停戦合意

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 ──停戦合意



 大井コンツェルンとメティス・グループとの企業紛争はトート・グループの仲介によって停戦交渉へと向かうことになった。


 オービタルシティ・リバティで停戦交渉が始まり、大井海運の渉外担当者とメティス・バイオテクノロジーの渉外担当者が停戦に向けた交渉を始める。


「で、戦争は終わりだって?」


 東雲は自宅のリビングで人工コーヒーを飲みながらベリアとロスヴィータに尋ねる。


「少なくとも交渉は始まったみたいだね。大井とメティスは双方少しずつマトリクスに交渉の様子を漏洩させている。自分たちに有利な停戦条件を獲得するために」


「ふうん。まあ、戦争が終わるなら何よりだよ。トロントまで飛んだ苦労が報われたって感じでな。あの仕事ビズの報酬もそこそこ良かったけどさ」


 東雲たちはトロントでの馬鹿騒ぎの仕事ビズで40万新円をジェーン・ドウから受け取っている。払われたのは東雲、ベリア、ロスヴィータ、八重野に対してで呉とセイレムには別途支払われている。


 呉とセイレムは帰国してから真っ先に専門の病院に放り込まれ、機械化したパーツの交換とメンテナンスを受けていた。


 それで東雲とは別れていた。


「でも、分からないよ。メティスは分裂状態なんだ。理事会は白鯨派閥と反白鯨派閥に別れている。それを押さえないと停戦交渉どころじゃない。だからメティスはひとまずは反白鯨派閥が停戦交渉を行うって情報を漏洩させてる」


「げえ。それだと白鯨派閥は反発するぞ。そもそもTMCに核爆弾を持ち込ませたのは白鯨派閥の連中だろ。そいつらが停戦に同意しなければ、結局意味がない」


「そうだよ。意味がない。白鯨派閥はより過激な方法に打って出て、メティスをかき乱すだろうね。彼らにとっては混乱と混乱に乗じたメティスにとっての利益の確保こそが、自分たちが復権するために必要なんだ」


「じゃあ、メティスは片手で大井と握手しながら片手で自動拳銃の銃口を大井に突き付けてるってわけだ」


「大井も同じだよ。メティスと表向きは講和するだけ。企業紛争が表立って取り上げられるとメティスからの人工食料の輸入が止まる。日本や中国といった大井の縄張りのアジア諸国が餓死する。握手はするけど、片手には拳銃」


「やってられねえ」


 ベリアが言うのに東雲がうんざりしたようにそう言った。


「ボクも情報を集めてみたけどメティスの白鯨派閥はブリティッシュコロンビア州の研究所だけでなくて、コスタリカにも研究所を持っている。メティス理事会は特殊執行部隊SEUを投入すれば制圧できるけどそうしない」


「白鯨派閥ねえ。理事会は白鯨の完全なデータを持っているんだろう?」


「そう。彼らは白鯨の技術を捨てるつもりはないってこと。だから、意図的に白鯨派閥を生かしている。彼らから得られる利益がある限りは」


 マトリクスじゃ急速に魔術の解析が進んでいるとロスヴィータが言った。


「白鯨の技術は役に立つから使いたい。けど、表立って白鯨派閥を認めると、反白鯨派閥が反発する。それに停戦交渉にも影響する。だから、非公式に研究を続けさせ、理事会に利益をアピールする際に技術を吸収する、と」


「ま、そんなところ。理事会はあいまい戦略を取っている。賢いよ、彼らは。白鯨派閥と反白鯨派閥が殺し合っても通常業務は進行しているから、メティスの経済活動に影響はないし、六大多国籍企業ヘックスの地位は揺るがない」


「あーあ。戦争は続くよどこまでもってか。またトロントに行けとか言われないといいんだけどな。メティスと講和しても、どうせ白鯨派閥は仕掛けランをやってくる。核爆弾の次はなんだ?」


「さーね。どうせ考えているのは大井とメティスのお偉いさんたち。理事会で月収2000万新円とかいう世界の富の上位1%を独占している連中」


「で、俺たちはそのお偉いさんたちのためにひーひー言って働くわけだ」


 ひでえ格差社会だよと東雲がぼやく。


「非合法傭兵なんて基本的人権すら怪しい最底辺だから。ジェーン・ドウはあっさりと私たちを使い捨てディスポーザブルにするし、財産だっていつだって取り上げられる。社畜より酷い」


