TMCへの帰還
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──TMCへの帰還
東雲と八重野は北海道でアーロと別れたのちに、東雲の希望で札幌で味噌バターラーメンを食べてからTMCに帰還した。
「お帰り。随分な騒ぎだったみたいだね」
「ひでえ
ベリアが東雲を出迎えるのに東雲はそう言って肩をすくめた。
「それは散々だったね。暫くは休んだら? 私もちょっと今はジェーン・ドウと会いたくないしさ」
「マトリクスの魔導書──ヘレナの件か?」
「そ。ジェーン・ドウは今は関心は薄れたみたいだけど、次の
「まあ、それは俺も同じだが。しかし、マトリクスの魔導書問題はどうしたものかね。ヘレナそのものなんだろ?」
「いいや。恐らく彼女そのものではない。マトリクスの魔導書は“エデン・イン・ザ・ボックス”という簡易生命シミュレーションでシミュレーションできるデータにコンバートされているから」
「んん? それだと何が不味いんだ?」
「たとえば君という人間を表現する方法はいろいろある。外見的特賞、社会的ステータス、財政状況、精神状態、年齢、性別、ファッションのスタイル、そして遺伝的情報。恐らくは君を表現するのは簡単じゃない」
ベリアが説明する。
「これらのデータを完全に再現しようとしたプロジェクト“タナトス”やプロジェクト“パラダイス”はその複雑性とランダム性のために失敗した」
「だけど、その“エデン・イン・ザ・ボックス”は成功した?」
「そう。データを簡素化して、シミュレーションできる範囲内に収めた。当然ながら簡素化の過程でデータが失われている」
「だから、完全なヘレナとは呼べないか」
東雲はようやく納得した。
「けど、マトリクスの魔導書にはヘレナの人格が存在する。彼女は六大多国籍企業に振り回されるのにうんざりしてるし、ヘレナの持ってる情報は人間を不老不死に変えるトリガーになる」
「だから、六大多国籍企業には渡せない、と。だが、連中はいずれ嗅ぎつけるぜ?」
「そうだと思うよ。どこか安全な場所を探さないと」
ベリアがため息交じりにそういう。
「……ところでシンガポールと香港ってどんな感じなんだ?」
「シンガポールは経済的にも、政治的にも安定した場所だよ。あまり一次産業に頼ってなかったこともあって第三次世界大戦後に大きく経済成長。隣国との関係も悪くないし、テロもあまり起きてない」
「香港は?」
「香港自由共和国だね。ひとつの中国政策で中国に引っ張られたけど第三次世界大戦で中国が弱体化し、西側が価値観共有の名の下に民主化を扇動した。おかげで今では民主的な政府と安定した経済を有する国になっている」
表向きは一応中華連邦の一員だけどとベリアが語る。
「急にどうしたの? 何かあった?」
「実を言うとな。今回の
「猫耳先生に?」
ベリアが怪訝そうにそう返す。
「止めといたほうがいいんじゃない? ジェーン・ドウを怒らせることになるよ? そりゃシンガポールも香港も
「それなら大丈夫なんじゃないのか?」
「何のために私たちみたいな非合法傭兵がジョン・ドウやジェーン・ドウに飼われていると思ってるの。シンガポールや香港のような六大多国籍企業が
「それはそうだが。割と先生も本気みたいだったし、俺もまた放射能汚染のあるような場所に行かされるぐらいなら先生と一緒に逃げたいなって」
「君って本当に猫耳先生のこと好きだよね」
「俺の好みにどんぴしゃりだからな。大人の女性だし、スレンダーだし、いろいろな博識だから話して楽しいし」
東雲がそう語る。
「君が逃げると私が困るんだけど。私がジェーン・ドウの報復を受けるし。逃げるなら一緒に連れて行ってね。君が逃亡先で猫耳先生といちゃいちゃするのは自由だけどさ。向こうも意外と君に気があるみたいだし」
「分かってるって。俺だけじゃ逃げないよ。それに今は逃げられる雰囲気じゃない。俺たちはマトリクスの魔導書問題にどっぷりつかってる。お前はマトリクスの魔導書を匿っているし、八重野は呪われてる」
「だね。でも、TMC
ベリアが東雲にそう言った。
「頼んだ。ロスヴィータも逃げないといけないし、八重野は……どうするんだろうな? 呪いが解けたらあいつは別に大井のために働く必要はないし」
「ジェーン・ドウが駒をそう簡単に手放すと思う? サイバーサムライは貴重な駒だよ。それも八重野のように腕の立つサイバーサムライはね。それに彼女は
「はあ。じゃあ、みんなで逃げるか。少なくとも一連の
東雲はそう言ってふと思い出したように玄関の扉を見た。
「ちょっと王蘭玲先生のところに行ってくる。無事生還したのを知らせるのと、今回の
「そうするべきだね。放射線で満ちた原潜基地に行ったんだから」
ベリアはいってらっしゃいというように東雲に向けて手を振った。
「昼は先生と食って来るから、適当に食っておいてくれ」
「オーキードーキー」
東雲はそう言ってからアパートを出た。
セクター13/6の違法建築が乱造されている住宅街からホログラムとネオンがけばけばしく輝く繁華街を抜け、王蘭玲のクリニックに到着した。
「ようこそ、東雲様。貧血でお悩みですか?」
「それから放射能汚染の影響がないか健康診断を。先生はもうお昼食べたか?」
「畏まりました。暫くお待ちください」
ナイチンゲールは東雲の言った言葉を王蘭玲に伝える。
今日は人も少なく、東雲はすぐに診察室に呼ばれた。
