マトリクスの魔導書

……………………


 ──マトリクスの魔導書



 一緒に寿司を食べた翌日。


 ベリアとロスヴィータはBAR.三毛猫に来ていた。


 というのも、八重野の件だ。


「ここで本当に情報が手に入ると思う?」


「入らないかもね。けど、何もしないって訳にはいかないでしょ。八重野君はほっておけば2年で死ぬと思っているし、あの魔法陣は本物。この前の仕事ビズがどこのジョン・ドウによるものなのか突き止めないと」


 ベリアたちは下手に魔術を解呪するよりも、ジョン・ドウを探すことにした。


「この前に事件のトピックはない?」


「ないね。六大多国籍企業ヘックスは上手く隠したみたい」


「全く。抜け目ないことだ」


 トピックを見渡すがそれらしきものはない。


「え? 何あのトピック……」


「マトリクスの魔導書……」


 “マトリクスの魔導書目撃情報”というトピックがいつの間にか立っていた。


「マトリクスの幽霊、マトリクスの怪物と来て、今度はマトリクスの魔導書とは」


「本当だとすると白鯨の残滓かな……」


「かもしれない。ちょっと覗いていこう」


 ベリアたちは興味を引かれてトピックを覗いた。


「全く。いつからここはこんなオカルトや都市伝説の話をする場所になったんだ?」


 海外ドラマに出てくるスキンヘッドの化学教師のアバターをした男性が唸っていた。


「だが、目撃情報がある。そして、我々は白鯨事件でマトリクスに奇妙なものが潜んでいる可能性について知った。マトリクスの優れたハッカーが魔術師ウィザードという気取った名で呼ばれるのとは違うものを」


 メガネウサギのアバターがいつものように冷静に告げる。


「じゃあ、教えてくれよ。マトリクスの魔導書ってのは具体的にどういう代物なんだ? 魔法の呪文が書いてあって、俺たちはマトリクスの上で魔法が使えるようになるってのか。馬鹿馬鹿しい」


「否定するならわざわざトピックに首を突っ込むなよ」


「批判的意見がないとコミュニティはあっという間にダメになるんだよ」


「ケチがつけたいだけだろ」


「じゃあ、俺は今度マトリクスの口裂け女を見つけてきてやるよ」


「やれるもんならやってみろ」


 ヤジと罵詈雑言が瞬く間にログを埋めていく。


「静かに、静かに。マトリクスのドラゴンだろうと、マトリクスのぬらりひょんだろうと見つけたならば報告すればいい。このマトリクスの魔導書は複数人が目撃している」


 メガネウサギのアバターがうんざりしたようにそう言う。


「で、マトリクスの魔導書ってのはどういう代物なんだ?」


 化学教師のアバターが尋ねる。


「それを調査しに行った連中がいる。整理しよう。目撃されたのは白鯨事件の後。マトリクス上で再びあの奇怪な魔法陣のようなコードが存在することを数名が目撃した。もしかすると白鯨絡みかと思いトピックが立った」


「白鯨ね。あの怪物を倒したのはディーってハッカーだって噂だが」


「ああ。噂だ。前にディーというハッカーはここの常連だったことも事実。私も彼と何度か意見を戦わせた。いい奴だったよ。死んだという情報が嘘であればいいのだが」


 ディーのことはどこからか伝わったようだ。


 マトリクスでは様々なものが記録され、そして忘れられるというのに。


「それは置いておこうぜ。マトリクスの魔導書が何なのかはっきりさせたい」


「今分かっているのはそれは白鯨と同じようなコードで出来た構造物であるということ。そして、それは自律AIに近い存在であるということ。国連チューリング条約執行機関が動いているらしい」