「嫌になってくる。気分転換が必要だな」


「猫耳先生のところ?」


「そう。昼飯に誘ってみる。最近、カレーの美味い店ができたんだ」


「いってらっしゃい。私たちは大井とメティスの停戦交渉について調べてみる。それからトロントの件がどれほど影響を与えたかについて」


「任せた。情報がないとジェーン・ドウに使い潰されかねない」


 東雲はそう言ってアパートの部屋を出た。


「東雲」


「八重野。どうした?」


「ベリアとロスヴィータに調べてほしいことがある。エイデン・コマツという人物だ」


「そいつは誰だ?」


「私も前のジョン・ドウだった男だ」


「ああ。分かったのか」


「正直に言えばまだ確信は持てない。私はブラックアイスを踏んで意識が飛んでいた」


「それで情報が手に入ったって……」


「今はこれを信じるしかないんだ。頼む」


 八重野は真剣に頼み込んだ。


「分かった。ベリアとロスヴィータに連絡しておく」


「ありがとう、東雲」


 東雲はARでベリアとロスヴィータにメッセージを送った。


「じゃあ、結果が出たら教える」


 東雲はそう言って八重野と別れた。


 東雲はTMCセクター13/6を歩いていき、王蘭玲のクリニックに到着。


 そのまま東雲はクリニックに入る。


「東雲様。貧血でお困りですか?」


「ああ。それから先生に食事のお誘いだ。今日は空いてるみたいだな」


「はい。お伝えしておきます」


「よろしく」


 いつものようにナイチンゲールにそういうと、待合室の椅子に腰を下ろした。


「東雲様。どうぞ」


 東雲はすぐに呼ばれた。


「やあ、先生。造血剤を頼むよ」


「相変わらずだね」


 王蘭玲は呆れたようにそう言って、猫耳を揺らした。


「今回はどういう仕事ビズだったんだい……」


「カナダくんだりまで言って大暴れだよ。酷い仕事ビズだった。サイバーサムライより体を機械化している人間と出くわしてね。そいつがもう滅茶苦茶。最後は大爆発しやがった」


「もしかして、ジャクソン・“ヘル”・ウォーカー?」


「そう、そいつ。先生、知ってるの……」


「ああ。脳神経医学界隈でも一時期話題になった人間だ。彼が中東で何人殺したかは知らないが、彼の脳神経へのアプローチは医学的に注目されるものだったよ」


 王蘭玲がそう話す。


「どんな風に?」


「脳の機能をどれほど機械化したら自己が失われるのか。意外に思うかもしれないが、メティスの研究者は公に論文を発表することがある。特に医学関係の論文をね。論文引用率じゃ、メティスの研究者はなかなかのものだよ」


 下手な大学の教授より多いという。


「それで、ジャクソン・“ヘル”・ウォーカーも論文に?」


「彼は脳幹以外を全て機械化した。その脳幹にいくつものインプラントを入れ、ナノマシンを循環させていた。となると、彼が彼であるという証明はどうすればいい?」


「魂?」


「魂は人間が生きているか、いないかの証明でしかない。魂は記憶喪失や脳障害に左右されない。つまり、機械化前のジャクソン・“ヘル”・ウォーカーと機械化後のジャクソン・“ヘル”・ウォーカーの違いは分からない」


「少なくとも脳幹だけしか残ってなくても魂はあるわけだ」


「あった。メティスはそう発表している。脳幹だけしか残っていなくても魂はある。少なくともメティスの脳機能置換手術や強化脳インプラントは魂を失わせなかった。だが、疑問が残る。人間とはどこからどこまでは自分なのか」


「ふうん。脳をどれほど機械化したら人間じゃなくなるのか」


「手足は義手にしてもその人だと言えるだろう。内臓にしても移植を受けたりすれば、入れ替わることはある。そもそも人間の組織というものは、細胞単位で代謝している。身体を常に健康に保つために」


