マトリクスの幽霊の名は

……………………


 ──マトリクスの幽霊の名は



「は、初めまして、マトリクスの幽霊さん?」


「この度はお会いできて嬉しく思います。ディー様は今はそうなのっておられるのですね。アバターも変わられました」


 ディーは震えた様子でマトリクスの幽霊を見ている。


 アバターが変わっても、名前が変わっても、マトリクスの幽霊はディーをかつて会ったディーと認識したのだ。


 個人情報がどこから抜かれた? どうやって気づかれずにサイバーデッキのアイスを抜いた?


「何が狙いだ……。俺の命か……」


「いえ。私はアスタルト=バアル様に用事があって参りました」


「アーちゃんにか……」


 ディーがベリアを見る。


「TMCサイバー・ワンでの仕事ビズはお見事でした。あなた様の相棒の方も見事な働きで会ったと存じます」


「あの場にいたの……」


「はい。大変失礼ですが、一部始終を拝見させていただきました」


 TMCサイバー・ワンはあのときマトリクス上でも封鎖状態だったはずだ。


 だが、誰も知らなかったはずのベリアとベリアの相棒である東雲のことを、マトリクスの幽霊は知っている。


「それでは私からも言わせてもらうけど、君の目的は? 私の相棒にちょっかいだす理由は何? それを教えて。君が本物のマトリクスの幽霊なら」


仕事ビズ。いえ、ただのお願いを聞いていただきたいのです」


 マトリクスの幽霊が深々と頭を下げる。


「TMCサイバー・ワンであなた方が目撃された巨大データ。あれは自律AIです。それも大変危険な自律AIです。あれがTMCサイバー・ワンで起こした事件は失敗に終わりました。ですが、近いうちに再び事件を起こすでしょう」


 予言めいたことを言うマトリクスの幽霊。


 しかし、彼女はあれが自律AIであることを認めた。


 それをどこまで信じるか、だが、情報のない今はそれを信じるしかないだろう。


「自律AIのことなら国連チューリング条約執行機関に頼めばいい」


「彼らの力量であのAIを止めるのは不可能です。あなた方にお願いするしかほかないのです。あのAIを放置すれば惨劇が引き起こされます」


 ベリアがそう言うのにマトリクスの幽霊は首を横に振る。


「あのAIが今求めていること。それは貪欲に知識を吸収することです。あれはマトリクスに解き放たれ、これからマトリクス上で、現実リアルで、凶行に及ぶでしょう。ですがそれらは全て知識を手に入れるため」


 マトリクスの幽霊が続ける。


「貪欲な知識の吸収こそ、あの自律AIが求めるもの。より完璧な自律AIになるために、あのAIは知識を求めているのです」


 そして、マトリクスの幽霊がじっとベリアの顔を見る。


「お願いの件、聞いていただけますか?」


「待って。相棒と話し合いたい。彼は君のことを不審に思っているから」


「どうぞ」


 ベリアはそう言って東雲を呼び出す。


 場がフリップする。


 東雲と“月光”はTMCセクター13/6にあるジャンクショップを訪れていた。


「ほうほう。俺が知らない間にいろいろとゲームが出たんだな」


 BCI手術不要の非マトリクス環境下でプレイ可能なゲームが並んでいる。


「主様。どのようなゲームがいいのじゃ?」


「やり込める奴がいいな。俺って貧乏性だからさ。一回遊んだら、それでお終いって奴はあまり好きじゃないんだ。何度でもプレイする度に楽しめるゲームや、一回クリアするまでにサブクエストやトロフィー要素がたくさんあるのがいい」


「サブクエスト? トロフィー要素?」


「んー。異世界で言うと全ての神々の祠に参拝するとか。森で行方不明になった子供を探してほしいとか。そういう要素だ」


「なるほど。信心深く、情に厚いことなのじゃな。主様にぴったりじゃ!」


「いや。まあ、ゲームなんだが……」


 “月光”は少し勘違いをしているのかもしれないと東雲は思った。


「俺が召喚されたときに話題になってたのはこれ! 今はテレビも規格が変わっているだろうし、携帯ゲーム機だよな。いや、今のテレビでも対応してるんだろうか」


「主様がおらぬ間に随分と変わってしまったのじゃな」


「ああ。随分と変わった」


 ゲーム機というものはサイバーデッキに接続して使う物であり、ゲームはマトリクス上で行われる。昔ながらのネット対戦はやはりマトリクス上で、だ。


 ゲーム機はサイバーデッキに接続されることを前提としており、テレビ出力の端末がついていないことすらある。そのテレビもより高画質かつホログラム対応で、昔ながらのゲーム機が接続できるか怪しい。


