第30話 「私、ずっと先輩のことを……」

 口の中に広がったあのほろ苦くてひんやり冷たいコーヒー氷の味と共に、俺は思い出していた。


「先輩さえ良かったら……こうしてまた、二人で一緒にお出かけしませんか?」


 そう言った琴ヶ浜の顔は、あの時と同じ顔だった。

 うだるように蒸し暑かった日曜日。ルピナスの前で別れる時に見せた、あの表情。

 悲しいかな、今まで実物を拝む機会などなかったので、これが「そう」なんだとはっきり言えるわけじゃないが……それはまるで、恋する乙女のような……。


「あ……あのさ、琴ヶ浜!」

「は、はい? なんですか?」

「いやその、ちょうどいい機会だからさ。ちょっと聞きたい事、あるんだけど……」


 これまで自分の中に降り積もっていた「もしかして」に突き動かされて、気付けば俺は琴ヶ浜にそう言っていた。


「……琴ヶ浜ってさ、いつも俺に優しいよな。ああいや、もちろんバイトの時とかはすっげぇ厳しいけど、それでもちょっとした事でめっちゃ褒めてくれたり、怪我した時なんか自分の事みたいに心配してくれて……なんつーか、俺のことすげぇ甘やかしてくれるだろ」


 う、うわぁ、はっず! 

 なんか勢いに任せてヤバいこと口走ってる気がするけど、大丈夫か俺!? 


「バイトの事だけじゃなくてさ。いつも俺のために差し入れ作ってくれたり、今日だってこんな風に、一緒に動物園に行こうって誘ってくれたり……また一緒に出掛けたい、って、言ってくれたり……そういうのって、さ」


 おそらくは俺史上ベスト3に入るくらいに緊張するあまり、俺の口は油でも飲んだのかと思うくらいによく滑った。


「教育係だから、か? ……」


 ヒュウ、と一陣の風が吹き、周囲の木々がザワザワと枝葉を鳴らす。

 思わず飛びだした俺の問いかけに、琴ヶ浜はしばらく押し黙る。

 風に煽られた前髪に隠されて、その表情はこちらからはよく見えない。

 実際には十秒もかからなかっただろう。

 けど、俺にとっては数時間にも感じるほどの沈黙を経て、


「……やっぱり、良くないですよね。このままじゃ」


 風音に紛れてボソリと呟いた琴ヶ浜が、次には揺れる前髪をサッとかき上げ、何事かを決心したような神妙な面持ちで俺を見上げた。


「先輩」

「お、おう」


 ゴクリ、と生唾を飲みこみ、俺は琴ヶ浜の二の句を待つ。

 すでに心臓はバクバクと早鐘のように脈打っていた。


「私は……先輩の教育係です。藤恵ふじえ姉さんに任された以上、私にはあなたの面倒を見る義務があります。時に厳しく、時に優しく先輩に接するのも、教育係としての私の務めです」


「けれど」と、僅かに言葉を詰まらせつつ、琴ヶ浜は続けた。


「そうですね。たしかに私は……鵠沼先輩に対して、ただの学校の先輩やバイトの同僚に向ける以上の感情を抱いていました。いえ……今だって、抱いています」


 一歩、また一歩と、琴ヶ浜が俺に近づいてくる。


「ただ、それを打ち明けてしまったら……もしかしたら、今のこの関係が壊れてしまうんじゃないか。先輩が、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないか。そう思って、ずっと言えずにいました。でも……そのせいで、先輩に余計な不安を感じさせてしまっていたんですね」

「琴ヶ浜……」

「いえ、いいんです。いつかは言わないといけないと思っていましたから。そのいつかが、きっと今日、この瞬間だったんでしょう」


 もう目と鼻の先までやってきた琴ヶ浜は、いよいよ覚悟を決めたといった表情だ。


「先輩。私……私、最初に出会ったときからずっと、先輩のこと……」


 マ、マジか!? マジでマジなのか!? 

 だって、この流れはもうどう考えても……!


 俺の心臓はもはやフルマラソンを全力疾走した直後かと思うくらいに激しく高鳴っている。

 体中が一気にカッと熱を帯びていくのを感じた。

 

(琴ヶ浜はやっぱり、俺の事を……!)


 美しい夕焼け空。二人きりのバス停。

 顔を赤く染めながら、それでも決然とした表情で俺を見上げる琴ヶ浜。


「先輩のこと、大切な……本当に大切な……」


 あつらえたようにシチュエーションも手伝って驚きと興奮がないまぜになったような心境の俺に。

 彼女はとうとう、その胸に秘めた思いのたけを打ち明けた。


「────!」


 ……………………………………………………………………。

 ……………………………………。

 ……………………。


「…………はい?」


 暮れなずむ空に、俺の間抜けな声が響き渡る。

 下り坂の向こうから、「ブロロロッ」と帰りのバスがやってくる音が聞こえてきた。


 ええっとぉ…………ドユコト?

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