暗転(2)
三日目 夕のいずれかの刻
宿舎二階の一角、スナメリ型の硝子窓が目印の若葉扉は他の客室より収納しやすい倉庫と快適な広さが備わった事務室の機能も兼ねている。
一際立派な長机で劇員の詳細をまとめた帳簿を捲る煌木は険しく唸る。
真剣な形相で念入りに確認しているのは水蓮華の収入、支出の推移を表した折れ線グラフ。国内に限らず世界各地での公演を成功させ利益は前月よりも伸びた順風満帆の業績だったが、慈善家としても活動する煌木は収入の殆どを食料、医療等の物資支援や海外の孤児院に注ぎ込んでいる。彼が今しているのは次に救いの手を出すべき国の吟味なのだ。
「ふむ、次はここにしようかね・・・・・・」
興味深い情報の波を紙で送り新たな寄付先を検討していると入室許可を願う扉の反響音が三度鳴らされる。ちらりと見た机の据え置き時計はいつの間にか約束の時間を指している。最低限の作業を終えている煌木に拒む理由は無い。彼は一言残して客を招く。
「入ってくれ」
約束を取り付けて来た相手が部屋に踏み入れるのを確認すると煌木は一際大きい手前のソファを勧め、先程まで使用していた資料を片付け始めた。
「今日の稽古はどうだった? 相変わらず傘橋さんの剣幕が酷かったんじゃないか? 全く、あんな指導のせいで朱音ちゃんが劇団から離れたらどうするつもりなんだ」
独り言に近い煌木の不満に客人は頷きも相槌も打ちはしない。寧ろ "自己満足" の為に行動してきたこの男の醜悪性から生み出されるであろう思想を自分の中で吐き捨てていた。
そんな客人の内心を気にしないで煌木は客人の顔が見える向かいのソファに腰を下ろす。そして持ってきた小型の包丁を器用に扱い瑞々しい果物の皮を綺麗に削ぎ落とし、切った林檎の果実を透明な皿で提供した。
「食べると良い。ここのは絶品だよ」
中心に凝縮した黄金の蜜、煌木の咀嚼から奏でられる新鮮な歯応えの音。林檎としては最上級の品質を持つ贅沢な三切れに目もくれず、客人は本題について強く尋ねた。すると仏の様な慈悲深さで接していた煌木から笑顔が消え聞き飽きたその話題に露骨な嫌悪感を見せる。
「・・・・・・ またその話かい?」
つまらなそうに溜め息を零した煌木はいつもの特徴的な喋り方が抜けた別人に変わり、本心が徐々に顕になっていく。煌木の過去から形成された価値観、家族を否定する言葉が吐かれる度、客人には憤りだけが溜まり我慢しきれない怒りが拳にも伝播する。
「何度聞かれたって返答は変えられないよ。さぁ、帰った帰った。明日の稽古に備えて君も休みなさい。僕も一日視察させて貰うからね」
無駄な面談で消費した時間で行う予定だった作業に早く取り掛かりたかったのだろうか。
虫を払う様に退出を命じた煌木は客人の動向を見送らずに丸みを帯びた背を向けてしまった。
殺意に支配された客人が果物包丁を突き立てて接近している事に気付かずに
四日目 明の九の刻 (午前九時)
「おはようございます」
水蓮華の劇員に佳菜子の品性ある眩しい挨拶が振りまかれる。数日前まで眩しい朝日を浴びても眠気の檻に収監され他人の力を借りなければ劇場に辿り着くことすら出来なかった佳菜子が美麗な足取りで探偵達の先陣を切る理想の所長の姿がそこにあった。
目撃したのが短期間とは言え、人の肩を枕代わりに就眠する姿が印象に焼き付いている三上含む劇員達は目を丸くして驚いていた。
