ハヴォック//TMCにて

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 ──ハヴォック//TMCにて



 ベリアたちがマトリクスで対ASAハッカーチーム“ケルベロス”が結成される中、東雲はTMCセクター13/6を王蘭玲のクリニックに向かっていた。


 彼はまだ“ケルベロス”が結成されたことを知らず、造血剤の補充と王蘭玲を食事に誘うことだけを考えていた。


 BCI手術を受けておらず、マトリクスに接続することもない東雲はASAが“ネクストワールド”を全世界に公開し、混乱が生じていることすら知らない。


「東雲様。貧血でお困りですか?」


「そ。よろしく頼むぜ、ナイチンゲール。それから先生に今日の昼に予定空いてるか聞いてくれ。食事に誘いたい」


「畏まりました」


 ナイチンゲールがいつものように診療内容を確認して受付に下がる。


 今日は事件か何かが起きて患者が多いのか、待合室には傷口を簡単な包帯で包んだだけのヤクザと思しき人間がいたり、診察室にいる人間の護衛と思われる腰のホルスターに堂々と45口径の自動拳銃を下げている人間がいたりした。


 そういう患者がひとりずつ片付いていき、1時間ほどで東雲が呼ばれた。


「先生。今日は忙しそうだね……」


「やっと一段落したところだよ。どうやら暴動が起きたらしくてね。縄張りのヤクザが出て、騒ぎを潰そうとしたけどヤクザの方も被害を受けたらしい」


「へえ。随分と物騒な」


「何が起きているやら。患者のヤクザは暴動を起こしたのはギャングやストリート暮らしだと言っていたけれど」


 東雲が言うのに王蘭玲が肩をすくめる。


「じゃあ、今日は予定は空いてないかな?」


「大丈夫だ。朝から続いてたけど今や落ち着いてる。食事ぐらいなら付き合うよ」


「それはよかった」


 王蘭玲が猫耳を揺らしていうのに東雲が笑顔になった。


「さて、君は造血剤だね? どれぐらい必要かな?」


「今のところ仕事ビズはないけど、最近海外出張が多くてさ。ここに来る時間も制限されてるから多めに出してくれると助かるよ」


「じゃあ、3か月分ほど出しておこう」


 王蘭玲がナイチンゲールに造血剤をオーダーする。


「食事はどこで?」


「セクター6/2に美味しいピザを出す店があるんだよ。そこに行かない?」


「いいね。昼食にピザというのも乙なものだ」


 東雲は事前にベリアにいい店を調べてもらっていた。


 東雲はそれから受付でナイチンゲールから薬を受け取って診療報酬を払い、王蘭玲が支度するのを待合室で待った。


「お待たせ。行こうか?」


 王蘭玲はカジュアルなパンツルックで纏めていた。スキニーなパンツは王蘭玲のスレンダーな細さをよく見せる。


「似合ってるよ、先生」


「君はお世辞が上手いね」


 東雲と王蘭玲はそれからタクシーでセクター6/2のピザを出すイタリアンの店に向かった。セクター6/2は基本的に夜の街だが、昼間に営業している飲食店も少なくない。


 東雲たちは接客ボットに案内されてテーブルに着く。


「本格的なイタリアのピザを出す店のようだね。ピザが世界的に広まって海外で作られたものについては扱ってない。これは期待できそうだ」


「俺、安いチェーン店のデリバリーでしかピザ食べたことなくて分からないけど、先生のおすすめはあるかい?」


「マルゲリータが定番だけど私としてはディアポラピザがおすすめかな。スパイシーな食べ物が好きなんだ」


「じゃあ、俺もそれにするよ」


 東雲たちは案内ボットに注文する。


「そういえば技術はいろいろと進化したけれど食事は合成品になっただけで変わってないのかな。新しくメニューが開発されたりとかは?」


 東雲がふと疑問に思って王蘭玲に尋ねる。


「食文化は衰退の歴史を描いているよ。グローバル化によって地域の特産品というものが消えた。そもそも合成品しか原材料がなく、その原材料の質はほぼ均一。かつてあった地域独自の食品はなくなり、合成品で作れる味だけが残った」


「でも、同じ合成品でも美味かったり、不味かったりするぜ?」


「グレードの違いだけだよ。手間のかかった合成品は価格が高いが質はいい。とは言え、昔存在した高級食品のようにヴァリエーションがあるわけではない。縦の幅はあっても横の幅がないんだ」