「やあ、先生。無事に帰ってこれたよ」
東雲が王蘭玲にそう言って診察室に入った。
「無事だったようだね。安心したよ。
「統一ロシアの
「全く。君はもう少し自分の身体を労りたまえ。健康に悪いなんてものではないよ。慢性的な貧血もそうだが、君は身体を酷使し過ぎている」
「仕方ないよ。そういう
王蘭玲の言葉に東雲が諦めたように肩をすくめた。
「そうか。だが、逃げることは考えてくれたかい?」
「考えたけど八重野の呪いをどうにかしないといけない。それだけはしっかり終わらせておかないと後味が悪い。なんだかんだであいつとの付き合いも長くなったし」
「女性のお誘いを断るのに他の女性を持ち出すとはね。嫉妬するよ?」
「そりゃあないぜ。八重野は妹みたいなものだ。面倒を見てやらないととは思うけど、付き合いたいとは思ってないよ。向こうもその気はないだろうし。俺はいつだって先生一筋だから安心してくれ」
東雲がニッと笑って王蘭玲にそう言った。
「そうさせてもらおう。私は浮気には厳しいよ?」
「大丈夫。先生だけだよ、俺が好きなのは」
「嬉しいね」
王蘭玲がにやりと笑った。
「さて、では検査をしよう。放射能汚染の検査だったね。一通りやっておこうか。検査室へ。安心したまえ。君の検査にナノマシンは使用しないよ」
「助かるよ」
東雲は王蘭玲と一緒に診察室に入り、放射能汚染に関する健康診断を受けた。
「大丈夫だ。影響なし。君は健康そのものだよ」
改めて診察室に戻り、王蘭玲が検査結果を東雲に伝える。
「そりゃ安心できた。それでさ、先生。よければ食事でもどうだい?」
「いいよ。丁度お昼にしようと思っていたところだ。どこで食べる?」
「たまにはイタリアンなんてどうかな? パスタが食べたいよ」
「では、そうしよう」
王蘭玲は着替えてくると東雲と一緒にクリニックを出て、セクター13/6にあるイタリアン料理の店に入った。
「いらっしゃいませ、お客様。おふたりですか?」
「そ。案内してくれ」
「畏まりました」
案内ボットが東雲と王蘭玲をテーブルに案内する。
「さて、私はアラビアータにしようか。唐辛子が効いていると合成品の化学薬品臭が誤魔化せるし、味もいいからね」
「じゃあ、俺もそうしよう」
王蘭玲と東雲が案内ボットに注文した。
「なあ、先生。“エデン・イン・ザ・ボックス”って知ってるかい……」
「知っているよ。生物情報学的シミュレーションだ。生命の本質がDNAだと言うならば、ある意味では生命をシミュレーションしている」
「ふうん。俺も聞いたことはあるけど生命はDNAこそが本質、って言ってた学者がいただろう? 名前は忘れたけど」
「リチャード・ドーキンス? 確かに彼は生命とは遺伝子という情報を残すための機械だと言っていたがね。利己的な遺伝子で彼は進化論を遺伝子という観点から観察した」
「利己的っていうのはちょっと引っかかるな」
「君が受けている印象とは違うだろうね。別にドーキンスは生命というものは自分だけが生き残ればいいというような利己主義ではなく、遺伝子という情報が生き残る戦略を表現するのに利己的という表現を使っただけだ」
「それってどういうことなんだ?」
「例えば私と君の間で子供を作ったとしよう。生命が自分勝手な利己主義であれば、子育てなどしない。だが、私と君の子供は君と私の生物学的情報を半分ずつ引き継いでいるということになる」
「ふむ。そうだな。先生は子供は好き?」
「血が繋がっていればね。そう、血の繋がりが大事になるんだ。進化論では自然選択というもので生命は環境に適応して生きて来た。環境に適応し生き残る。それこそが生命を進化させてきた」
「ダーウィンくらい俺だって知ってるよ。高校で習ったからね」
「では、聞くが魚が捕食者から逃れるために水中で群れる行為や働きバチが群れのために働くという適応はどのような方法で生まれたと思う?」
「それは。ん? 自分の遺伝子を残すためには仲間で群れで動いた方がいいって分かったから?」
「どのようにしてそのような選択が成されたのか。生命のひとつ個体だけの淘汰ではそれは難しいだろう。そこで遺伝子というものを中心に考える」
王蘭玲はそう語った。
「君が私と君の子供を養って、次の世代に繋げる。それは個体としては利他的な行動だ。働きバチが女王バチのために尽くすのと似ている。だが、君の子供は君と私の生物情報を次の世代に引き継ぐ」
「生物として利他的である行為も遺伝子という観点から見れば利己的であるってことか。そして、利己的であるものが環境に適応して生き残っていく」
「そういうことだ。もちろん、これを人間社会の在り方に当てはめるのは感心しない。社会に貢献する社会活動は人間の人格が非生物情報学的に行う行為であって、別に遺伝子で全てが決められているわけではない」
王蘭玲がそう言ったときパスタが届いた。
「生物学と社会学を混同するとトラブルの元だ。優生主義思想がどれだけの人間を不幸にしたか。我々は確かにDNAにコードされた肉の塊だ。だが、我々はホッブス的万人の万人に対する闘争の世界には生きていない」
「先生のチャーミングな性格だって遺伝子じゃないだろうしね」
「君の頼りがいのある性格もね」
東雲と王蘭玲がそう言い合う。
今日は素敵なランチとなった。
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