第2話 禁忌の匂い

「……という訳で、ツェーナー博士の身柄拘束には失敗しました」

 ツェーナー博士の自宅前で待機していたレイラ先輩の元へ帰った僕とジェシカは、事のあらましを伝えた。あれからしばらく僕は暴れていたものの、ジェシカが鎮静剤を打ってくれたお陰で人間の体に戻っていた。

「エヴァン君。サラマンダーになる時には理性を失わないように注意してくれと、いつも言っているじゃないか」

「申し訳ございません」

「しかし過ぎてしまったことは仕方あるまい。ジェシカ、局長への報告を頼めるかい?」

「承知したよ」

 ジェシカは、持ってきていた鳥籠の中にいた伝書ハヤブサを腕に乗せた。伝書ハヤブサは、書類の連絡用に使われるハヤブサとハトのキメラである。ハヤブサはハトよりも視力がよく、移動速度も段違いに速い点で優秀である。唯一、餌代がかかるのが欠点ではあるが。もっとも今は電話が普及してきており、このような移動先での連絡か、政府機密の傍受防止のために利用されているのみである。

 ジェシカが伝書ハヤブサの脚に手紙をくくりつけて空へ放ったところで、僕たちはツェーナー博士の自宅へ足を踏み入れた。中庭側の開いている扉から中へ入ると、そこは博士の研究スペースになっていた。

 煉瓦造りの壁にポッカリと空いた窓からは、柔らかい陽射しが差し込んでいた。その光で薄暗い部屋の中が照らされている。壁際には机が並んでおり、書物やノートが乱雑に積み重なっていた。タイプライターの上の書きかけの草稿。とある学会からの分厚い封筒。日に焼けて茶ばんだ走り書き。最先端の学問が、ここに脈動していた。その興奮と畏怖が、レイラ先輩の鼻をくすぐったようだった。

「キメラを作るためにはF細胞が必要だ。しかしF細胞を取り出すと、不思議なことに素体となる動物は死んでしまう。その問題に対して、ツェーナー博士は素体となる動物が苦しまないよう、安楽死させることで有名だった。しかしツェーナー博士の目的は、もっと高みにあったのだ。見よ、これがツェーナー博士の研究の最先端だ!」

 そう言ってレイラ先輩は、分厚い紙束を手に取った。そのタイトルには、こう書かれていた。


『F細胞の新規摘出法の探索 ――素体を殺さずにキメラを造ることは可能か?――』


「これぞキメラ合成のパラダイムシフト! 我々は歴史的瞬間に立ち会っている!」

 レイラ先輩はおもちゃを貰った子供のように、早速ページをパラパラと捲り出した。

 情報部の魔女。それがレイラ先輩のあだ名だった。まるで子供のような見た目をしているが、実際は博覧強記であり、あらゆるキメラ研究に精通している。現在はその知識を買われ、情報部の直属として色々な事件に派遣されている。部下である我々としては、たまったものではない。

「ほぉ……へぇ、これは素晴らしい! いつも論文原稿の公認審査をしているから大方のキメラ研究は把握しているが、さすが慈愛のツェーナー博士。やることが違う」

「慈愛というか、過保護じゃん」

 ジェシカの呟きをレイラの耳は聞き逃さなかった。

「いいや。むしろ虐待に近い現状がおかしいのだ。長い歴史の目で見れば、技術標準は変遷する。博士の技術はまだ湧き水くらいのものだが、いずれは小川になり、大河になるだろう。その歴史を手助けするのは他でもない、我々だ。このツェーナー博士の書き出しを読んでみたまえ」

 レイラ先輩の小さな指先が、資料冒頭の序文を指している。


『果たして我々は一匹のキメラを生み出すために、何匹の動物を解剖し、F細胞を取り出し、それを無理やりくっつけては喜んできたのだろうか。私は覚えている。顕微鏡のレンズの下でこれから融合されようというF細胞たちの、あの憎悪に満ちた悪態を! 諸君、もうこんなキメラ研究は終わりにしよう。そして目指すのだ。素体を殺めずにキメラを創る方法を!』


 レイラ先輩は、博士の熱気が乗り移ったかのようだった。

「私の個人的な意見を言わせてもらえば、素体を生かしておいて同じF細胞を繰り返し摘出できるという点が革新的なのだ。F細胞の組み合わせと配合を変えて、何体でも培養できてしまう。これまでは培養の過程で失敗することも多かったが、これなら優秀な配合を短時間で見つけることができる。間違いなくキメラ研究は十年、いや二十年加速するだろう!」

 すっかり自分の世界に入ってしまったレイラ先輩に、ジェシカが声をかけた。

「そうは言うけどさ。さっきウマのキメラが逃げ出したことを知ったら、さっさと逃げ出しただろ? やっぱり違法行為をしていたんじゃない?」

 その言葉で、レイラ先輩はようやく現実に帰ってきた。

「その点は私も不思議に思っていたのだ。合成を担当した研究者にキメラの合成手法について照会することはある。しかし、それなら他の監視官が訪問すれば十分なはずだ。わざわざ私たちが駆り出される必要はない。あの腹黒い部長のことだ。私たちを派遣したのには、何か理由がある」