「価格として設定されるグレードの高低だけしかなく、例えば松坂牛と神戸ビーフのような違いはないってことかい?」


「そうだね。経済のグローバリゼーションによる文化の喪失と同じくグローバリゼーションによる環境破壊で生物の多様性が失われた結果だ。世界は少しずつ失いながら進んできた。もう取り戻すことはできない」


「俺は未来ってのはもう少し明るくなるとばかり思っていたよ」


 合成品で作られたピザが運ばれてくる。香ばしい香りがするが、香りは後から化学薬品で添加したものだとベリアが言っていたのを思い出す。


「本場の味は昔に消えたが、名残はある。いずれ科学が進化すればゼータ・ツー・インフルエンザやネクログレイ・ウィルスで死滅した環境を回復させ、海洋汚染の除染も進むことだってあるだろう」


「そうであることを願いたいよ。いつか海で育ったマグロを使った寿司が食べたい」


 王蘭玲と東雲はスパイシーなピザとノンアルコールのクラフトビール風炭酸飲料を味わいながらここ最近のことについて話をした。


「“ネクストワールド”?」


「ああ。何でも協調H現実Rって奴でマトリクスの理屈を現実リアルに上書きするらしい。そいつを持った相手と戦ったけど、マトリクスで魔術が動作するせいか現実リアルでまで魔術が使えるようになるんだ」


 東雲は上海や沖縄で相手にした“ネクストワールド”所持者のことを振り返って王蘭玲に語って見せた。


「マトリクスの理を現実リアルに上書きする、か。信じられないな。そんなことが可能になるとは。まさか白鯨が……」


「ベリアたちはそう考えているよ。白鯨が超知能化したって考えてる。そして、なんだっけ、そうだマリーゴールドを生み出したんだと」


「ふむ。超知能化した白鯨か。ASAはどうやら技術を進化させたのだね。恐らくは世界を変貌させるようなものを生み出したに違いない」


 東雲が語るのに王蘭玲がそう言った。


「さて、世界が変わるやら。少なくとも変わるとしてもいい方向には向かわなそう」


 東雲がそう愚痴ったときレストランの外で爆発音が鳴り響いた。


「先生、伏せて!」


 東雲が瞬時に動いて王蘭玲を地面に押し倒す。


 同時にレストランの窓ガラスが砕け、外に炎が広がる。火炎瓶だ。


「クソ。何が起きた? テロか?」


 東雲が王蘭玲に覆いかぶさったまま周囲を見渡した。


 外に徒党を組んで歩ている人間たちがいる。国籍は様々だがどの人物もマスクをつけ、ワイヤレスサイバーデッキを装着している。そして、纏っている服装はセクター13/6スタイルの防水パーカーとラフなスーツ。


「暴動? まさか」


 すぐに銃声が響き始め、暴徒が声を上げながら走り出す。


『警告する! ただちにワイヤレスサイバーデッキを外して、両手を頭の上に置き、地面に伏せろ! さもなくば発砲する!』


 スピーカーで大井統合安全保障のコントラクターが叫んでいた。


「先生。デートは台無しだけど、ここは逃げた方がいい。大井統合安全保障はこういうときに一般人と犯罪者の区別を付けない」


「私もセクター13/6で暮らしているんだ。それぐらいのことは分かっているよ。逃げよう。それなりに動けるつもりだ」


「俺が守るから安心してくれ。行こう!」


 東雲は“月光”を展開すると王蘭玲を守りながらレストランを飛び出た。


『ファルクラム・ゼロ・ワンより本部HQ。暴徒は解散せず。指示を求める』


本部HQよりファルクラム・ゼロ・ワン。交戦を許可する。皆殺しにしろ』


 その通信がやり取りされてからすぐに大井統合安全保障が後方に設置していた軽迫撃砲からガス弾が発射された。コントラクターたちは既に核兵器N生物兵器B化学兵器C防護装備を身に着けている。


 使用されたガス剤は非致死性のものだが激しい目の痛みと嘔吐を引き起こすものだった。ガス弾が炸裂し、ガスが撒き散らされた範囲で暴徒たちが倒れる。


 それでも暴徒たちは暴れていた。


「やっちまえ!」


「金持ちを殺せ!」


 通りを封鎖していた大井統合安全保障の軍用装甲車の装甲が見えない力でへこみ、頑丈なバリスティックシールドを構えて、さらには強化外骨格エグゾすら装備していたコントラクターたちが吹き飛ばされる。


