第46話 叫んだその名は

「こちらはこれ以上、あなたたちと話すことはないのですが」


 いきり立つ和田さんをちらりと振り返り、私は言った。

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、それから和田さんは悔し紛れといった風にニヤリと笑う。


「くっ……は、はは、ダッサ! 『報告』とか言ってカッコつけてるけどさ、それって結局『チクる』ってことじゃん? アンタ高校生にもなって恥ずかしくないの?」

「質問の意味がわかりません。なぜ違反行為を教師に知らせることが恥になるのですか?」

「こ、こいつっ……!」


 私を引き留めようとさらに躍起になる和田さん。

 掴みかかられようが嘲られようが少しも動じないこちらの態度に、ますます業を煮やしている様子だ。

 そうしてしばらく押し問答が続き、


「……! あれぇ?」

「あっ!」


 やがて、獲物を見つけた肉食獣さながらの獰猛な笑みを浮かべた和田さんが、右肩にかけていた私の学生カバンをひったくった。


「アハハ! なんだよ、散々偉そうなこと言っといて、アンタだってしてんじゃん!」


 彼女は鬼の首でも取ったかのように私のカバンを掲げて見せる。


「随分カワイイもん付けてんじゃない。ねぇ、『鬼の風紀委員』さん?」


 そう言って彼女がピンピンと爪で弾いているのは、例のハリネズミのストラップだった。

 次にはファスナーからストラップだけを取り外し、私のカバンを屋上の隅に無造作に放り投げる。


「『学業に関係ないものを持って来るのは校則違反』、だったっけ? これってどう見ても勉強に使うもんじゃないよね? ならアンタだってウチらと同じじゃん」


 手のひらでストラップを弄びながらの和田さんのセリフに、仲間の二人も私を指差して嘲笑した。


「か、返してください! それは、大事な……!」


 思わず声を上げてしまってから、「しまった」と後悔する。

 しかし、時すでに遅し。

 何をしても動じなかった私が初めて見せた「隙」を見逃すはずもなく、三人はいよいよ勝ち誇った表情を浮かべる。


「バーカ。返すわけないじゃん」

「人には厳しくするくせに、自分だけ見逃してもらおうとかさ。さすがに虫が良すぎっしょ」


 見逃すも何も、そもそもこちらは何一つとして違反なんかしていない。全くの無実だ。

 それでも、そんな事情は彼女たちにとってはきっとどうでもいいのだろう。

 彼女たちはただ、私への意趣いしゅ返しがしたいだけなのだから。


「あ、でもぉ。条件次第なら返してあげてもいーよ?」

「……条件?」

「そうそう。まず、ウチらがこの場所を使ってるのは内緒にすること。そんで、アンタは今日からしばらくウチらのパシリになんの。期限は、そうねぇ……ウチらが飽きるまで、かな」


「どうする?」とでも言いたげに、和田さんがコテンと首を傾ける。

 無茶苦茶だ。違反行為を見逃すどころか、あまつさえそれに加担するようなこと、風紀委員として……いや、何よりも私自身が認めない。


 キーン、コーン、カーン、コーン。


 午後六時を告げるチャイムが、学校中に響き渡る。

 徐々に小さくなっていくその余韻が消えるのを待ち、私はゆっくりと口を開いた。


「…………ません」

「なに? なんか言った?」

「そんな条件は呑めません。そもそも、あなたたちに対して私が譲歩する理由も必要も、一切ありません」

「は、はぁ? なにそれ? これ、アンタの大事なもんなんでしょ? ウチらに取られたままで良いわけ?」

「良くありません。ですが、たとえ今は奪われたままでも、風紀委員会や生徒指導室が今回の件に対応する過程で、いずれ私の手元に戻ってくることでしょう。ただし、その場合は一連の強奪行為についても加味した上での処遇が、あなたたちに下されることになりますが」


