消去された情報

……………………


 ──消去された情報



「あの場に潜れた奴、いるか?」


 マトリクス上、BAR.三毛猫にてメガネウサギのアバターがそう尋ねる。


「やろうとしたが無理だった。誰かが迷宮回路を展開してたし、ワームか何かのせいでラグが酷くて。ただ、何かが出ていったのだけは見たぜ」


 別のアバターがそう答える。


「私も見た。クジラ、とでも形容すべきアバターの巨大データだ。その後、一帯が国連チューリング条約執行機関のサイバー戦部隊によって封鎖されたことを考えるに、あれはチューリング条約違反の自律AIかもしれない」


 三頭身の少女の姿をしたアバターがそう言う。


「ここで皆様にご報告です。なんと私たちはあの巨大データが何をTMCサイバー・ワンから盗み出そうとしていたか調べました」


「本当か? どうやって?」


「本当。方法は内緒」


 TMCサイバー・ワン占拠事件のトピックに集まったアバターたちがざわめくのに、ベリアはそう言って返した。


「ああ。方法はいい。あのデカブツは何を探してたんだ?」


「雪風。論文『AIにおける自己学習と自己アップデートについて──技術的特異点シンギュラリティは訪れるのか──』。臥龍岡ながおか夏妃なつき


「それだけ? たったそれだけ?」


「ファイスサイズにして324メガバイト。たったそれだけのために犯人はアンドロイド工場を暴走させてアンドロイドを逃亡させ、TMCサイバー・ワンを物理的に占拠し、データセンターに乗り込んだ」


凝り性アーティストな手法とチープな目的。企業テロの線も消えた。こいつ一体全体何がしたかったんだ?」


 三頭身の少女のアバターが考え込む。


「雪風? 第二次世界大戦中の駆逐艦か?」


「そんなものTMCサイバー・ワンのデータセンターを調べなくともマトリクスで全部分かるぞ。何か別のものを指してるんじゃないか?」


「論文『AIにおける自己学習と自己アップデートについて──技術的特異点シンギュラリティは訪れるのか──』。ヒット数はゼロだ。マトリクス上には全くない」


「おいおい。そいつは当たり前だぜ。どうみてもこれはチューリング条約違反の研究論文だ。チューリング条約締結前の代物でも国連チューリング条約執行機関が消去を命じたはずだ。これが本当に自律AIを生み出す代物ならば、だが」


 ログに次々に発言者の文字が流れていく。


「臥龍岡夏妃もヒットなし。幽霊か?」


「その検索はロボット検索か?」


「いや。俺の検索エージェントに探させてる。どの企業にも、大学にも所属していない。だが、この流れ的に論文書いたのがこの臥龍岡夏妃って人間だろう」


 ベリアは考えていた。


 技術的特異点シンギュラリティ


 高度なAIがより高度なAIを生み出し、その生産が連鎖していくことでいわゆる国連チューリング条約執行機関が恐れる超知能が生まれてしまう問題。


 2045年問題とも呼ばれ、それを防ぐためのチューリング条約が2038年に締結された。


 これによってAI研究は厳しい監査と条約締結に伴う法律による規制を受け、2045年に技術的特異点シンギュラリティは訪れなかった。


 臥龍岡夏妃という人間は『技術的特異点シンギュラリティは訪れるのか?』という疑問形で論文を書いている。その結論は論文が存在しないことで分からない。


 国連チューリング条約執行機関に潜れば情報があるかもしれないとベリアは考えるも、国連チューリング条約執行機関の迷宮回路が検索を妨げているし、侵入に成功しても、時間制限内に論文を見つけ出せる保証はない。


 そして、国連チューリング条約執行機関のサーバーでしくじれば、ブラックアイスに脳を焼かれる。


六大多国籍企業ヘックス絡みってことも考えられるんじゃないか?」


 そこでディーが発言した。


「TMCサイバー・ワンは六大多国籍企業なら合法にアクセスできるだろう。わざわざ乗っ取りに行かなくてもいい」


「いや。臥龍岡夏妃って人間が六大多国籍企業側ってことだ。このデカいクジラの化け物──恐らくはチューリング条約違反の自律AIは、どこかのフリーランスが作って、より完璧なものに仕上げるために臥龍岡夏妃って人間を探している」


 そして、臥龍岡夏妃は六大多国籍企業に保護されている、と。


 そう、ディーは言った。


「これだけのテロが起こせる人間こそ六大多国籍企業だと思うけどな。だが、確かに六大多国籍企業は別にテロを起こさなくてもTMCサイバー・ワンにアクセスできる。テロをする理由がない」


