ここがいい
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──ここがいい
TMCサイバー・ワン占拠テロ事件の翌朝。
「んー? なあ、ベリア。“月光”見なかったか?」
「え。まさか、君“月光”失くしたの?」
「失くすわけないだろ。魂が結びついているんだぞ。そうじゃなくて、化身の方」
朝起きて合成コーヒーを淹れていたベリアに遅れて起きて来た東雲が尋ねる。
「主様。ここじゃ」
「ああ。戻ってたのか」
何もなかった空間から青緑色の光の粒子が漏れるとそれが“月光”を形作った。
「主様。昨日は我がままを言ってすまんかった。一緒に寝たいなどと」
「別に気にしやしないさ。いつも助けてもらってるからな」
昨日の夜に一緒に寝たいと“月光”が言うので、東雲と“月光”は同じ布団で寝たのである。それで今朝起きたら一緒に寝たはずの“月光”がおらず、その姿を東雲が探していたというわけである。
「しかし、主様も悪いのじゃぞ? 向こうにいたときは我を異空間に格納などせず、背負い、抱え、大事に運んでくれておったのに。こっちに来てからはいつも異空間に格納しているのじゃから」
「いや。向こうと違ってこっちには銃刀法ってのがあってだな。“月光”をそのまま運ぶとお巡りさん──官憲に捕まるんだ」
「むう。そうであったか。それならば仕方ない」
そして、ぎゅっと“月光”が東雲の腹部に抱き着く。
「しかし、我はここがいいのじゃ。主様の体に引っ付いているときが一番の幸せなのじゃ。主様からすれば血を吸う呪われた魔剣かもしれぬが……」
「馬鹿言うな。俺は血を吸われたことを恨んじゃいない。もちろん、血を流さない相手を指定してくるジェーン・ドウに腹は立つけけどな。お前は俺の長年の相棒だ。一緒に戦い抜いて来た大事な戦友だ」
「主様」
“月光”が頬を赤らめて東雲を見る。
「朝っぱらからいちゃついているところ悪いけれど」
ベリアがトンとコーヒーをテーブルに置く。
「朝食だよ。と言っても、コーヒーとパンしかないけどね。バターとジャムは合成品だけどご自由にどうぞ」
「もっと血を作るような食事がいいぜ」
「我がまま言わない。どうぜ合成レバーなんて食べても栄養素はないよ」
「それもそうだ」
ベリア、東雲、“月光”で食卓を囲む。
「その子、ずっと顕在させておくつもりかい? 食費がかかるんだけど」
「主様の邪魔になるなら引っ込むのじゃ。それに我は別に食事をせずとも」
「君だけ放っておいて私たちだけ食事してたらいじめてるみたいで気分が悪いよ」
そう言ってベリアはジャムを塗ったパンを“月光”に渡す。
「すまぬ。だが、暫くは許してくれ。主様と一緒にいられるのは
「それはな。“月光”のIDはないし、魔剣としての“月光”を持ち歩くのは大井統合安全保障の注意を引く」
「うむ。だから、こうして自宅にいる間だけでも」
「いいだろ、ベリア?」
“月光”が潤んだ目で、そして東雲が真剣な目でそう言って来るのにベリアはため息をついた。
「おふたりのことに口出しはしないよ。お好きにどうぞ。私がマトリクスに潜っているのの邪魔をしてくれなければご自由に」
「すまんな、ベリア」
「それから君の相棒は私もなんだからね?」
私がいないとマトリクスに関してはからきしでしょとベリアが痛いところを突いた。
「ああ。お前も相棒だ。大事な、な」
「主様。一番の相棒は我であろう?」
「うんうん。“月光”が一番だぞ」
“月光”は嬉しそうに微笑んだ。
「マトリクスで思い出したが、マトリクスの幽霊について調べてくれたか?」
「ああ。ごめん。忘れてた。そのマトリクスの幽霊って猫耳先生のクリニックとTMCサイバー・ワン占拠事件の後の高架下で見つけたんだよね?」
「そうそう。俺としてはTMCサイバー・ワン占拠事件にも関係しているんじゃないかって思うんだが」
「その線はないと思うよ。あの日、マトリクス上でTMCサイバー・ワンの内部に入れたのは、私とディーだけだったから」