「またAIか」


 あれこれとAIに関する意見が飛び出る。


「クソッタレの白鯨を経験した後じゃどんなAIも邪悪に見えるぜ」


「お前は案内ボットにだってビビってるのかよ?」


「AI、AI、AI。自律AI。国連チューリング条約執行機関は何やってんだ? 白鯨の時もこいつらは役立たずだったじゃないか」


「白鯨にぐちゃぐちゃにされて回復しきれてないんだとさ」


「国連分担金をまともに払ってない国が多過ぎるんだよ。今、一番金払ってるのはインドだぞ? アメリカは? 日本は? 中国は?」


「そして兵隊を出しているのは民間軍事会社PMSC。国連は平和維持活動やら何やらを連中に丸投げするようになった。それこそ計画の段階から」


「クソッタレの六大多国籍企業ヘックスに媚び売ってやがるんだよ、国連も」


 瞬く間に話題が脱線していく。


「いい加減にしてくれ。国連や民間軍事会社を批判したければ別のトピックを立てろ。大体碌に税金も収めてない連中が国連分担金にあーだーこーだ言うな」


 メガネウサギのアバターがぴしゃりとそういう。


「マトリクスの魔導書が白鯨の遺産で、自律AIだった場合、だ。また白鯨事件に匹敵する事件が起きる可能性がある。忘れてないよな。奴はここの仲間を殺し、この電子掲示板BBSに乗り込んで来たってことを」


「忘れられるもんか。あんたはあの時、あの場に残っただろう。勇敢にも」


 メガネウサギのアバターに化学教師のアバターが返す。


「私は勇敢になどなれなかった。結局家が半生体兵器に包囲され、銃弾の嵐が吹き荒れるのに怯えて過ごしただけだ」


 だが、だからこそ白鯨絡みの品には警戒してるという。


「白鯨はこれまでの常識にを様々な意味で塗り替えた代物だった。攻撃的自律AI。超知能への可能性。そして、オカルトめいたコード」


「オカルト。確かに奴のコードはイカれてた。だからって怪物の次は魔導書か?」


「白鯨を経験した後じゃ何が起きても不思議じゃないと思えるよ」


 メガネウサギのアバターはそう言って肩をすくめた。


 その時だった。


 トピックに慌てたようにDJ風の格好をしたグラサン男のアバターが姿を見せた。


「諸君! マトリクスの魔導書に俺は接触したぞ!」


「来たぞ。調査にいっていた連中のご帰還だ」


 DJ風のアバターが叫ぶのに、化学教師のアバターが冷やかすようにそう言った。


「帰ってきたのはお前だけか? 何人か言ったはずだろ?」


「ああ。幸いにも俺は帰ってこれた。他の連中は……ご愁傷様。焼き殺された感じの反応だったな、あれは」


 焼き殺されたと聞いてベリアはますますマトリクスの魔導書というのは白鯨の残滓なのではないかという考えを深めた。


「で、やはり白鯨関係か?」


「いいや、いいや。白鯨? そんなちゃちなモンスター忘れちまえ! あれはもっとすげえもんだ! 俺はマトリクスの魔導書から天啓を得た!」


「天啓? 技術書の類だったのか?」


「天啓って辞書で引けよ。神の存在を示すものだぞ。白鯨は神に成り損なったが、こいつはマジで神だ。俺は天啓を与えられた。ハッカーとして覚醒しちまったぜ」


「おい。電子ドラッグを使用しているならここから叩きだすぞ」


 BAR.三毛猫では電子ドラッグジャンキーはBAN対象だ。


「俺は電子ドラッグもオールドドラッグもやっちゃいないよ。至って正気で、精神的に健全であることを宣言する。そして、俺がハッカーとして覚醒したという証拠をここに提示してやろう!」


 あるファイルをDJ風のアバターはトピック上で展開した。


「こいつは。アメリカ情報軍のブラックサイト非合法捕虜収容所のデータか!」


「その通りだ! さっきアメリカ国防総省ペンタゴンをハックして手に入れて来た! アメリカ情報軍は今もグアンタナモ以外にブラックサイト非合法捕虜収容所を運営してる!」