 すぅっ、とひとつ深呼吸をして、私はもう一度、今度はあくまでも冷静に告げる。


「今ならまだ、ちょっとした悪戯であるとみなして不問にします。これ以上立場を悪くするのは、あなたたちも望むところではないはずです。……それを、私に返してください」

「…………あっそ」


 単に眩しかったからか。

 それとも心底つまらないと感じたからか。

 西日に照らされた和田さんの瞳がスッと細くなり、そして……。


「なら、返してやるよ」


 右手に持っていたストラップを、何の躊躇もなく屋上の外へと放り投げた。


「あっ……」


 ──こんなものでも良かったら、俺からのお土産ってことで貰ってくれよ。

 ──大事にしますね……今日の、記念に。


 夕暮れ空の下、放物線を描いて宙を舞うハリネズミのストラップ。

 私の脳裏に、それを受け取ったあの日の記憶がフラッシュバックする。

 所詮はたかだか百円程度の、プラスチックの玩具に過ぎない。

 落ちて壊れてしまったところで、またいくらでも新しい物を手に入れることはできるだろう。


(でも、あれは……)


 あの日曜日、あの動物園で、彼が私にプレゼントしてくれたあのストラップだけは──。


「……っ!」


 気付けば私の足は地面を蹴り、脇目も降らず屋上の鉄柵へと駆け寄っていた。


「はっ!? ちょ、バカっ! アンタ何して……!?」


 まさか私がストラップを追いかけるとは思わなかったのか、思わずといった風に和田さんが叫ぶ。

 ギョッとする彼女の顔を横目に、私は鉄柵から身を乗り出した。


(お願い……届いて!)


 心の中で祈るように叫び、肩から千切れるんじゃないかというくらい右手を伸ばす。

 落下してきたストラップが吸い込まれるようにしてその手のひらの中に納まり、


「取っ……え?」


 限界まで重心を前方に移動させていたせいで、鉄柵を支点に私の両足がフワリと浮かび上がる。

 同時に、視界はゆっくりと下降を始めていき……。


(これ、落ち……!)


 全身からサッと血の気が引くのを感じる。

 数秒後、地面に強かに叩きつけられて赤いモノの中で横たわる自分の姿を幻視し、私は恐怖に体を強張らせる。

 それと同時に──


(ああ……そっか)


 けれど、心のどこかでは不思議と納得している自分もいた。

 時間の流れがひどく遅く感じる、橙色の世界の中。

 伸ばした右手の中で揺れるハリネズミのストラップを見つめながら、考える。


 あるいは、これこそがきっと、因果応報というものなのかも知れない。

 去年の春のあの日──私の不注意が招いた怪我で、あの子は不幸な死を遂げてしまった。

 私があんな「ミス」を犯さなければ、きっとあの子は今でも元気に歩き回っていたはずだ。

 私が──あの子を殺したようなものなんだ。


(なら……しかたない、よね?)


 罪を犯してしまったならば、それに然るべき処罰は受けなければならない。

 そんなこと、私が一番よく知っているじゃないか。

 今まで誰からも下されなかったその「罰」が……今、こうして私に下された。

 きっと、それだけのことなのだ。


「……ごめんね」


 無意識に口をついて出たその言葉は、一体誰に向けたものなのか。

 それを考える時間はもう、私には残されていなかった。

 手の中のストラップを握りこみ、ギュッと目を閉じる。

 視覚を遮断したせいか鋭くなった聴覚によって、どこかで誰かが叫ぶ声が聞こえた。

 屋上にいる和田さんたちの誰かか。

 それとも、たまたま特別棟に目を向けた校内の誰かか。


「………ぅぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 それはまるで、血に飢えた獣の咆哮のような…………え?


(う、そ……これって……!)


 雄たけびにも似たその声に思わず目を見開いた、その瞬間。


「ヴァッカ野郎ぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」


 なかば中空に放り出されるような体勢だった私の体が、凄まじい力で引っ張り上げられる。


「うくっ……!」


 次には訳も分からぬままに、私はもといた屋上の床に尻餅をついていた。

 臀部でんぶに走る鈍い痛みに顔をしかめ、それからハッと我に返って目線を上げる。

 そこには、今まさに私を引き上げ、けれどその身代わりになるかのように鉄柵の向こう側へ飛び出してしまった、一人の少年の姿があった。


「……だ……ダメ……」


 一瞬にして下方へと消えてしまうその影。

 ともすれば先に自分が死を目前にした時以上の恐怖を覚え、今度は決して届くことのない手を伸ばし、私は叫んだ。


「────鵠沼先輩っ!」

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