「あれが“ネクストワールド”?」


「多分、そうだよ。先生、走れるかい?」


「大丈夫。ハイヒールは履いてない。趣味じゃないんだ」


「それはよかった。逃げよう」


 暴徒鎮圧のためのガス弾による攻撃に続いて無差別な銃撃が始まるのに東雲と王蘭玲はセクター6/2の駅に向かい、暴動が発生したセクター6/2から脱出した。


「やれやれ。デートが台無しになってしまったね」


「本当、もういや。せっかくの休暇だったのにさあ。TMCでまた騒ぎだよ。ごめんね、先生。こんなことになっちまって」


「気にすることじゃない。君のせいじゃないし、お誘いはいつでも受けるよ」


 東雲が謝るのに王蘭玲がそう返した。


「しかし、こいつはまた“ネクストワールド”絡みの騒ぎみたいだ。ついに本土にも影響が及び始めたってことか。どうなっちまうんだろうな」


「私も“ネクストワールド”について調べてみよう。これは危険なものかもしれない。既にセクター13/6でも“ネクストワールド”を使っただろうテロが起きているしね。マトリクスの理を現実リアルに上書きするというのはどうにも」


「妙な話だよな。魔術ってのは地球ではおとぎ話だったのに、そのおとぎ話の対極にあるマトリクスっていう科学の産物が現実リアルでそれを可能にしちゃうなんて」


 王蘭玲が言うのに東雲がそうぼやいた。


「超知能であればおとぎ話の発想を現実にできる。そして、科学者というものが新しい技術を発明をするときに何から発想を得るかと言えば、フィクションとして描かれた創作物ということもあるんだ」


「それって小説とか映画見てアイディアが浮かぶってことかい?」


「宇宙開発を目指したヘルマン・オーベルトはSF作家であるジュール・ヴェルヌの作品に惹かれて宇宙旅行を発想した。他にもSF作家のアーサー・C・クラークやアイザック・アシモフに影響を受けた科学者は少なくない」


「へえ。科学者ってのもロマンチストなんだね」


「誰もが小難しい論文から夢を見るわけじゃないのさ。偉大な科学者にも科学者を志すきっかけがある。それは夢のような、おとぎ話のようなロマンのある創作物であることは別におかしなことではないだろう?」


「俺も小説は好きだったな。いろいろと読んだよ。俺は科学者になろうとは思わなかったけど、小説家には憧れたなあ。こんな面白い作品が書けたらどんなにいいだろうかって。それでも結局、目指したのは夢のない公務員だけど」


「それもひとつの選択肢ではある。人生というのはどんな道を選んでも険しく、そして時に面白いものだ」


 東雲が苦笑いを浮かべて語るのに王蘭玲がそう返した。


「私も昔はSF小説とコンピューター関係の雑誌ばかり読んでいる暗い学生だった。小説の中で人類を助け、また人類とともに歩むAIを見て、このような存在がいてくれればと思ったものだよ」


「先生もロマンチストだね」


「誰もがひとつぐらいは夢を持っているよ。大きくて、小さくても、夢を持っていない人間など存在しない」


 東雲が言うのに王蘭玲が猫耳を揺らしながらそう言った。


「俺の夢は先生と安全で、静かな場所で一緒に過ごすことだよ」


「それは私の今の夢でもあるね。君と一緒にこのTMCから脱出したい」


 東雲と王蘭玲がお互いに微笑みかける。


 電車は暴動が起きているセクター6/2を離れ、セクターを下って行きセクター13/6に到着した。珍しいことにセクター13/6の駅に大井統合安全保障のコントラクターたちがいて、警備に当たっていた。探知用機械化生体トレーサードッグもいる。


「珍しいな。こんなところに大井統合安全保障がいるなんて」


「テロ警報でも出たのかもしれないね。セクター13/6では既に騒動が起きている」


 東雲がマジマジと強化外骨格エグゾを装備した大井統合安全保障のコントラクターたちを見るのに王蘭玲がそう言った。


「ヤな感じだ。これから何か揉め事が起きる前触れみたいで」


 東雲はそう愚痴りながら王蘭玲をクリニックまで送り届けた。


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