一杯のラーメン

……………………


 ──一杯のラーメン



 化学薬品臭がしない。


 王蘭玲のクリニックの下にある中華料理屋に入って東雲はそう思った。


 衛生状態はちゃんと保たれているようであり、机もちゃんと拭かれている。


「私はラーメン」


「私もラーメンにしよう」


 王蘭玲とベリアがそう言う。


「我は普通のラーメンは多過ぎるのじゃ……」


「じゃあ、俺がラーメンセットで餃子とチャーハン食うから、その分ラーメン分けてやるよ。それでいいか?」


「いいのじゃ」


 東雲たちは片言の日本語を喋る店員に注文するとお互いに向き合った。


「君たちの仕事ビズはTMCサイバー・ワン絡みかい……」


「そいつは言えないな、先生」


 公共放送がTMCサイバー・ワンの事件をうっすく伝えていている。


 現場の映像では大井統合安全保障の軽装攻撃ヘリが上空を旋回し、国連チューリング条約執行機関の兵士たちが破壊されたアンドロイドを運び出していた。


 ニュースはほんの2分程度で終わり、それ以降はバラエティー番組が始まった。


「この国でニュースを知るにはマトリクスにダイブするしかない、か」


「BCI手術、受ける気になったのかな」


「いいや。BCI手術は死んでもごめんだ」


 公共放送のニュースの時間はとても短く、一日に10分程度である。それ以外は焼き直しのドラマやバラエティー番組を延々と流している。


 2012年に見たようなバラエティー番組が出演者だけが変わって繰り返されているのには、東雲も閉口した。東雲は受信料を払っていないので文句が言える立場ではないが。


「そう言えば、またマトリクスの幽霊を見たぞ」


「ほう。君は憑りつかれたかな?」


「冗談言わないでくれ。ベリア、お前はどうだった?」


 王蘭玲が小さく笑いながら言うのに、東雲がベリアに尋ねた。


「マトリクスの幽霊? 都市伝説でしょ? いるはずないよ」


「俺のARにはっきりと映ってたんだ。白い着物の白髪の少女が。少し離れたところからじっとこっちを見てたんだよ」


「やだな、怖い話は。まあ、そんなに気になるなら調べておくよ」


 私も調べなきゃいけないものが多いから優先度は下がるけどとベリアは言う。


「ラーメン、オマチ」


「いただきまーす」


 ベリアはすっかり箸に慣れていた。思うがベリアの学習速度は自分の30倍ぐらいありそうだと東雲は思った。


 マトリクスにも、箸にも、あっという間に適応してしまうなんて。


 東雲は気のいい店員が気を効かせて付けてくれたお椀に“月光”の分のラーメンを分けてやり、4人で麺を啜った。


 美味い!


 昔ながらのラーメンだ。合成食品と化学調味料の塊だろうが、美味いものは美味い。東雲はアツアツのラーメンを啜りながら、餃子とチャーハンを摘まむ。


「“月光”は普通に食事して大丈夫なのかい?」


「問題ない。“月光”は食べたものを魔力に変換して吸収する。ただ、血液だけは獲物か、俺から吸うしかないが」


 王蘭玲が尋ねるのに、東雲はそう返す。


「ふうむ。不思議な生き物だ。だが、データには残さない方がいいのだろう?」


「ああ。トラブルの種になるだろう」


 “月光”は東雲の戦闘力の根源だ。


 東雲は今さら自分が電子ドラッグジャンキーでも買える旧式銃で仕事ビズを使用とは思っていない。これからも“月光”で仕事をするつもりだった。“月光”こそが彼の相棒だ。


 それからベリアも。


「ベリア。ラーメン、初めてだろう。どうだ?」


「美味しいね。中華のテイクアウトはいろいろ食べて来たけど、やっぱりこういうのは出来たてが美味しいんだろう。全く、合成品だってのに美味しいじゃないか」


 ずるずるとベリアがラーメンを啜る。


「まあ、味のほとんどは化学調味料だよ。合成食品から出汁は取れないし、合成食品はほとんど調理として完成されたものとして売られている。大昔はいろいろなものから出汁を取っていたみたいだけれどね」


「そうそう。魚介とか。しかし、東京湾のあの汚染のされようじゃ、魚なんて」


「東京湾はまだマシな方だ。浄化プロジェクトが進んでいる。ナノマシンで有害物質も分解する作業が進んでいるところだ。海外はもっと酷い。放射能汚染、産業廃棄物汚染、それによる変異した微生物による毒素汚染」


 綺麗で商業利用可能な海は2040年に消え去ったと王蘭玲は言う。


「酷いものだな。そこまでして発展したかったのかね……」


六大多国籍企業ヘックスによる覇権ヘゲモニー。彼らの求めるがままに市場は拡大を続け、消費は拡大を続け、汚染は拡大を続けた。何かあっても2030年に成功した温室効果ガスのナノマシン分解の例があるからと言い訳を続けた」


