最高技術責任者
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──最高技術責任者
東雲たちが居酒屋で襲撃されたことも知らず、ベリアとロスヴィータはマトリクスにダイブしていた。
「ルナ・ラーウィル?」
「東雲が調べてほしいって。知ってる?」
「どこかで名前を聞いたような気がする。メティス関係のことで」
「アトランティスの人間みたいだけど」
「そう。メティスというよりも生物学方面の関係者で。ああ。“エデン・イン・ザ・ボックス”の設計者だ!」
「“エデン・イン・ザ・ボックス”?」
ロスヴィータが思いついたようにそう言うのにベリアが尋ねた。
「デジタルな自然環境シミュレーションだよ。アカウントは生きている。君も登録して。アドレスはこれ」
「オープンなサービスなの?」
「そう。誰でもアクセスできるし、利用できる」
ロスヴィータがそう言うのにベリアが“エデン・イン・ザ・ボックス”のアカウントの登録手続きを済ませた。
「けど、デジタルな自然環境シミュレーションってプロジェクト“パラダイス”みたいなもの? プロジェクト“パラダイス”は失敗したでしょう? マトリクス上で複雑に影響を及ぼし合うものをシミュレーションできないって」
「その通り。自然環境をそのまま再現することは難しい。少なくとも今の情報科学と生物情報学では自然をありのまま再現することはできない。けど、“エデン・イン・ザ・ボックス”は別に完璧な自然環境シミュレーションじゃない」
ロスヴィータがそう言って“エデン・イン・ザ・ボックス”のアドレスに飛ぶ。
アドレスの先にはサービスの案内用プログラムが存在していた。
「ようこそ“エデン・イン・ザ・ボックス”へ。お久しぶりですね、ロスヴィータ様」
「やあ。ログインするね」
「どうぞごゆっくり」
そして、ログインした先には緑豊かな光景が広がっていた。
木々が生い茂り、鳥たちが歌い、花が咲き乱れ、蝶が舞う。そんな今の地球には存在しない光景だ。
「わあ。凄いシミュレーションだね。グラフィックが半端じゃないよ」
「これは単にポリゴンにテクスチャを張り付けたものじゃなくて、生物学的構成要素からシミュレーションされたものなんだよ。すなわち、この花や蝶のひとつひとつにデジタルなDNA情報が刻まれている」
ロスヴィータはそう言って近くにあった花を摘む。
「ほら。これは1023代の世代交代を経た植物。何世代も交配と突然変異を重ねて、こういう花を咲かせるようになった。交配によるDNAの変化も突然変異によるDNAの変化も全てシミュレーションされている」
「イン・シリコでの生物学のシミュレーションが進んでいることは知っていたけど、これってまさにプロジェクト“パラダイス”が目指したものなんじゃないの?」
「厳密に言うと違う。これは全て架空の生物と植物。デジタルにおけるシミュレーションに最適なフォーマットで作成された代物。つまり、これはデジタルな生命とでもいうべきか。そんなところ」
ベリアが周囲を見渡していうのにロスヴィータがそう言う。
「プロジェクト“パラダイス”をデジタルに適合させた?」
「そう。プロジェクト“パラダイス”では実物の生物を実際の自然環境を作りシミュレーションしようとした。それだと複雑すぎた。生物の環境におけるランダム性は完全にシミュレーションするには複雑すぎるんだよ」
「だから、最初からデジタルで再現できる形にした」
「いわば純粋な生物情報学的な存在だ。これに肉はない。肉が及ぼす影響を考慮しなくてもいいわけだから」
「ふうん。どういう目的で作られたの?」
ベリアがデジタルの自然環境を眺めてそう尋ねた。
「将来の大規模な自然環境の変化や地球外惑星への進出の際にどれだけの多様性を持たせれば生き残れるかのシミュレーションになる。それから突然変異を起こして毒素を産出するようになった微生物をどうすればコントロールできるかとか」
「そうか。純粋な生物学的シミュレーションてわけだね。自律AIを作ろうとかそういうことではなくて」
「実を言うとこのプロジェクトの土台そのものは白鯨を生み出すためにも利用されている。白鯨は蟲毒という究極の適者生存の環境で作られた。その環境を生み出した構成要素にこの“エデン・イン・ザ・ボックス”も含まれている」
「なるほどね。確かに蟲毒の儀式も生物学的に見れば適者生存だ。進化論の世界だよ」
ベリアがそう言って納得する。
「そして、これを作ったのがルナ・ラーウィル?」
「正確には彼女の元いた会社。アルテミス・バイオインフォラボって会社の
ロスヴィータがそう説明する。
「そして、アルテミス・バイオインフォラボの技術性に目をつけたアトランティスが会社を買収して、ルナ・ラーウィルはアトランティス・バイオテックの
「で、今ルナ・ラーウィルはルーカスという生物情報学者の企業亡命の原因になった。私が思うにマトリクスの魔導書にも関係している。そうじゃなきゃ東雲たちが引き抜きチームに加えられるわけがない」
「マトリクスの魔導書もボクが思うに生物情報学的な代物だと思うんだよね」
「それはそうだよ。だって、あれはヘレナの脳神経データのスキャンなんだから」
「そうなんだけどさ。思い出して。同じように生前の情報から復元されたディーはどうだった? 生物として完成していると言えた?」
「……言えない。限定AIに近い、不完全な存在だった。ディーのシミュレーションとは言えない」
