ナイトタウン
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──ナイトタウン
ベリアがマトリクスに潜っている間、東雲はジェーン・ドウから呼び出しを受けていた。場所はナイトタウン。正式名称TMCセクター6/2。
ナイトタウンは文字通り夜の街だ。眠らぬ夜の街。
大井統合安全保障の警備する中、TMCだけで味わえる娯楽──非合法すれすれのマトリクス体験、異性・同性との夜の楽しみ、特別な酒と料理──が揃った場所だった。
東雲の暮らすセクター13/6も大抵眠らない街だったが、それは
東雲はジェーン・ドウに指定されたバーを訪れる。
「遅いぞ。来い」
東雲はいつものチャイナドレス姿──今日は白と紫でアジサイ模様──のジェーン・ドウに連れられて、バーの2階にある個室に向かう。
「チェックしろ」
その個室には以前と同じようなスーツ姿の技術者がいた。
そして以前と同じような機械を手に、東雲の体をスキャンする。
「BCI手術は?」
「してないよ」
「なら、問題ありません」
東雲が言うのにボスの意見を窺うように男がジェーン・ドウを見た。
「行っていいぞ」
「失礼します」
そう言って男は去っていった。
「なあ、盗聴を疑っているのか……。今さら俺たちがあんたを相手にそんなことするように思えるのか……」
「お前が思っていなくとも、どこかの誰かがすれ違いざまに皮膚にナノマシンを埋め込んでいく可能性はある。それから例の女医も、な」
「王蘭玲先生のことを疑っているのか?」
「俺様は何だろうと疑うんだ」
疑うことが商売のひとつだとジェーン・ドウは言う。
「お前、マトリクスの幽霊に会ったらしいな」
「どこでそれを……」
「お前らの近辺には聞き耳を立ててあるんだよ」
ジェーン・ドウはそう言って、ウェイターの知らない名前のカクテルを頼んだ。
「本物の酒を出す店だ。合成品じゃない。好きなのを頼め」
「ふうむ。じゃあ、このジョニー・ザ・ブレイクを」
聞いたことはないが値段はそこそこだったので外れではないだろう。
「マトリクスの幽霊はお前に何を依頼した?」
ジェーン・ドウが用心深く尋ねる。
「俺がマトリクスの幽霊に接触したことは知っていても、何を依頼されたかまでは知らないってことか」
「いいから話せ。マトリクスの幽霊は何を言っていた?」
そこでウェイターがグラスを持ってきた。
ジェーン・ドウが頼んだカクテルは青色、東雲の頼んだカクテルは透き通った茶色だった。東雲は早速カクテルに口を付けてみる。
ジョニー・ザ・ブレイクは度数の高いカクテルだった。突き刺すようなアルコールの強さが駆け抜ける。それからリンゴの風味がゆっくりと広がっていく。カクテルというものを始めて飲んだ東雲には貴重な体験だった。
「AI研究者が殺される。そして、データを奪われるからそれを阻止してほしいと」
「マトリクスの幽霊が、か?」
「ああ。そう言われた」
東雲は今度はゆっくりとカクテルを味わう。アルコールのキツさとフルーツの風味がいい具合に合わさって、これは美味い。
「マトリクスの幽霊がAI研究者を保護しろ、と。それで報酬は?」
「
「ちっ。気に入らない」
ジェーン・ドウは心底不快そうだった。
「マトリクスの幽霊が接触してきた理由に心当たりはあるか?」
「ない。だが、奴が二度目に現れたのはTMCサイバー・ワン占拠事件の後だ。まるで事件を見物でもしていたかのような登場の仕方だった」
「なるほど。気味が悪いな」
そこでジェーン・ドウはカクテルに口を付ける。
「俺様たちはマトリクスの幽霊こそ、TMCサイバー・ワン占拠事件を引き起こし、そして富士先端技術研究所のAI研究者を殺したと見ている」
「マトリクスの幽霊が?」
「ああ。あれは以前、とある
「準六大多国籍企業ね。てっきり富士先端技術研究所は六大多国籍企業の所有物だと思っていたんだが」
「あれは独立した研究機関だ。六大多国籍企業の研究もやるし、軍の研究もやる。そして、独自の研究もやる。殺されたAI研究者は独自の研究として自律AIの研究をしていた。この件で誰が得をするか」