 温室効果ガスは確かに大気中に拡散されたナノマシンによって分解された。だが、ナノマシンはこの世の全てに有効な魔法の道具じゃないと王蘭玲は言う。


「海は汚染され、大地も、大気も汚染され、汚染ばかりが広がる。そして、六大多国籍企業は食料プラントという事業を行う。管理された環境で成育され、人工的に栄養素を付加されて生産される合成食料」


 このラーメンもそのひとつと王蘭玲は言う。


「美味いんだが、そういう話を聞くと素直に食べられなくなるな」


「食べればいい。味に善悪はない。彼らは生活の糧として料理を扱っている。彼らにも罪はない。六大多国籍企業も市場の求めに応じ続け、市場は無計画に拡大を続けただけ。誰にも罪はない」


 悪いとすれば昨日よりいい明日を望む人々の願いだろうと王蘭玲は小さく笑った。


「ラーメン美味なのじゃ。主様は向こうにいたときからラーメンが食べたい、ラーメンが食べたいと繰り返して負ったから満足じゃろう?」


「まあな。ようやくラーメンにありつけた。異世界にも似たような食い物はあったんだが、麺はぼそぼそして崩れるし、スープはただの塩味だったりしてうんざりしていたんだよ。ようやく本物のラーメンが食えた」


 それから中華料理屋のやたら量が多いチャーハンと餃子と東雲はチャーハンを掻き込む。口の中に米と油と化学調味料の味が広がる。


 美味い、美味い。化学調味料だって旨み成分には変わりないし、毒性があるわけじゃない。毒性があったとしても、東雲は勇者で、ベリアは魔王で、王蘭玲はナノマシン入りで、“月光”は魔剣だ。


「はあ。満足した。これまでテイクアウトの冷めた中華かインド料理しか食べてなかったから、出来たてのアツアツを食べれて満足、満足」


「私、杏仁豆腐頼んでいい?」


「“月光”にも分けてやるなら」


「いいよ」


 “月光も”杏仁豆腐に興味があるようだった。


 ベリアが杏仁豆腐を注文し、すぐに杏仁豆腐が出てくる。


「ラーメン。3年間求め続けてきたラーメン。美味かった。今度はトンコツが食いたいもんだなあ。先生、いい店知ってるかい……」


 満腹になった腹を押さえて東雲が尋ねる。


「私はあまりラーメンを食べ歩く方ではなくてね。マトリクスにならラーメン愛好家の溜まり場があるはずだから、意見が聞けると思うけどね」


「マトリクスか。マトリクス、マトリクス。現実がクソッタレだからみんなしてマトリクスに逃避しているのかね……」


「それはあるだろうね。マトリクスの方が現実世界よりも豊かだ。現実世界にいたら、汚染されて曇った空や電子ドラッグジャンキーたちの集まりを見ることになるが、マトリクスにいれば、そういうものからは無縁でいられる」


「そして、現実世界の問題は放置される、と。マトリクスってのも考え物だな」


 東雲は呆れたようにそう言う。


「マトリクスはいいものだよ。とてもいいものだ。知的好奇心を満たし、スリルを与えてくれる。ひとつの知識を手に入れると、さらに次の知識が欲しくなる。まさにあれこそが電子ドラッグだ」


 ここで杏仁豆腐を食べていたベリアがそう言う。


「本物の電子ドラッグはやってないだろうな?」


「私は今のスリルで満足してる。電子ドラッグで死人の追体験をする必要はないよ。もっとやばいことやってるからね」


 そう言ってベリアはクスクスと笑う。


「本当にやばいことはやめておけよ。ジェーン・ドウにも言われただろう。余計なことは詮索するなって。別に今の状況で困っていることはないんだ。仕事ビズがあって、収入があって、そこそこ美味いものが食える」


 それだけあれば人間生きていくのには十分だと東雲は言う。


「主様。我も主様の穏やかな生活を望んでおるのじゃ。無理に我を使わなければならない仕事ビズ? とやらを受ける必要はないのじゃぞ?」


「それは気にするな。どうせジェーン・ドウは俺の腕を当てにした仕事しか回してこない。俺はこれからも生き延びるし、仕事ビズはこなす。そして“月光”、お前を無駄にはしない」


「主様……」


 “月光”は顔を赤らめて俯いた。


「そろそろ私は行くよ。支払いは本当に任せていいんだね?」


「ああ、先生。また今度よろしく頼む」


「やれやれ。医者はお大事にというものなのだがね」


 次の予約をされるとはと言って王蘭玲は去った。


「さて、俺たちもそろそろ行くか」


「美味しかったね」


「ああ。美味かった」


 東雲は全で20新円の安い支払いを終えると帰宅した。


……………………

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