「別に責めてるわけじゃないよ。ただ、脳神経データから復元されるものは不完全だというだけ。それ単独では機能しない。そのはず。なのに、どういうわけかマトリクスの魔導書は自律AIとして機能した」
「もしかして、マトリクスの魔導書はヘレナの脳神経データを“エデン・イン・ザ・ボックス”の生命のようにマトリクスでシミュレーションできるようにコンバートされたと思っているわけ?」
「白鯨は“エデン・イン・ザ・ボックス”の構成要素で作られたマトリクス上の生命。その技術は今はアトランティスの手にあり、アトランティスはヘレナのことも一時期握っていた。不可能じゃないと思うよ」
「だけど、それに何の意味が? ヘレナの魔術の情報が欲しければヘレナの脳神経データをただ解析すればいい」
「それに失敗したんじゃない? 脳神経データだけでは意味をなさなかった。マトリクス上の情報生命としてコンバートされて初めて意味を成すようになった、とか」
「ふうむ。そもそもアトランティスが数年後に死ぬとかいう魔術に拘る理由が分からない。殺そうと思えば
「呪いは副次的産物で本当の目的は別にあるのかも」
「かもね。では、ルナ・ラーウィルについて具体的に調べてみよう」
「検索エージェントはもう動かしている」
ベリアとロスヴィータの検索エージェントがルナ・ラーウィルについて調べる。
「一通り調べたところ、ルナ・ラーウィルはアトランティス・バイオテックで新しいプロジェクトを立ち上げて、そのための人員を募集していたみたい。大学に求人。『新しい生物情報学のプロジェクトに参加しませんか』だって」
「求人が出たのか。ルーカスが企業亡命したからかもね」
ロスヴィータが言うのにベリアがそう返した。
「検索エージェントにはなかなか引っかからないね。流石は
「“エデン・イン・ザ・ボックス”の件からBAR.三毛猫で情報が拾えるかも。“エデン・イン・ザ・ボックス”はマトリクスでも話題になったから」
「そうしよう」
場が
セクター9/3の東雲たちが飲んでいた居酒屋を中心にティルトローター機と軍用四輪駆動車で大井統合安全保障のコントラクターたちが展開していた。
「ハルバート・ゼロ・ワンより
『
「了解」
大井統合安全保障のコントラクターが現場を警備し、救急医療サービスが金の払える人間だけを病院へと連れて行く。
「やられた。ルーカスに発信機は付けられていなかったが暁には付けられていたんだ」
「恐らくは奴がヘレナを
八重野が呟くのに、東雲が死体袋に入れられて輸送されて行く暁の死体を見た。
「あいつ、家族はいるのか……」
「知らねえよ。野良犬に食われて臓器は売り飛ばされるなんて末路を迎えなかっただけ幸運だろ。この
「そうかもな」
呉はそう言ってこのまま焼却炉に運ばれ、有機的に処理される暁の死体を見た。
身内のいない人間はTMCの死体処理プログラムに従って有機肥料として再利用される。墓も遺骨も何も残らない。
「あたしはああいう死に方はしたくないな。死ぬなら派手に死にたい。不意を打たれて居酒屋で飲んでるときに蜂の巣にされるなんてごめんだよ」
「あんたらしいな、セイレム」
セイレムの言葉に東雲は呆れたようにそう言った。
「人間が死んで、有機物として再利用されるって結局はこういうことだよな」
「どうした、急に」
「ルーカスが言ってたんだよ。不死身の人間が増えれば、地球上で消費できる有機物が限界を迎えるってな。でも、死人を有機物として見るのは学者さんらしいって思わないか。俺はやりきれないぜ」
「そうだな。死人に対しては誰もがノスタルジーを持つものだ」
東雲がルーカスと話した内容を思い出していうのに八重野が頷いた。
「ふん。生物情報学者なんてそれこそ人間を非人間化する連中の最たるものじゃないか。連中は数学で人間を語りやがる。連中にかかれば全ての人間は収容所のユダヤ人のようにIBMのコンピューターの手で番号化されるんだ」
「それより誰がこの襲撃をやったかだ」
セイレムが不満げに鼻を鳴らすのに呉がそう言った。
「ハンター・インターナショナルの連中か? 奴らは面子を潰された」
「仮にもハンター・インターナショナルは改定モントルー条約で交戦権を有する
東雲にセイレムがそう持ち掛ける。
「死人を賭けのネタにするなよ。縁起わりーぞ」
「これがあたしたちなりの生物情報学さ」
セイレムはまるで悪びれない。
「呼び出しだ」
そこで東雲がこめかみを叩く。
「ジェーン・ドウか?」
「そうだ。セクター9/3の喫茶店に来いとさ」
「暁の件で呼び出しってことはないだろう。あいつはただの運び屋だ。ジェーン・ドウにとっては数ある駒のひとつだよ」
「だろうな。何か別のトラブルだろう。俺たちは配管詰まりのトラブルに呼び出される配管工並みに適当に使われてる」
「言えてる」
呉が小さく笑った。
「八重野。着替えてこい。暁の血がスーツについてる。それじゃ大井統合安全保障に職質されちまう。後で
「分かった。後で合流しよう」
八重野にスーツの上着を貸して東雲が八重野を送り出す。
「さて、俺たち従順な飼い犬はご主人様のところに行きましょうか」
東雲はそう言って居酒屋の残骸から離れた。
大井統合安全保障のコントラクターたちは未だに警備を続けている。
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