マトリクスにダイブする

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 ──マトリクスにダイブする



 会員申請を偽装IDで済ませてから、東雲とベリアはあまり変わらない昔ながらのネットカフェの個室に向かった。


 個室にはBCI用のネット端末──サイバーデッキがあり、寝転ぶ形でそれに接続するようになっている。


「じゃあ、繋ぐね」


「ああ。今は調べるべきものはジェーン・ドウってのが本当に企業工作員の名前なのか。アトランティス・ランドシステムズの半生体兵器を強奪したことで誰が得をしたか、だ。ジェーン・ドウには気づかれないようにやってくれ」


「了解」


 ベリアはBCIポートにケーブルをつなぐと横になった。


 ベリアの視界に膨大な情報の海が広がる。


 それはセクター13/6の猥雑とした通りの景色に似ている。様々な広告がキラキラと輝き、そしてその下には情報が乱雑に並んでいる。


 ベリアは何やらのっぺりとしたテクスチャとローポリゴンの自由に動かせる体がマトリクス上にいることに気が付いた。


 早速この現象について調査する。


 検索方法は簡単だった。頭に検索したいものを思い浮かべるだけで、マトリクス上をベリアの体が駆け抜けていき、絞り込まれた情報の海にぶつかる。


 最初の情報は『あなたも手軽にアバターを変更!』というものだった。広告だ。


 その広告を無視して、次の情報に当たる。


 次の情報は『ネット上のアバターについて』というまともそうなサイトだった。


 ベリアはその情報に手を伸ばし、広げる。


「ようこそ。次世代集合知識百科事典へ。あなたの問題を解決するお手伝いをします。しかし、本サイトはあくまでボランティアによる記事であり、法的・医療的・倫理的・政治的信頼は保証できません」


 女性の音声でそう読み上げられ、問題の記事に進む。


「アバター(マトリクス)。アバターはマトリクス上での自己を規定する存在の在り方です。近年の発達によって視覚化されたマトリクス上では、アバターの存在は不可欠です。アバターがなければ、様々な問題を引き起こします」


 ベリアは記事を進める。


「アバターはマトリクス上であなたがあなたであるためのものです。マトリクスは無限に広がる広大なネット空間です。しかし、視覚化される以前のマトリクスでは、アバターは存在しませんでした」


 アバターについてもっと簡単に説明してもらいたいなとベリアは思いながら、記事を進める。記事は長々と続ている。


「視覚化される以前のマトリクス上ではアバターは弱い存在でした。そのためアバターを見失い、自己を見失い、広大なマトリクス上でマトリクス遭難に陥って脳死状態になる技術者が後を絶ちませんでした」


 要約。3行でとベリアがシステムに指示する。


「アバターはマトリクス上であなたが自己を見失わないようにするために錨です。デザインそのものはファッション感覚で変えることができます。ですが、アバターなしではマトリクスには潜れません」


 ふむ。このアバターというものがないとマトリクス上では問題になるらしい。


 確かに肉体がなくて魂だけのアンデッドは儚い存在だ。魂には肉体が必要。マトリクス上で魂を託す肉体が、このアバターということなのだろうとベリアは納得した。


 しかし、このアバターはネットカフェのサイバーデッキに標準装備されているものらしく、ここで衣服の変更を行ってもログアウトしたら意味がないらしい。


 独自のマトリクスへのログインIDを持つには、東雲たちが苦労した市民IDは必要ないが、個人のサイバーデッキが必要になる。


 個人向けのサイバーデッキの価格を検索する。やはりトップに来るのは広告。


 広告を無視して、サイバーデッキの価格サイトを見る。


 安いもので800新円、高いものだと2万新円。


 中間の物は5000新円程度。


「おっと。ジェーン・ドウについて調べないと」


 再び検索を行う。


「ようこそ。次世代集合知識百科事典へ。あなたの問題を解決するお手伝いをします。しかし、本サイトはあくまでボランティアによる記事であり、法的・医療的・倫理的・政治的信頼は保証できません」


 またあのサイトに戻って来た。


「ジェーン・ドウ(企業)。ジェーン・ドウは企業工作員を指す隠語です。初出は六大多国籍企業ヘックスについての暴露本『ヘックスによる世界支配』を書いた作家エマニュエル・ゴールドスタインによるものです」