「東欧に中東。こいつにはフラッグ・セキュリティ・サービスも噛んでやがるみたいだな。連中の名前が乗っている。運営の一部を委託されている」


 DJ風のアバターが勝ち誇ったように言うのに、メガネウサギのアバターを始めとして多くのアバターが声を上げ始めた。


「六大多国籍企業の戦争犯罪の証拠だぜ、これは」


「クソッタレの六大多国籍企業。これで連中はいくらもらったんだ?」


「フラッグはアロー・グループ傘下の民間軍事会社で間違いないよな?」


「アメリカ情報軍はアメリカ中央情報局ラングレーの仕事をしっかり引きついだわけだ。くたばれ、米帝」


「こいつはアメリカ国防総省ペンタゴンのそう簡単にアクセスできる場所には置いてないはずだぞ」


 ざわざわとトピックがざわめき凄い勢いでログが埋め尽くされて行く。


「天啓だ! 俺はマトリクスの魔導書から天啓を得た! ブラックアイスも、防衛エージェントも、限定AIのアイスも怖くなんかねえ! 今の俺は無敵だ! ハッカーとして白鯨すら上回っている!」


 DJ風のアバターは高らかと語った。


 もし、このアメリカ情報軍の機密情報がなければ電子ドラッグジャンキー扱いされたであろう発言も、今や畏敬の念で聞かれている。


「マトリクスの魔導書から天啓を得ろ! マトリクスの魔導書を讃え、その叡智を授かるんだ! だが、いいか。マトリクスの魔導書は天啓を与える人間を選別する。もし、相応しくないのであれば、脳を焼き切られる」


「白鯨とは完全に無関係なんだな?」


「こいつが白鯨に組み込まれていたら、世界はこの前に終わっていたよ。こいつはマジですげえ。天啓だ。ハッカーにとっての天啓だ」


 天啓、天啓とDJ風のアバターが繰り返すものだから、トピックには奇妙な空気が流れていた。まるで新興宗教のカルト教徒を見る一般人の視線だ。


「おいおい。お前ら、俺がどれだけ凄いか分かってないな? これから俺は六大多国籍企業を攻撃する。だが、六大多国籍企業は俺に何も手出しできないだろう。俺は天啓を得たんだからな!」


「ねえ。それってアイスブレイカーやアイスのコードを貰ったってこと?」


 そこでベリアが尋ねる。


「違う、違う。いいか。マトリクスの魔導書は技術書でも、アングラのマニュアルでもない。聖典だ。ハッカーにとっての聖典だ。それはハッカーを守護し、導き、真理へと到達させてくれる」


「随分と抹香臭いことをいうね。ちょっとカルト染みているよ」


「言ってろよ。俺は事実しか言ってねえ。これから俺がやり遂げる仕事を前に、お前たちは叫喚するだろう。俺はマトリクスのあらゆる秘密を暴く。何も怖くねえ」


 ベリアが眉を顰めるのに、DJ風のアバターがそう宣言した。


「俺は今日からストロング・ツーと名乗る。ゼロの地位は伝説のハッカーである雪風に、ワンの地位は白鯨を命がけで食い止めたディーに捧げる。俺は連中に並ぶ伝説になる。いいか。今日という日はマトリクスに永遠に記録されるだろう!」


 電子ドラッグジャンキーの戯言としか思えない発言も、盗み出されたアメリカ情報軍の機密文書から冗談ではないことが分かる。


「確かに永遠に記録されるだろうな。あんたはマトリクスで無敵かもしれないが、物理的に無敵になったわけじゃないだろう? イカれた無謀なハッカーが伝説を騙った日として記録されるだろうさ」


「はいはい。言ってろよ。今度、俺が持ってくる情報に腰を抜かすなよ」


 DJ風のアバターはそういって軽薄に笑った。


 マトリクスの魔導書は今日という日から正式に記録され始める。


……………………

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