「し、白糸さん? あんた朝なのに随分と元気じゃねぇか!?」
「谷川さんから貰った香炉を早速ベッドの近くに置いたの。そしたらご覧の通り、しゃっきり目が醒めたわ♪」
誇らしげに胸を張る佳菜子だが仕事場で眠りこけるのは社会人として相応しい行動では無い。しかし、極端に朝に弱かった佳菜子が自力で起床し普段の夜と同じ様に天日の下を闊歩出来るのは谷川が譲ってくれた香炉の効能である。置いてから一日目で真価を発揮した品物には毎朝呼び起こす柚も朝食時に応接室で合流した他の二人も驚きを隠せずにいた。
「んじゃ、
「えぇ。その唐辛子の塊は芽依ちゃんにあげなさい!!」
「娘は辛いの食えねぇよ・・・・・・」
稽古前の何気ない雑談が織り成す束の間の穏和。感情の受け取り次第で変速に流れていく空間では地底湖を形成する水の様に囁かな笑いが湧き起こる。
「ほら、みんな!! そろそろ稽古始めるわよ!!」
気の抜けた楽しい時間に微睡むエントランスを傘橋の喝が引き締まった真剣の意識へ統一させる。公演は間近である大事な状況を想起させ稽古に向かう劇員を確認すると傘橋は謙虚な姿勢で柚達を気にかけてくれた。
「すみません。うちの劇員、子供みたいに騒がしい人達ばっかで」
同じ姿勢で佳菜子もにこやかに対応する。
「いえいえ。これくらい賑やかな方がこちらも楽しく働けますから」
「そう言って頂けると幸いです。昨日は煌木も言ってたと思いますが今日は彼が来てから稽古を始めますのでそのつもりで」
明の十の刻 (午前十時)から数刻過ぎ
エントランスを警備する柚の "いやほん" に電子音の通信反応が届く。
「はい。こちら泡辻」
『Hey,ゆーぽん? 舞台袖担当の氷六ちゃんだけど団長さん見てる?』
軽い口調には似つかわしく無い報告を聞き柚は思い出す。確か十の刻までには劇場を訪れると昨日、煌木に言われたが今日は会っても姿を見てもいない。
宿舎方面からの出入りを確認しやすいエントランスにいる柚なら知っているかもしれないと連絡をかけてくれたのに全くの無知で返すのは居た堪れないが正直に報告する。
「すみません。こちらは確認しておりません。係員に申し付けて宿舎を探して貰いましょうか?」
『だねー。川内さんを筆頭に水蓮華の人達も探してるけど出来ればなる早で見つけて貰えると有難い。こっちは役者陣の頭上にせめぎあいの火花が見えちゃう程緊迫してるから〜』
「緊迫? 何故水蓮華の役者さんが対立する状況になってるのです?」
『今は説明してる暇は無いのだ。脅迫犯が動き出した最悪の可能性もあるから安心を得る為にも早く見つけ出さないと』
脅迫犯、その言葉で緊張が走る。
了承して通信を切断したその時、宿舎方面から慌てて走る川内と目が合うと若干の高低差を持つ緩やかなスロープの上から舞台と変わらぬ声量で柚に尋ねた。
「柚ちゃん。こっちに団長来た?」
「いえ、先程氷六から煌木さんがまだ来てないとは聞きましたが宿舎にもいないのですか?」
その問いに川内は首を振って否定した。
「泊まってた部屋には荷物が置いてあったから劇場から出ていないはずなんだけど・・・・・・ 共用スペースにもいなかったの」
「把握しました。私から係員に捜索補助を要請します。川内さんは先程の情報を劇場の皆さんにご報告を」
浮き出た冷や汗を拭い、柚はエントランスから抜け出す。
(まさか、脅迫犯の被害にあったのでしょうか?)