「ライバルの研究者?」
「可能性としてはそうだった。マトリクスの幽霊はAI研究者のアバターだと考えられていたからな。臥龍岡夏妃。聞いたことは?」
「ある。TMCサイバー・ワン占拠事件で白鯨が情報を検索していた」
「マトリクスではあれを白鯨って呼んでるのか」
再び東雲がカクテルを味わう。
カクテルのアルコールはとてもキツいが、ふらつきはない。東雲の身体は毒耐性が付いていて、アルコールにも強い。
「その白鯨とやらを作ったのがマトリクスの幽霊だと俺様たちは見ている。マトリクスの幽霊は本番前の実験のために大井のアンドロイド工場をハックして暴走させ、TMCサイバー・ワン占拠事件を引き起こした」
「わざわざ自分の情報を検索した理由は?」
「検索する情報はどうでもよかったのかもしれない。ただ、白鯨の威力を試したかった。それか自分の情報が完全に消えているのか確認したかった」
「自分の情報が完全に来ているか……」
「臥龍岡夏妃について六大多国籍企業もあれこれ調べた。だが、どこにも奴の情報は残っていなかった。そんな人間は最初から存在しなかったとでもいうように、戸籍すら存在しなくなっていた」
「本当に存在しないんじゃないか……」
そこまで情報がないなら、存在しないと思うのも不自然ではないだろう。
「いいや。臥龍岡夏妃は存在する。ある時点まで奴の情報はあったようなんだ。だが、ある時点を境にマトリクス上全てからそのデータが消えた。今や戸籍もデジタルだ。奴が凄腕のハッカーであることを考えるなら、消すのは容易いだろう」
「まさに幽霊だな」
東雲は少し笑った。
「笑い事じゃない。マトリクスの幽霊が単なる都市伝説なら笑っていられただろうが、奴は実体を持った化け物だ。白鯨を生み出し、一連の騒動を引き起こした張本人かもしれない。そうなればテロリストだ」
「しかし、どうして自分がAI研究者を襲うのに、AI研究者を守ってくれなんて俺たちにお願いするんだ……。絶対に妙じゃないか」
「分からん。白鯨の制御が利かなくなって自分の身も危なくなったからなのか」
白鯨を捕まえてみないことにはなにひとつとして分からないとジェーン・ドウは言う。そしてその試みがたった今、国連チューリング条約執行機関の手によって行われたが失敗したという。
「お前も相棒に伝えておけ。白鯨のコピーが取れたら大金をくれてやると」
「無茶言うなよ。国連チューリング条約執行機関がしくじった
「にしては、上手いことチューリング条約違反の自律AIを国連チューリング条約執行機関から隠しているようだがな?」
「なんのことやら」
どうやらジェーン・ドウはジャバウォックとバンダースナッチの件も承知のようだ。
「今、野次馬どもが山ほど集まって、白鯨と国連チューリング条約執行機関のサイバー戦部隊の戦ったログを漁っている。奴を追え。そして、奴のコピーを手に入れろ。まあ、これは
「あんたにしては控え目だな……」
「今、俺様の手持ちのハッカー全員に同じことを依頼している。どれかが当たれば儲けものってところだ。最悪、全員脳を焼き切られる可能性も考えている」
「おいおい」
滅茶苦茶だぞと東雲が言う。
「お前らの命はそれだけ軽いってことだ。それからこのバーは保安上の観点から戦闘用アンドロイドが配備されている」
「ふむ」
「そいつが今、ハックされた。どうやったのかは知らんが、さっき客を2名殺した。個室でだ。騒ぎになっていないが、大井統合安全保障に通知が行った。だが、連中が間に合う前に次は俺様たちが狙われる」
「ぶった斬れってオーダーでよろしいですか?」
「そうしろ。ぶち殺して、ぶち壊せ。これも白鯨とマトリクスの幽霊の仕業かもしれん。奴らの狙いが何かは知らないが、人殺しがお好きなようだ」
「そういう
「クソッタレだな」
そういうあんただって散々殺しの
「じゃあ、ぶち壊してくる。店に被害が出たら?」
「俺様を誰だと思ってる?」
「おっと余計な質問だったな」
そう言って東雲は個室の外に飛び出した。
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