第9話 鬼教官はご機嫌斜め?

「鵠沼くん、今日はまだ一度もお客さんの前に出てないでしょ?」


 驚く俺に、涼子さんがそう聞いてくる。


「え? ええ、そりゃまぁ、まだメニューとか覚えきれてないですし」

「だよねぇ。でも、アタシを含めてあの子の研修を受けた人は、講義が終わったらいきなりホールに出されたよ。あとは実践で覚えて下さいって感じでさ。『確認テスト』なんて、そんなものなかったよ」

「マジですか? うわぁ、そりゃたしかに俺より大変そう……」


 俺がしかめ面を浮かべる前で、涼子さんが懐かしむように呟く。


「うんうん。最初はメニューなんか当然うろ覚えだったから、全然注文が取れなくてさ。右も左も分からない状態でホールに放置されて、お客さんたちからの冷ややかな視線に晒されて……いやぁ、あれはなかなかヤバかったよ、うん」

「そ、そうですか」


 その割に満足げな表情なのはなぜなんだろうか? 

 もしかしてこの人……いや、やめよう。これについては深く考えない方がいい気がする。


「まぁそれはともかく……じゃあ、なんで俺の時だけ?」

「さぁ? さすがにこれまでがスパルタ過ぎたと改心したのか。あるいは、鵠沼くんがよっぽど危なっかしいと思われているんじゃないかな?」


 その二択だったら間違いなく後者だと思う……耳が痛い話だ。


「まぁとにかく、彼女の指導についていくのは大変だろうけど」


 がっくりと落とした俺の肩を、涼子さんがポンポンと叩く。


「なんとか心を折らないように頑張って、できれば辞めないでいてくれると助かるよ。せめて、一か月くらいはさ」

「あ、あんまり脅かしっこなしですよ」

「……お二人とも、そこで何をしているんですか?」

「ひっ!?」


 不意に響いた冷たい声に、俺は条件反射で「気を付け」の姿勢をとる。

 恐る恐る振り返ると、そこには背後で「ゴゴゴゴゴ……」という効果音が出ていそうなほどの鋭い目付きでこちらを睨む琴ヶ浜がいた。


「涼子さん」

「はーい。なにかな、エリナちゃん?」

「三番卓のお客さん、もうお帰りになったんですよね? テーブルの片付けは終わったんですか?」

「ああ、うん。ちょうどこれから片付けに行こうと……」

「ならこんな所で雑談していないで早く行ってください」

「やーん、エリナちゃんったら怖~い。そんなに怒んないで」


 射殺さんばかりの眼光を向けられた涼子さんは、しかしまったく動じる素振りがない。

 女子とはいえ、さすが大学生。これが大人の余裕というやつか。

 ……と、思いきや。


「あの冷たい目……ふふ、今日もエリナちゃんは絶好調だね」


 去り際にボソリとそう呟いた涼子さんの横顔に、俺は悟った。

 ああ。この人が琴ヶ浜と一緒の職場に居続けられたのは、ね……。


「鵠沼先輩も、戻ったら確認テストの続きと言いましたよね? 私がいない間、少しでもメニューは覚えられたんですか? 涼子さんと随分楽しそうに話していたようですが」


 テーブルの片付けに向かった涼子さんを見送ると、琴ヶ浜が今度は俺の方をジロリと睨む。なんだか先ほど説教をされていた時以上の「圧」を感じる。


「そ」

「言い訳なんて聞きたくありません」

「まだ『そ』しか言ってないんだけど!?」


 まるで取り付く島がない。

 っていうか琴ヶ浜の奴、なんかちょっと機嫌悪くなってないか?


「言わずともわかります。その様子では、まだまだ先輩をお客さんの前に出すわけにはいかないみたいですね」


 ツカツカと距離を詰めた琴ヶ浜は、直立する俺の額にビシっと人差し指を突き付けた。


「さぁ、先輩。確認テストを再開しましょう。卓番やメニューその他もろもろ、私が『よし』と判断するまでその頭に徹底的に叩き込んでもらいますから、覚悟してください」

「りょ、了解!」


 びっくりした~。

 あまりに迫力があったもんで、そのまま額に指をねじ込まれるんじゃないかって思わず身構えちゃったよ。

 おっかねぇ。そりゃ「触れようものならケガしかねない」とか言われるわけだわ。


「……やれやれ、つくづくとんでもない奴と同僚になっちゃったな」

「先輩。ブツブツ言っていないで、さっさとテストを再開しますよ。さぁ、もう一度全ての卓番を答えてみてください」

「お、おう……」


 その後、俺は再びスパルタな新人研修に目を回されることとなり。

 こうして記念すべき初出勤日は、ほとんど琴ヶ浜の講義と確認テストだけで終了した。

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