婚約破棄令嬢は自分の力がバグ技だと知らない

雨海月子

第1話 婚約破棄ととある乙女ゲーム

 ――幼い頃から、エスメラルダ・アシュクロフト嬢には特別な力があるとされていた。それは神官の啓示によって存在が示されていたものの、周囲の期待とは裏腹に何の力も示さなかった。そのまま一年、二年、――十二年。十二年待っても、彼女はただの貴族のご令嬢だった。彼女は伯爵令嬢に相応しく、美しく、賢く育った。何の力も示さないが、それでも彼女はそれ以外で優秀さを見せていた。

 神の啓示によって示される《力》こそが、この国の貴族階級の特権の源。力ある者が良縁に恵まれるのは、当然のことだった。現に彼女も、啓示のあった直後に第一王子アルフレッドの婚約者候補になることが決まっていた。

「アシュクロフト嬢、十七歳になっても《力》を発現しなかった貴女とは、家同士の取り決めにより残念ながら婚約できない」

「……そうですか。では、どうなさるので?」

学園の卒業式直前で、浮足立った中。その小さな教室には、重い空気が漂っていた。鮮やかな金色の髪に、空の薄水色の瞳。アルフレッド・ククルヴィエス第一王子は、一番自分の妻になるだろうと思っていた、一番話すことのなかった娘に申し訳なさそうに言った。

 それに対するエスメラルダ・アシュクロフト嬢の答えは、淡々としたものだった。意図して声色を抑えているようで、アルフレッドからすればいっそ感情的に泣きわめかれた方がいいとさえ思えた。彼女の異国めいた黒髪と、名の通りの翠玉エメラルドの瞳は、最後までアルフレッドに考えを読ませなかった。

「平民だが、強力な治癒の《力》を持つアンジーを、次の婚約者候補にする。彼女は怪我を治すだけでなく、俺の傍にいてくれた。貴女との関係や、俺の両親の姿から、婚姻とは冷めた『そういうもの』だと思っていた。だが、傍にいてくれる人がいる、居心地の良さを知ってしまった……貴女には、申し訳ないと思っている」

面と向かって頭を下げられ婚約破棄を告げられても、エスメラルダはわかっていたかのように冷静だった。彼女の弟であるクリス・アシュクロフトは、予知の《力》を持っている。それで先に知っていたのだろう、とアルフレッドは判断した。親の決めた最有力の婚姻相手とはいえ、入学まで接触する機会はほぼなく。彼女が避けるものだから、入学してからもそれらしいことをほとんどしてこなかった。

 動物会話の《力》を使ったり、プレゼントを贈ったりといった歩み寄りの努力を袖にされた、彼の隙間を埋めたもの。それが、高い素質のある《力》の制御と訓練のために特待生として入学してきた平民の少女アンジーだった。罪悪感はあったが、それでも傍にいてくれる彼女に惹かれてしまったのだ。

 エスメラルダはちらりと伏せた目を上げると、アルフレッドの頭の後ろに「帰す」「話す」「触る」「考える」といった文字と揺れる緑色の振り子が見えた。手を動かさず意志で「帰す」に振り子を傾けると、彼は「……話はこれだけだ」と退出を促した。

 それは、エスメラルダが五歳の時から使える《力》を、彼に使った最初で最後の時だった。


『いいかい、エスメラルダ。お前が目覚めた《力》のことを、誰にも話してはいけないよ。私はお前のパパとして娘に幸せになってほしくて、アルフレッド殿下との婚約も承知した。啓示で宣告があるほど強力な《力》がある相手は、王家も欲しがる逸材だ。きっと、悪いようには篤われないしな。

 だが、お前の《力》は危険だ――厳密には、危険だと【思われてしまう】。かわいいエスメラルダ、私は王家への忠義より、お前達家族が大切なんだ。婚約を破棄したいなんて言ったら何を言われるかわからないし、タダではすまないかもしれない。けれど、潜在的な謀反と危険を疑われ続けて、お前が一生辛い目にあうよりはずっといい』

幼いエスメラルダが目覚めた《力》のことを相談したとき、父はそう言って娘に謝った。本来であれば婚約だって、もっと早くに破棄する予定だったのだ。伯爵の申し出に国王が納得せず、『十七歳になっても《力》が発現しなければ』という条件を付けられたが。それ以来、彼女は《力》を隠し、そんなものに目覚めていないふりをしてきた。

 選択肢の操作、相手の思考を誘導し、絞り込む。自覚させることなく、意志に介入する精神操作の《力》。そんなものの存在が公表されればどうなるか、想像できないほどアシュクロフト伯爵は愚かではなかった。娘の《力》は万能ではない様子だが――例えば、迷っていない相手の思考は操作できない――それを誰が信じるというのか。《力》の評判が独り歩きをする危険性は、伯爵も身をもって知っていた。けれどこんな《力》の持ち主が王妃になれば、待っているのは国王を傀儡にしてこの国を乗っ取るのではという潜在的な疑いがついて回る生活だ。その疑問を持たない者がいても、それもまたエスメラルダの精神操作の結果ではないかと思われてしまう。まさに、悪魔の証明だ。