「それでいて自律AIの研究をしていただろう人間のことを探っている」


 ログが一時的に止まる。ここの人間は考え込むと静かになる。


「ねえ。思い出して。犯人は初めてアイスブレイカーを手に入れたティーンエイジャーみたいだって言ってたよね? マトリクスでは万能。だけど、現実リアルを分かってないって」


「ああ。覚えている」


 メガネウサギのアバターが答える。


「この自律AIは六大多国籍企業が作ったものかもしれない。それが暴走したのかも。計画的にではなく、予想外の暴走。自律AIが何を求めるのかって問いにすぐに知識って返って来たのも覚えている? そう、AIは知識を求めた」


 知識を求めて暴走した。


「この自律AIはマトリクスで貪欲に進化しようとしている。より高度な存在になろうとしている。技術的特異点シンギュラリティを求めている。そのためにはテロすら厭わないという過激すら見せた」


 ベリアの発言にログが止まる。


「……これから国連チューリング条約執行機関が派手に動けばそれは恐らく正解かもしれない。その説には状況証拠はある。目撃された巨大データ。検索された論文。起きたテロ。動いた国連チューリング条約執行機関」


 だが、確かな物証はないと三頭身の少女のアバターが言う。


「どれも憶測で繋がれた線だ。だが、その線を手にするには国連チューリング条約執行機関を相手にしなければいけない。連中のサイバー戦部隊は“タスクフォース・エコー・ゼロ”と呼ばれていて、腕のいいホワイトハッカーが所属している」


 ここにはその関係者はいないよなと冗談めかして三頭身の少女のアバターが尋ねる。


「おまけに連中のサーバーはブラックアイスだ」


「バックドアを知っている人間がいればな」


 最近のホワイトハッカーは真人間になったのか情報を漏らしやしないと数あるアバターのひとりが愚痴る。


 ホワイトハッカーは昔は馬鹿にされていたらしい。非合法なハッカーはあの手この手でセキュリティを抜こうとするが、ホワイトハッカーはただ企業の規則に従ったアイスを書いているだけだと。


 だが、六大多国籍企業がブラックアイスを始めとする過激なアイスに手を出し始めるとホワイトハッカーたちの需要も高まり、報酬もいいので、下手に雇い主を裏切って、情報を売ろうとするような“悪戯坊主”はいなくなったそうだ。


 下手に裏切った結果、悲惨な末路を迎えたホワイトハッカーの死体を彼らが見たからだと言う意見もあるだろうが。


 ──六大多国籍企業とそれに準ずる組織は非合法傭兵を飼っていて、ジェーン・ドウかジョン・ドウがちょっと動くだけで人が死ぬのだ。


 裏切れば制裁はデカいと判断したホワイトハッカーたちはこういう会員制の──そして、十二分にアイスされた電子掲示板BBSでそれとなく会話に参加するのみである。


 それですら裏切りと見做される世の中でありながら。


「今のところは憶測。あれは暴走したAIかもしれないし、プログラム通りに動いている単なる情報収集エージェントかもしれない。だけど、ひとつ言えるのはそれが誰であれ、何であれ、AIについての情報を求めているということ」


 それもチューリング条約違反のAIについての情報をとベリアは付け加える。


「それからTMCサイバー・ワンが荒れたとき、中にいた人はいる?」


「いねえ。あそこにいた人間はひとりもいねえんだ。その日はTMC自治政府の説明会だったとかで、いたのは六大多国籍企業のお偉いさんの家族か、TMC自治政府の関係者だけだったってよ」


「タイミング、見たと思う?」


 アラブ系の外見にサングラスをかけたアバターが言うのにベリアが尋ねる。


「だとしたら相手は六大多国籍企業を相手に手品をやってのけったってことだ。4日前に大井の工場を暴走させ、2日目にデカブツを載せたアンドロイドを脱走させ、その日ジャストにTMCサイバー・ワンを攻撃した」


 まさに相手を手玉に取った手品だとアラブ系のグラサン男のアバターは言う。


「もっともあの場に俺たちがいたとして現実リアルでモヤシの俺たちに何かできたとは思えないけどな」


「けど、TMCサイバー・ワンは大井統合安全保障と国連チューリング条約執行機関の特殊作戦部隊が突入する前にクリアになっていたらしいぜ」


「怪しいものだな」


 ログはそのまま続いたが、有益な情報はなく、ベリアはディーに断ってからログアウトした。


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