第49話「私、もう先輩と一緒には──」

「こ……琴ヶ浜、だよな?」

「…………」


 そこにいたのは、夕方に見た制服姿のままの琴ヶ浜。

 しかし、いつもきちんと整えられていた黒髪は振り乱れ、切れ長な目元も今は赤く腫れてしまっている。

 固く握りしめた両手を胸元に抱きかかえながら、フラフラと力なく歩いてくるその様は、お世辞にもあの琴ヶ浜恵里奈と同一人物とは思えないほどだった。

 何も聞かずとも、琴ヶ浜がどうしようもなく憔悴しょうすいしてしまっていることだけはわかった。


「…………せん、ぱい」


 どう声を掛ければ良いのか分からず戸惑う俺に、琴ヶ浜が掠れた声で呼びかける。


「お、おう、琴ヶ浜。あ~、その……大丈夫か?」

「……私なんかより……先輩の、怪我は」

「あ、ああ。俺は平気だよ。思ったより大した怪我じゃないみたいだしさ。二、三日あれば退院できるって話だし、一週間くらい安静にしてれば治るらしいからな。なんてことないよ」


 努めて何でもない風にそう言ってみても、琴ヶ浜は相変わらず虚ろな目で横たわる俺を見下ろすだけだ。

 こいつのこんな弱りきった姿なんて初めて見た。


「……私たち、先に受付に戻ってるわね」


 押し黙ったままの琴ヶ浜に言い残し、藤恵さんと涼子さんが静かにその場を後にする。

 二人きりになった病室は、すでに夜ということもあってとても静かだ。

 聞こえる音といえば、時々遠くの廊下で病院の職員が歩くコツコツという足音くらいのものだった。

 そうしてお互いに何も言わないまま、数分が経ったころ。


「……とても」


 琴ヶ浜が震える声で言葉を漏らす。


「とても、怖かったんです。……のことを、思い出して」

「あの日……?」

「ケンスケが……私の大事な家族が、大怪我を負った日のことです」


 琴ヶ浜の声は、段々と涙交じりになっていった。

 そして、次には絞り出すように告白する。


「あの子が大怪我を負ってしまったのは……本当は、私のせいなんです」

「え?」


 琴ヶ浜の台詞に、俺は以前こいつの家を訪れた時のことを思い出す。

 ケンスケが死んだことを、自分のせいだと思っている。

 たしか、琴ヶ浜のお母さんもそんなことを言っていたっけ。


「……どういうことなんだ?」


 おそるおそる聞いてみる。

 琴ヶ浜は、しばらくの間何も言わずにじっと俯いたままで。

 それでもやがて、固く閉ざされていたその口をおもむろに開き、ポツポツと語り始めた。


「──私が中学三年生になった……ある、春の日のことです」


 学校から帰ってきて、いつものように自室でケンスケと戯れていた琴ヶ浜は、ちょうど夕飯の支度をしていた母から頼まれて、急遽おつかいに行くことになったという。

 準備を整えた琴ヶ浜は、最後にケンスケを部屋のタンスの上に置かれたケージに戻して出かけたそうだ。

 しかし……。


「おそらく……ケージの扉の金具が、うまく固定されてなかったんだと、思います。私が部屋に戻ってきた時には扉が開いていて……部屋の床には、タンスの上から落ちてグッタリと横たわっているケンスケの姿が……」


 どのくらいの時間その状態だったかは定かではないものの、その時はケンスケにはまだ息があったらしい。

 慌てて近くの動物病院に駆け込み、腕のいい獣医にも恵まれたお陰でひとまず一命は取り留めた。

 しかし、ケガのショックからか、それからケンスケはみるみる衰弱していき。

 以前のようにケージや部屋の中を散歩することはおろか、満足にご飯も食べなくなってしまい……ほどなくして、静かに息を引き取ったそうだ。


(そういう、ことだったのか……)


 目の前を覆っていた霧が、少しだけ晴れたような気分だった。

 俺に対する、いっそ大げさと言ってもいいほどに過保護で心配性な態度。

 あれは、こいつのそうした辛い経験からのものだったのかもしれない。


「『あの時と同じだ』って……また、私のせいで、今度は先輩が死んじゃうんじゃないかって……怖くて、怖くて、堪らなかったんです」

「お、おいおい。なんでそうなるんだよ。誰だって、俺だって、お前のせいで俺が屋上から落ちたなんて思っちゃいないっての。お前が責任を感じることなんか……」


 俺の言葉を遮って、琴ヶ浜はイヤイヤをする子どもみたいに首を振る。


「あの時、私が一人で勝手に屋上に踏み込まずに、先生や照ヶ崎委員長に相談していればこんな……こんなことには、なりませんでした。ケンスケが死んだ日だってそうです。私が出かける前にきちんとケージの金具を確認していれば……全部、私のせいなんです」

「琴ヶ浜……」


 真面目で、責任感が強くて、他人にも自分にも厳しい琴ヶ浜。

 そんなこいつだからこそ、なんだろう。

 俺のような凡人が「仕方ない。あれは誰のせいでもなかった」と片付けてしまうことでも、必要以上に責任を感じてしまうのは。


「もっとお世話をしてあげればよかった。もっと遊んであげればよかった。もっとちゃんと、あの子のことを見てあげればよかった。もっと、もっと、もっと、もっと、もっと…………頭の中には、そんな手遅れな後悔ばかりで……もう、あんな思いはしたくない……」


 ……いや、きっとそれ以上に、こいつの中ではトラウマになっちまってるんだ。

 責任どうこうはともかく、自分の行動によって誰かが死んでしまう事が。

 積み重ねた幸せな思い出が、ある日突然に自分を押し潰す「重り」に変わる事が。


「今回は……たまたま運が良かっただけなんです。この先、今日みたいに私のせいで先輩が大怪我をして、そのまま……。いつか絶対、そんな日が来る気がするんです。あの時の、ケンスケと同じように」

「…………」


 溢れ出る涙のままに、身を切るような顔をして。


「なんでもないお喋りをしたり、ご飯を食べさせてあげたり、一緒に遊んだり、時には厳しく叱ることもあって、それでもやっぱり甘やかしちゃって……。ほんの短い間でしたが、先輩と過ごした時間はとても楽しくて……まるであの頃のようでした。この先もずっと一緒にいれたなら、どれほど幸せなことか。でも……そうしたらきっと、先輩を不幸な目に合わせてしまうんですよね。だから……」


 琴ヶ浜はゆっくりと、絞り出すように、胸の内の決意を言葉にした。


「だから、私はもう……鵠沼先輩と一緒にいない方が──」


「俺は死なないよ」


 今度は、俺が琴ヶ浜の台詞を遮る番だった。

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