第5話 俺の後輩が「先輩」になりました
正直、こんな形で琴ヶ浜とお近づきになるとは思わなかった。
モリタクあたりにでも教えれば、きっと「ラッキーだな」などと羨ましがられるに違いない。できれば関わりたくなかった俺としては、別にラッキーでも何でもないんだけど。
なんて、俺が悶々とそんなことを考えていると。
「…………」
「な、なにかな?」
顔を上げた琴ヶ浜は、相変わらずその切れ長の瞳で俺の顔をつぶさに眺めては、何事か考え込んでいる様子だった。
ええ、まだ何か疑われてるのん? 俺、そんなに怪しそうな顔してます?
何を言うでもなく、やけに真剣な顔で俺を観察する琴ヶ浜。
カチコチという時計の針の音だけが、二人きりのスタッフルームに響き渡る。
だから、黙るなっての。怖いし緊張するし気まずいでしょうが。
…………よし、撤退!
「え、ええと。じゃあ俺はそろそろ帰るから!」
シュタッ、と右手を上げて、俺は別れの挨拶を切り出した。
一瞬、「あっ」と琴ヶ浜が声をあげた気がするが、構わずくるりと背を向ける。
そのまま逃げるようにスタッフルームのドアを押し開けようとして、
「きゃっ」
「うわっ」
ちょうど反対側からドアを開けたらしい藤恵さんと鉢合わせる。
部屋から飛び出す勢いだった俺は、慌てて制止しようとするも前のめりに倒れこみ。
──むにっ。
おや、これはどうしたことだろう? 急に視界が暗くなってしまった。
それになんだか顔全体が何やら柔らかいクッションのようなモノに包まれて……。
え、クッション?
「あ、あらあら……鵠沼くん、大丈夫?」
頭上から聞こえてきたその声に、俺はハッとして顔を上に向ける。
明るくなった視界にあったのは、頬に手を当てて心配そうに、でも少し恥ずかしそうにこちらを見下ろす藤恵さんの顔だった。
どうやら勢い余った俺は、あろうことか藤恵さんの胸元に顔から盛大にダイブしてしまったらしい。
セーターとエプロン越しからでも伝わるその柔らかさに、一拍遅れてカァッと頬に熱が帯びる。
「すす、すんませんっ! お、俺、藤恵さんの、む、む、胸に……!」
慌てて顔を引きはがして飛び
……や、やっちまった。
よりにもよってこのタイミングで藤恵さんにこんなラッキースケベをかましてしまうなんて。これじゃ俺、マジで変質者じゃんか。
「…………」
その証拠に、さっきから琴ヶ浜が凄まじい殺気を無言で向けてきてるしね!
振り返らなくても、性犯罪者を見るような目で俺を見ている彼女の顔が容易に想像できる。
顔は熱いのに、冷や汗が止まらないんですけど。
「い、いいのよ、気にしないで。私もちゃんと確認すれば……あら?」
不可抗力とはいえやらかしてしまった俺を寛大な心で許してくれた藤恵さんは、そこでスタッフルームの中に立つ琴ヶ浜の姿に気付いた。
「恵里奈ちゃんもいたのね。そういえば紹介できていなかったけれど……その様子だと、もう挨拶は済ませた感じかしら?」
「あ、ええ、まぁ……」
果たしてあの通報するのしないののやりとりを挨拶と呼んでいいかは微妙だけど。
俺のあいまいな返事を気にする風もなく満足げに頷いた藤恵さんは、次には相変わらずのニッコリ笑顔のままとんでもないことを口にした。
「そう、なら良かった。鵠沼くんにはしばらく恵里奈ちゃんに付いてもらうつもりだから、これから仲良くしてあげてちょうだいね」
……ツイテモラウ?
「鵠沼くんの教育係を恵里奈ちゃんにお願いしようと思って。ほら、同じ学校の生徒同士で歳も近いことだし、その方がお互いに気兼ねなくてやりやすいでしょ?」
なん……だと……!?
これから同じバイト先で働くってだけでも気が重いのに、そのうえ「鬼の風紀委員」が俺の教育係?
なにそれ絶対ミスったりサボったりしたら即殺されるやつじゃん。
戦場じゃあるまいし、そんな一つの失敗が命取りになるようなスリルはアルバイトには求めていない!
「ね? どうかしら?」
「い、いや、それは……」
「わかった。私が面倒、見る」
えぇ即答!?
俺が反論する暇もなく、琴ヶ浜が間髪入れずに首を縦に振る。
むしろ望むところだと言わんばかりに、意外にも琴ヶ浜は乗り気のようだった。
さっきまであんなに不審者扱いして警戒していたくせに、どういう風の吹き回しなんだろうか。
ひょっとして……これで意外と面倒見がいい子だったりする、のか?
「ちゃんと一人前になれるまで、私がしっかり
違った。この子、俺をしごき倒す気満々だ。
だっていま一瞬「躾」って言いかけたもんね! 拾われた捨て犬か俺は。
「ふふ。よかったわね、鵠沼くん」
うわぁい、善意百パーセントって感じのイイ笑顔。
……断りづれぇ。
「…………よろしく、お願いします」
地獄への道は善意で舗装されている──どっかの外国のことわざだったか。
藤恵さんの地母神のごとき微笑みが、この時ばかりは悪魔のそれに見えてしまった。
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