 アポトーシスによる細胞死によって多細胞生物の細胞は常に新しい状態に保たれると王蘭玲は言う。


「脳もその生成過程で細胞死を起こしている。流石に昨日の自分と明日の自分が全く異なるとまでは言わないが、ある程度の代謝はある。古い細胞が残ると、健康に害がある」


「だけど、自然な細胞の入れ替わりと機械化するのとでは訳が違うだろう?」


「確かにそうだ。細胞は人間が有する情報──DNAに基づいて生成され、代謝される。生命の本質をDNAとするならば人間はどうあろうと一貫性を保っている」


 放射線でも浴びてDNAがズタズタになっても生きていたら、一貫性は失われるかもしれないがと王蘭玲。


「機械化はDNAによるものじゃない。つまり、生命としての一貫性がない?」


「だが、義肢の例を考えてみよう。昔の木製の義肢も最先端の人工筋肉のものも装着者本人のDNAに依存しない。だが、義肢にしてもその人間がもはや本人ではないとは言えないだろう?」


「まあ、そうだね。けど、手足は人間の考えに影響しないんじゃないか?」


「考えというのはあいまいなものだよ。手足は良しとする。内臓も良しとする。では、脳は? そっくりそのまま機能を完全に入れ替えられたら、脳の機能は機械に引き継がれ、そして考えは保たれるのではないかな?」


「でも、機械にしたら機能は引き継げないだろう……」


「ジャクソン・“ヘル”・ウォーカーは脳を機械化したが魂は失われなかった。つまり、機能は引き継がれたということだ」


「んん。じゃあ、どこからどこまでが人間なんだ?」


「テセウスの船というこの問題に打って付けの思考実験がある。ひとつの構造物を少しずつ入れ替えていき、完全に全てが入れ替わった時、それは入れ替える前の構造物と同じだと言えるのか」


「同じ、じゃないんじゃないか? だって、元のパーツは残ってないんだろう?」


「だが、構造物は以前とそっくり同じで、同じように機能する。その構造物の概念を機能という面から見ればそれは以前と同じだ」


「じゃあ、ジャクソン・“ヘル”・ウォーカーも機械化する前と同じだと?」


「それが脳神経医学的に問題なんだ。脳の機能というのは複雑で、魂というものが発見されてからはより複雑になった。聞いたことがあるかもしれないが、人間の脳のデータをデジタルで完全に保存する技術はない」


「ふむ? ってことは……」


「そう、機械化したジャクソン・“ヘル”・ウォーカーに脳の機能は移せても、記憶されていたものまでは完全に移せない。機能は残ったが、データは失われた」


「コンピューターのハードウェアの記録する機能はそのままだけど、中のデータは消えちまったってことか」


 東雲が納得したように頷く。


「フォーマットしたわけではない。データが完全に消えたわけじゃない。欠落したデータがあるのではないかという疑問だ。もし、ジャクソン・“ヘル”・ウォーカーが完全に脳の記憶をコピーできていたら人間のバックアップを取れる」


「死んだ後もデジタル空間で生きていけるってわけ?」


「ああ。その通り。人類が目指した不老不死だ。だが、その試みは上手くいっていない。人間の脳は完全にコピーすることはできない」


「なるほど。当然メティスの精神科医はジャクソン・“ヘル”・ウォーカーの精神鑑定をしたんだろ?」


「やった。ジャクソン・“ヘル”・ウォーカー本人は自分に異常はないと訴えたが、限定AIによる分析では彼の精神は一貫性を保っているとは言えなかった」


「人格が機械化によって変わったのか? あいつ、ぶっ飛んでたけど」


「ぶっ飛んでたかどうかは知らないけれど、彼は少なくとも精神の一部が変質していた。脳の機能はそのまま。人格だけが変わった」


「成功していたら人間の脳のバックアップを取るだけじゃなくて、脳の完全な機械化による疑似的な不老不死を実現できるというわけだ」


「夢のような話だろう? メティスがこれから技術を高めていくことに期待せずにはいられないね」


「全く。それでも俺は脳みそを機械化するなんてごめんだけどね」


 東雲はそう言って肩をすくめた。


「で、先生。この後、食事をどうだい?」


「君もなかなか頑張るね。いいよ。どこで食べる?」


「評判のいいカレー屋が出来たらしいから、そこで」


「いいね。行くとしよう」


 そう言って東雲と王蘭玲は席を立った。


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