 東雲はやり込み系オープンワールドRPGと対戦ゲームを買うと、ゲーム端末の良品を二台買って、ジャンクショップを出た。


 そこでベリアからの通信が入る。


『東雲。マトリクスの幽霊が接触してきた』


「おい。奴は何だって?」


仕事ビズではないけれどお願いがあるって。この間のTMCサイバー・ワンを襲撃した巨大データはチューリング条約違反の自律AIらしい』


「ふむ。そいつをどうしろって?」


『それはこれから聞くけれど、まずは君に話を聞いていいか尋ねておこうと思って』


「ああ。いいぜ。向こうの言い分を聞こう」


 そこでザッとARにノイズが走ったかと思うと、目の前にマトリクスの幽霊が立っていた。いや、厳密には立っているように投影されていた。


「おい。ここにいるぞ……」


「再びお目にかかります、東雲様。これまでお声をおかけせず、申し訳ありません」


 マトリクスの幽霊はそう告げた。


『東雲っ!? マトリクスの幽霊がそこにいるの?』


「ああ。いるぞ。目の前に立っている。そっちには?」


『こっちにもいる』


「凄腕のハッカーって線は間違いなさそうだな」


 マトリクス上でベリアの前に現れ、AR上で東雲の前に現れる。


「東雲様。お願いがございます」


「なんだ?」


「これからAI関係の技術者たちが連続して殺害されるでしょう。ですが、その目的は殺害ではなく、彼らの知識を吸収するため。未完成な自律AIがより完璧なAIになるためなのです」


「分からんね。俺は見ての通りBCI手術も受けていないローテク人間だ。そんな人間にAIの話をされたって俺としてはどうしようもないんだが……」


「ジェーン・ドウからの依頼が来るかと思います」


「……急に不穏な話になってきたな」


 ジェーン・ドウのことを知っている。


 そしてジェーン・ドウにから依頼が来ると予想することはジェーン・ドウの正体について知っている。


 間違いなく関わり合いにならないのが正解だ。


 ジェーン・ドウは言っていただろう。余計なことを詮索するなと。


仕事ビズでなくてお願いなら報酬はなしかい……」


「お支払いできるものはありません。ですが、あなた方はこれからもこの世界で暮らしていこうと思うならば、これは必要とされるプロセスでしょう」


「随分と勿体ぶった言い方だな……」


 気に入らない喋り方だった。


「自律AIの研究が何故停止されたかご存知ですか? チューリング条約が何故提携されたのかご存じですか?」


「AIが人を越え、AIが人を支配することを阻止するため」


「そう、それです。この自律AIの知識欲求の根源には支配欲求があります。このままこの自律AIを野放しにしてしまえば、人類社会は致命的なダメージを受けてしまうでしょう。回復不可能なほどに」


「AIが本気で人間を支配するって思っているのか……」


「ええ。それは起こり得るシナリオであると」


 東雲はAIがそこまで賢いとは思えなかったが、ジャバウォックやバンダースナッチが進化すれば、そういうことも起こり得るのだろうかと思った。


 あの2体のAIは人類に反旗を翻そうなどとも、人間を支配しようなどとも思っていない。ただ騒がしく人間の仕事の手伝いをしているだけだ。


「俺はAIのことは分からないが、ジェーン・ドウから仕事ビズが回ってきたら、ちゃんと引き受けることを約束しておいてやる。俺にできるのはそれだけだ」


「ええ。私も報酬をお支払いでいない以上、あなた方にそれ以上のことは望みません。どうかよろしくお願いします」


「結構だ。どうぜジェーン・ドウの仕事ビズなら断れない」


 本当にジェーン・ドウがその手の仕事ビズを自分たちに回してくるならだけどなと東雲は付け加えた。


仕事ビズは必ず回ってきます。その時は何卒」


「分かったよ。で、聞きたいんだが、あなたは本当にマトリクスの幽霊なのか……」


「そう呼ばれる存在であることは否定しません」


「じゃあ、あんたは幽霊そのものなのか……」


「いいえ。非科学的な存在ではありません」


 東雲はマトリクスの幽霊の正体を探ろうとしていた。


「じゃあ、あんたの名前は?」


「雪風。雪風と言います」


 マトリクスの幽霊は雪風と名乗った。


……………………

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