 どうやらジェーン・ドウは企業工作員ということで間違いはないらしい。


 それからアトランティス・ランドシステムズの半生体兵器強奪事件について検索する。情報の数がごそっと減った。


 ニュースサイトがいくつかヒットした。それだけだ。


「ハンター・インターナショナルが護送中のアトランティス・ランドシステムズの新型半生体兵器が強奪される。テロ目的か?」


「アトランティス・ランドシステムズは新型半生体兵器を日本陸軍にアピール」


「アトランティス・ランドシステムズの新型半生体兵器を南アフリカ陸軍が採用」


 関係ある記事は1件だけで、それも数行の薄っぺらいものであった。


「全然情報ないなあ。マトリクスと言ってもこんなものか」


 その時、ベリアの傍でノイズのようなものが走った。


「よう。嬢ちゃん。情報をお探しかい?」


 ノイズのようなものはノイズを維持したまま、プライバシー維持のために変声させたような音声でそう問いかけてくる。


「あなたは?」


「名乗るわけにはいかないね。嬢ちゃんがネットカフェなんていう必要最小限のアイスもプライバシーの維持もできないような環境からアクセスしてるんじゃあな」


「へえ。そういうの、分かるんだ」


「もちろん。そのアバターを見ただけで十分だ」


「じゃあ、どうやったらあなたの正体を教えてくれるかな?」


 ベリアがそう尋ねる。


「お嬢ちゃんが必要最小限のアイスと個人のデッキを持ってからだな。そうしたら、本当のマトリクスに案内してやるぜ?」


「それは楽しみ。でも、今はお金がなくてね。せめてアイスについてだけでも教えてくれる?」


「それぐらい検索しな」


 そう言ってノイズは消えた。


「ケチ」


 ベリアは愚痴ると、早速アイスについて検索する。


 アイス──ICE。侵入I対抗C電子機器E


 今は電子機器というよりもプログラムの形で存在することがほとんどだが、不正アクセスから身を守るための防衛システムらしい。


 様々なアイスが販売されていると同時に、様々なアイスブレイカー──アイスを砕き、不正アクセスを行うプログラムが存在するという話だった。


 ベリアはこの手の話に夢中になってずっと調べ回っていた。


 と、突然マトリクスが消えて、ネットカフェの天井が見えた。


「大丈夫か?」


 東雲が狼狽えているベリアに向けてそう尋ねる。


「マトリクスは……」


「ああ。利用時間が終わった。何度も呼んだのに返事のひとつも返さないから、いよいよ不味いことになったんじゃないかって思ったぞ」


 脳にカビが入ったとかと東雲は言う。


「お金、貯めないと。情報を手に入れるのにもお金がかかるみたい」


「そっか。暫くは地道に稼ぐしかないな」


 いくらぐらい必要なんだと東雲が尋ねる。


「安くて800新円だけど、5000新円は欲しいかな」


「装備品はケチるなっていうからな。、買うなら最高級品を買おうぜ」


「それなら2万新円」


「そいつは大した額になるな」


 相当仕事ビズをこなさないとと東雲が言う。


「まあ、今は質素倹約。ここもそう頻繁には利用できないな。使用料だけで50新円だぜ。俺はマンガが読めたからいいけどさ」


「私もマトリクスでいろいろと探せてよかった。有意義な時間だったよ」


 ベリアはそう言って伸びをする。


「じゃあ、出て、何か食おう。何がいい?」


「お寿司」


「分かった。どうせ合成品の安い奴だ」


 東雲たちはネットカフェを出ると、またセクター13/6の異臭のする中に出て、加工食品の寿司を食べた。


 それからジェーン・ドウが来て仕事ビズを回す。


 今度の殺しは野良犬。


 企業の元非合法傭兵で、今はフリーランスに抜けた男。


 元非合法傭兵らしく、身辺には注意を払っている男だった。マトリクス上にも、公共機関の利用データにも存在を残さない。


 だが、ベリアの使い魔からは逃げられなかった。


 そいつを探して、始末した。


 いつものように東雲が身体能力強化で加速して“月光”で一撃。


 鮮血が吹き上げる光景も見慣れたものだ。


 自分もジェーン・ドウに歯向かったら、こういう最期を迎えるのだろうかと東雲は思いながら、人混みに姿を消した。


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