「そうか」
東雲は納得できてないのか、考え込んでいた。
「ジェーン・ドウ絡み、じゃないよな?」
「彼女の雇った監視ってこと? それだとマトリクスの幽霊って呼ばれている意味が分からない。どこにでも現れるからマトリクスの幽霊って呼ばれてるんでしょ? ジェーン・ドウはそこまで手広くやってない」
「じゃあ、大井」
「大井にとっては私たちも
「そういうもんか」
東雲がバターを付けた合成パンを千切って口に運ぶ。
「私としては凄腕のハッカーなんじゃないかって睨んでいる。君のARに自分の姿を投影した。つまり、君のARデバイスをハックしたってことだ」
今の君のARは部分的にマトリクスに繋がっているからねとベリアはいう、
「君のデータ制限のあるARデバイスを瞬時にハックして、そこまで凝った姿を見せられるなんて凄腕だよ」
「ARデバイスまでハックされたら仕事にならないぜ」
「後でいい
「頼む」
そういうとベリアは食べ終えたパンの皿とコーヒーカップを台所に運び、洗って乾燥機に突っ込んでいった。
そして、そのままサイバーデッキに向かう。
「すまんのう、主様。そのことについては我は力になれそうにない」
「役割分担だ。俺と“月光”は荒事を。ベリアはマトリクスを。全部やろうとしなくたっていいんだよ」
俺だってBCI手術なんて絶対受けたくないしと東雲は語った。
「それより何したい? 中古屋に昔の──BCI手術がいらないゲームを探しに行くか? いい店をこの間見つけたんだ。ガラクタに見えるが、俺がいたときは最先端のゲーム機だった奴もある」
「主様と一緒にいられればどこでもいいのじゃ」
“月光”はそう言って東雲の腕を抱いた。
「“月光”を見ていると妹のことを思い出すぜ」
「主様。妹がおったのか?」
「ああ。丁度、“月光”──の外見年齢ぐらいだった。お兄ちゃん、お兄ちゃんって懐いてくれたよ」
東雲はどこか遠い顔をしてそう語る。
「主様。家族は探そうとはせぬな?」
「38年だぞ。38年も経っちまったんだぞ。失踪してから38年。もう父さんたちは老人ホームに入ってるか、死んでる。妹にしたところで俺より年上だ」
それに法律上は死んだことになっていると東雲は語る。
「俺にはもう行く場所なんてない。ここしかないんだ。ここで生きていくしかないだ。このTMC
そう語る東雲はどこか悲痛で“月光”は慰めの言葉をかけようとしたが、どれも空虚に響いてしまうようで声が掛けられなかった。
「幸い、孤独ではないし、生きてはいける。“月光”がいる。ベリアがいる。王蘭玲先生がいる。俺は少なくとも孤独に
それ以上を求めるのは我がままだと東雲は苦笑いを浮かべた。
「それでいいのか、主様は……」
「できれば王蘭玲先生といい関係になりたいぐらいだな」
「主様の浮気者」
「おいおい。俺たちはそういう関係じゃないだろ?」
「冗談じゃよ」
にししと“月光”は笑った。
「あの獣耳の治療師はいい女のようじゃからのう。主様は惹かれるのは健全でいいことじゃ。我も影ながら応援しておるぞ」
「ああ。ジェーン・ドウはスタイルはいいんだが、好みじゃない。ああいう高圧的な女は苦手だ。対等に付き合えるのがいい」
俺はいじめられて喜ぶマゾヒストじゃないんでねと東雲は笑った。
「王蘭玲先生と付き合ったら、猫耳触らせてくれると思うか……」
「どうじゃろうな。獣人にとって耳は貴重な感覚器じゃからのう」
「いや。先生のあれは伊達耳だぞ。本物の耳はちゃんと別についてる」
「奇怪な女じゃのう」
「流行りみたいだぜ。俺はごめんだけどな」
「我もじゃ」
そしてふたりして笑う。
「さ、じゃあ、ジャンク屋に行ってみるか。今日はジェーン・ドウは来ないみたいだしな。早々次の
「分かったのじゃ」
東雲と“月光”はアパートに三重のカギ──ベリアが仕込んでいる侵入検知用のものを含めれば四重──を掛けて、ジャンク屋に出かけた。
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