『私は、怖がられたりしたくはありません。だから、ちゃんと内緒にします』

『最高の教師を呼んで、色んな事の勉強をしておきなさい。貴族階級の権力の源とはいえ、全員が《力》を持っているわけではない。長子のお前にはそれ以外の生き方だって、あるのだからね』

結ばれないとわかっている相手のことを知るのは、辛かった。彼の歩み寄りの努力を踏みつけにするのは、申し訳なかった。けれど、一緒に幸せになれないとわかっている以上、知ってしまうよりは傷つけてでも知らないままでいたかった。それは、エスメラルダのエゴだった。

 歴代最高峰と言われるほどに強力なアンジーの治癒の《力》は、彼にも王家にも相応しいだろう。後ろ盾は心もとないが、平民生まれでも勉学によく励んで良い成績を修めていた。治癒の訓練も兼ねた奉仕活動で、都の民に人気もある。『満天の聖女様』のあだ名は、貴族階級にも知る者がいる。瀕死の人間を後遺症なく回復させる治癒能力ならば、《力》を重視する王家にもある程度の説得力があるだろう。エスメラルダが婚約者候補になったのも、元はと言えば《力》の強さが先にあったのだから。

 一人で自室に戻る彼女の手が震えていることを、彼女は自覚できていなかった。


***


「お帰りなさい、姉様。……大丈夫、姉様もきっと幸せになれますよ。僕が保証します」

顔には出さずとも落ち込んだ様子の姉を部屋に迎えて、クリス・アシュクロフトはそう笑みを浮かべた。温かいミルクティーを淹れてやりながら視ると、アンジーがアルフレッドといる未来が視える。あちらは、スチルを回収して規定通りのハッピーエンドとなりそうだ。

 クリスには、いわゆる前世の記憶があった。好きな作家がシナリオを描いた乙女ゲームの中で、『クリス』はヒロインであるアンジーの攻略対象の一人。アルフレッドもまた攻略対象で、他にあと二人いる男性の中から一人との幸せを目指す物語だった。エスメラルダはクリスの姉でアルフレッドの婚約者候補であり、二人の個別ルートに登場する女性キャラだ。

 特異な伸びしろのある《力》の制御と訓練のために特待生として貴族の学校に入った、主人公の平民アンジー。教養、品位、運動、《力》、社会的地位……様々な科目を育成しながらイケメン達と恋愛するこのゲーム『幸せの鐘が鳴る時』は、最初に売られた同人ロットにとんでもないバグがあった。

 会話イベントの、選択肢を選ぶシーンでフリーズ。しばらくすると復帰するが、勝手に選択肢を選んだことにされて話が進んでしまうのだ。これがアルフレッドルートとクリスルートで頻発したため、最後まで明らかにならなかったエスメラルダの《力》としてシナリオ側が設定資料集に回収。シナリオ内では「家の意向の変更で王子との婚約が難しくなった」とだけ説明された婚約破棄や冷たい態度の理由も、それが理由ということになっていた。

 ソフトそのものは修正パッチの配布でバグに対処し、後に再販されたものは最初からバグ修正済になっている。シナリオや絵の良さだけでなく、バグでも当時の話題をかっさらっていったゲームであった。かつては、クリスもバグに苦しめられたものである。

 ちなみに、当時のクリスの推しは、アンジーの後輩である魔術師のライアンだった。今世ではゲームシナリオ通りにクリスとライアンが同学年のルームメイトだったため、お互いの家に遊びに行くような親友になっている。噂話になんて興味もない青年だから、姉のエスメラルダとも交友を持ってくれた。推しと推しのスチル絵は、心の中に保存済である。

「それは、貴方の予知なの? クリス」

ええ、とクリスは頷いて不安気な姉の手を握った。姉が自分のように転生していないことは確認済だから、ここにいるのはバグで与えられたことも知らず、己の《力》に振り回されている一人の女性でしかない。

 クリスはゲーム内で予知の《力》を持っているという設定だったし、実際に未来の光景を視ることができていた。ゲームの知識だけでなく、実際の予知も家族や友人のささやかな役に立てている。姉弟揃って強力な《力》を持っているという啓示があったが、姉の方は表立ってそれを出せないため、「《力》さえあれば未来の王妃として完璧な人」と陰口を囁かれていることをクリスは知っている。アルフレッドも自分の婚約者候補のことだから止めてくれていたようだが、噂が消えるより先にエスメラルダは社交界に顔を出さなくなった。

「大丈夫です、笑っている姉様が僕には視えます。あんまり遠くない未来です。姉様は、大丈夫です」

ここから先の未来は、知識にはない。設定資料集でも彼女は地元に帰ったとだけ語られ、その後は自分の予知でも断片しか視えない。

 それでも、彼は姉に幸せになってほしかった。

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