺の言語力も日常会話レベルだから、医療の専門用語まではわからないが――まぁそれなりに通訳は出来るだろう。どうしても不便なら、騎士や兵士の中にもファムーラの移民がいたはずだから、呼びつけて頼めばいい。聖女様の頼みなら、俺が言うより早く聞く」


 この非常事態など気にしていないかのような飄々とした態度で、ニッと笑って見せるカルヴァンに、心を救われる。


「ありがとな。助かる」

「礼は、落ち着いた後たっぷり屋敷でしてくれればいい。主に身体で」

「殴るぞ」


 くっ、と喉の奥で笑いながら下卑た視線をよこした婚約者に半眼で返すも、カルヴァンは軽く肩を竦めただけだった。


「本当は今すぐ屋敷に連れ帰りたいところだが――緊急事態だ。仕方ない。お前がうるさいから、これで勘弁してやる」


 言いながら、すっとイリッツァの手を取って石畳に膝を突き、手の甲に口付けを落とす。

 一瞬目を丸くして、人目を気にして手をひっこめようとするが、騎士としては正しい挨拶の仕方であることを思い出し、イリッツァは苦い表情でそれを受け止めた。


「それでは、聖女様。束の間、留守にすることをお許しください」

「わかったからさっさと行け……」


 芝居がかった様子でニヤリと笑う不良騎士団長に、呆れかえった表情で返してから――ふと、視線を感じて顔を上げると、膝をついたカルヴァンの後ろに、ぬっと誰かが現れたところだった。

 身長は、長身のカルヴァンと同じくらいか。思わず見上げると、灰掛かった黒髪に、ファムーラに多い雪のように抜ける白い肌を持った青年が立っていた。


(……色眼鏡……?)


 あまり王国では見ない、黒褐色の色がついた眼鏡がかかっていて、思わずじっと顔を凝視してしまう。眼鏡のせいで、表情が見えない。


「失礼。……お前が、聖女と呼ばれる存在か?」

「ぇ――あ、は、はい」

「なっ……!」


 この国において、王よりも高位の存在とされる聖女にそのような口ぶりが許されるはずがない。

 ぼそり、と低くぶっきらぼうに告げられた言葉に、後ろにいたアランが思わず声を上げるが、イリッツァは手で制した。

 相手は、カルヴァンが言うように、発音が根底から違う言語を扱う人間だ。

 本来、協力を仰いだこちら側が、彼らの言語を学んで接すべきところなのに、わざわざ言語が堪能なものを中心に人員を選定してくれたのだろう。細かな敬語表現のニュアンスまで求めるのは酷というものだ。

 第一、そもそもが異文化であるこちらの常識を当てはめることも、ナンセンス極まりない。

 今は緊急事態であり――こちらが頭を下げて協力を依頼すべき時なのだから。

 

「紹介しておく。この男が、さっき言った責任者のリオだ。若いが腕は確からしい。道中、医療団の統率も見事なものだった。ちょっと不愛想だが、まぁ、大目に見てやってくれ」


 立ち上がってカルヴァンが紹介すると、リオと呼ばれた男は見えない表情のまますっと右手を差し出した。


「リオだ。言語に関しては、時折不便をかけるかもしれないが、よろしく頼む」

「ぁ――は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 差し出された手に一瞬戸惑い、それが握手を求める行為だと思い至って、慌てて握り返す。


(駄目だな……たった一年半で、もう庶民の感覚が抜けてるところがある……)


 基本的にこの国では、聖女に対しての挨拶と言えば、膝をついて首を垂れるのが殆どだ。聖女が許しを与えるまで、顔を上げることすら許されない。

 つい、聖女の感覚に染まってしまっていることを自覚し、己を恥じながらイリッツァはきゅっと男の無骨な手を握り返した。


(あれ――?)


 握った途端、ふと違和感を感じ、相手の顔を見上げる。

 しかし、色眼鏡の奥の表情は相変わらず見えない。


「……あぁ。瞳の色素が薄いせいか、昔から光に極端に弱い。母国でも、雪の反射から守るために日中はいつも掛けている。窓のある明るい屋内でも、だ。……昔からこうだから、今更眼鏡のせいで治療や診察で手元が狂うことはない――し、狂うことが許されない慎重な場面ではさすがに外す。今は、無礼を許してくれるとありがたい」

「あ、いえ……そういう理由なら、別に……」


 じっと見つめた視線を、挨拶の際にも色眼鏡を外さないことを咎められていると思ったのだろう。

 男の弁明に、イリッツァは頷きながら手を離した。


「それで?まずは状況を早く理解したいんだが」

「あっ……は、はい!こちらへどうぞ」


 ほんの少し眉を顰めながら促され、イリッツァはハッと己の責務を思い出して、慌てて教会の中へリオの一団を案内する。それを見届け、カルヴァンは馬に乗りリアムと王城へと向かって行った。

 早足で教会の敷地内を歩きながら、イリッツァは先ほど握られた右手へとチラリと視線を落とす。

 最近滅多に握手などしていなかったから、勘違いかもしれないが――しかし、あの握ったときの、独特の手の固さと感触は――


(――……剣胼胝……?)


 王国へ恩を売るために派遣される人材ともなれば、ファムーラの中でも有数の知識階級であろうことは疑いない。

 そんな存在に似つかわしくない手の感触に、イリッツァは軽く首を傾げ――


(今は、関係ない。まずは、目の前の事態を早く収束させないと)


 ふるっ……と考え事を頭から締め出すように軽く首を振って、気を引き締め直した。

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