舞台袖から見た舞台上。
団長が来るまで稽古が始まらない状況に痺れを切らす三上と台本を熟読する六月の間で燃え広がりそうな火種が怒りを取り込み肥大化しかける。
「いくらなんでも遅すぎないか? あの人、遅くとも約束の二十分前には来るのによ」
「団長はお前らと違って多忙な方なんだ。余計な心配してないで下手な演技を改善しろカス」
「六月さん、それは言い過ぎで」
朱音がキツい物言いを咎めようとするが三上は抑制する。
表現を濁さず人の心を抉るダメ出しは激怒で返されても文句は言えないが、団長が一向に劇場に来ない現状、口論を交えるべきでは無いと知っていた三上は声帯に載せかけた鋭利な言霊を胸の内に抑え激昂しかけた頭に空想の激流を浴びて理性を取り戻した。
「お前なぁ・・・・・・ そうやって信仰者ぶるのは結構だがマジで団長に何かあったらどうするんだよ?」
三上がどれだけ暴言に近い刺激を吐かれても冷静でいられるのは習慣化によって忍耐を身に付けたのも一因だが、何より周りと比べて演技の才能が劣っている事を自分自身が明白にしているからだ。
内面の性格は最悪だが六月の演技は水蓮華の中でも指折りに入る実力。努力型の三上が貴重な時間を削り天性の才能を追いかけても背は遠のくばかりで彼を超える事は出来ない。三上が今まで重要な役柄を貰えたのは健全な肉体と必死に創造した演技。そして少々運が味方してくれただけ。
"自分に演技の才能は無い"
それを真摯に受け止めて水蓮華で活動し続けた。
当然、格下として見下している六月に三上がそんな我慢を重ねているなど察する気など無い。
「そんなに心配ならお前がひとっ走り行ってこいよ。服の上からでもウザく誇示してるその筋肉使って。こっちはな、演技の研磨に忙しいんだよ。機械みたいな演技しか出来ないお前と違って」
「俺だって行きたいさ! けど川内がすぐ連れて来るから劇場から出るなって釘刺されてんだ。だからここで焦らされてんだろうが・・・・・・」
劇場前の扉が強めに開かれる。
「駄目・・・・・・ 何処にも見当たらないの」
川内が告げた事実で劇場内にどよめきが波打つ。
団長が忽然と姿を消した異常に得も言われぬ恐怖が襲い掛かり、不安を解消しようと他の者と話しても恐怖は点つなぎで伝播していく。迫り上がる脅威の水位の増幅を補助する様に女性劇員が口走った柚達の存在理由が疑心暗鬼の心を更に煽動する。
「ねぇ・・・・・・ 脅迫犯に襲われたって可能性は?」
劇場内の何処にも煌木がいない。謎の脅迫犯。
二つの根拠は劇員達の有り得るかもしれない事態を掻き立てるには強力過ぎる不安材料だった。
全員が脅迫犯への恐怖に打ちひしがれる中、舞台袖から物怖じせずに未だ平静を保つ氷六が顔を出し数刻前までの出来事について聞いた。
「なぁ、川内さん。確か傘橋さんと一緒にいたと思うんだが、君一人かい?」
「遼花とは別の用事があるって途中で別れたんだけど」
氷六視点では川内と傘橋は劇場に入って早々、二人一緒に内部の散策の為、劇場から出る。約束の時間を過ぎても来ない団長と二人を気にかけ別の劇員が探しに行ってくれたのだがその人とは連絡通路で出会い団長が来ない事、劇場で待機するよう伝言を預け捜索に奔走していた事。川内が先程までの経験を素直に語った直後、一通の電報が氷六の耳元に届く。
「はいはい。こちら霧ヶ谷。・・・・・・ それホント!? 分かった。劇員引き連れてそっちに直行する」
"いやほん"を通じて知らされた異常。それは裏方仕事の最中だったセレナと萩野が突如、開かなくなった扉を開けるのに苦戦しているという物。
重要拠点から離れられない柚、代わりに楽屋エリアを受け持ってくれる麻沫以外の二人が増援として駆けつけた朱色の扉の前では、榊に助けを求められ一足先にセレナと萩野が金色の取っ手を握って苦戦しており通報主の榊が鍵を握りしめて控えていた。
「何があったの?」
脅迫状を送り付けた犯人から攻撃を受けたかもしれない緊迫した状況。しかし六年間、探偵の経験を積みどんな事態にも対処出来るよう平静に行動出来る佳菜子は焦る事無く理性を保つ。
「そ、掃除をしようと思い、朱音様の楽屋を開けようとしたら何故か開かなくて・・・・・・」
楽屋の扉には内側のみ開けられる電子ロックと鍵があれば誰でも開けられるシリンダー錠の二つが付いており、どちらか一方が閉められていれば扉は開かない。
シリンダー錠は榊によって既に解除済みな為、それでも開かないのであれば中に誰かがいるのは間違いないはず。そう推測した佳菜子は少し強めに呼び掛けの反響音を生み出した。
「誰か。誰かいるの?」
確実に室内に響いたであろう音が鳴り終えても、楽屋からの反応は無い。
扉が壊れた手応えも感じない為恐らく鍵以外の物で封じられているのだろうが目的に察しがつかない。だが行方不明の煌木や脅迫犯がいる可能性を考えれば一刻も早く中を確認するべきである。
「白糸さん。蹴ったくらいで壊れる程この扉は脆くありません。躊躇いなく突破をお願い致します」
楽屋を利用する朱音本人から頼まれればやるしか無い。深呼吸し一大の覚悟を固めた所で扉に向き直す。
「氷六・・・・・・ 気は乗らないけど少々手荒に行くわよ」
「合点承知之助」
高級感溢れる豪華な扉を傷付けるのは罪悪感が残るが、今はするのが最優先だ。
脳内を遮るモラルの霧を振り払った佳菜子は、氷六と共に扉に渾身の蹴りを撃ち込む。すると電子ロックが施されていなかった扉は蹴撃の威力を受け簡単に蝶番の限界まで勢いよく開かれる。
強引な開放に合わせて雪崩込む様に室内に突入した佳菜子達を出迎えたのは初めて見た絢爛な世界では無かった。
格式高いソファが無惨に倒され、ドレッサー周辺は粉々の鏡と割れた化粧水で散乱し、壁紙は覆っていた壁ごと貫かれた裂傷の痕が至る所に刻み込まれている。嵐が通り過ぎたのかと錯覚させる悲惨な室内は滞在するのも躊躇うが中心には先客と思わしき人物が茫然と立ち尽くしていた。
「・・・・・・ 傘橋さん?」
震えながら呟く様に朱音に呼ばれ振り返った女の顔は状況を何一つ飲み込めていない
今日着ていた黒色のスーツと眼鏡を外した凛々しい顔は赤黒い血液で大部分を塗り潰し、極めつけは右手に持っている包丁。炊事に使うには小柄で軽そうな灰色の刃は傘橋に付着したのと同じ血液が今も滴り落ちている。
印象や雰囲気を変える為の美化にしては過激過ぎる変貌を遂げた親友に対し、川内は恐る恐る尋ねた。
「り、遼花・・・・・・ ? ここで何してるの?」
「あ・・・・・・ あたしにもさっぱり・・・・・・ ・・・・・・ ねぇ。この包丁って何? なんか、湿ってるんだけど・・・・・・」
覚えのない出来事が次々と降りかかり、劇員から放たれる軽蔑から逃れようと後退りする傘橋を追いかけて荒れた楽屋内を進む探偵達の目の前に凄惨な光景が目に飛び込んで来た。
傘橋が立っていたすぐ側、初日警護の打ち合わせを行った机とソファが点在していたちょうど楽屋中央の床。
そこには筋を断ち切り柔らかい食感を生み出す ”すてーき” の下準備の様に滅多刺しを打ち込まれ傘橋が身に纏う同じ血を流出させた煌木が物言わぬ死体と化していたのだ。
変わり果てた団長の残酷さに悲鳴をあげる者
腰を抜かしてその場から動けなくなった者
急転した事態を理解出来ず困惑しか呟けぬ者
反応は様々だが彼らの不安と恐怖を更に煽る脅迫犯からの贈り物が最奥の壁に書かれていた。
『舞台ノ座二居続ケルナラバ、次ハオ前がコウナル番ダ』
第三話 暗転(2) (終)
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