 近くに置かれていた黒板に、レイラ先輩はチョークで事件の概要を描き始めた。

「状況を整理してみよう。事件が起きたのは昨晩。場所はここから南へ行った所にある、鉱山で栄えている町、ラクシャ。そこには出稼ぎの鉱山労働者が多く住んでおり、夜になると仕事を終えた鉱山夫たちがキメラの闘技場に集まってくる。毎晩開催される凶悪珍妙なキメラ同士の勝ち負けに賭けをするのが、彼らの唯一の娯楽であり生きがいなのだ。

 その闘技場のキメラの中でも一番人気なのが、スレイプニールという名のユニコーンだった。二十数年前からの最古参で、逞しい八脚で闘技場を疾風の如く駆け回り、剣にも勝る一角で相手を貫く姿は、一目見ただけで誰もが魅了されてしまうほど美しいそうだ。

 そのスレイプニールが昨晩の餌の時間、ブリーダーが目を離した隙に逃げ出してしまった。もちろんすぐに追いかけようとしたが、誰も駿馬には追いつけない。これに対して、私たちにはツェーナー博士の身柄を確保する任務が与えられた。もし違法な行為、例えば、」

 そこでレイラ先輩は、ちらりと僕の方を見た。

「人の脳をウマに移植していたとしたら、単純な罠を使った捕獲も難しいだろう」

「やはりツェーナー博士が首謀者だと考えるのが自然ではないですか? 人の脳を埋め込んだウマのキメラを作ったことを隠していて、それが今回の脱走でバレそうになったから逃げたんですよ、きっと」

「だがね、エヴァン君」

 レイラ先輩は唇に手を添えて考え込んでいた。

「それなら他の監視官を派遣して身柄を拘束するだけでいいんだ。私たちじゃなくていいんだよ。きっと私たちだからできることがあるはずだ。手がかりを探してみよう」

 面倒くさそうな顔を浮かべたジェシカは、適当な机の上に乗って葉巻を咥えた。

「部長に直接聞いたらいいだろ。その理由とやらを」

「世の中には秘密にしておいた方がいいこともある。エヴァン君のようにね」

「弱みを握られて、良いようにこき使われてるようにしか思えないけど」

 その時、ジェシカが机に座ったせいでバランスを崩した書類の山が崩れてしまった。

「おっといけね」

 僕も床に落ちた書類を拾うのを手伝おうとしたのだが、その中に写真立てが混ざっていることに気付いた。

「これは……」

 埃を被っているから、随分古いもののようだ。若いツェーナー博士の隣に寄り添うようにして、女性が写っている。

「奥さんでしょうか?」

「確かツェーナー博士は、十数年前に離婚していたはずだ。これは元奥さんだろう」

 中の写真を取り出してみると、写真の裏に住所が書かれていた。

「ここに行ってみよう。何か分かるかもしれない」

「確かに、今のところはこれくらいしか手がかりはなさそうですね」

「そうと決まれば、こんなしけた部屋とはおさらばだ! スコル、ハティ、ヘレン、お出かけだよ!」

「バウォウ!」

「ワウォゥン!」

「キュォゥン!」

 投げかけに答えるように、外で待機していたケルベロスの三つの口が吠えた。フサフサモフモフの尻尾を勢いよく振り回して、すぐにでも駆け出しそうな勢いである。こうして三人で乗る時は、ジェシカの前にレイラ先輩が収まり、最後尾に僕が座る。三人が跨るのを左頭のハティが確認すると、細くて逞しい四本脚が地面を力強く蹴って風のように走り出した。

 その道すがら、僕はキメラ管理局へやってきた日のことを思い返していた。

 僕は元々は人間だった。いや、人間だった部分があった、と言うべきなのかもしれない。

 僕の中にサラマンダーが棲むようになったのは、十歳の時だった。その日、僕の平和な日常は崩れ去った。住んでいた街が反政府組織に襲撃され、両親は惨殺され、僕は実験台にされた。

 奴らの目的は、キメラ技術を使って人間を超えた兵器を作ることだった。人と動物のキメラを作ることは、古より禁忌とされていた。しかし奴らは、戦争の道具を欲しがった。

 奴らはキメラ研究者を脅して、人間の子供と動物のキメラを作らせようとした。大人の体ではキメラを作りにくいと考えたのかもしれないが、真相は分からない。だが多くの子供達が実験台となり、苦しみながら死んでいったのは事実である。

 その実験の中で偶然生まれた人と動物のキメラ。そのうちの一人が僕だった。

 結局、僕は兵器として使われることがないまま、反政府組織は鎮圧された。僕の身柄はキメラ管理局が保護してくれた。

 しかし僕は、本来であれば生まれてはいけない存在だ。多くの人は、僕を憐れみこそすれ、助けようとはしてくれなかった。

 ただ一人、レイラ・ヴァーリイを除いては。

 キメラ管理局に監視官として赴任したレイラ先輩は、地下施設に隔離されていた僕の存在を知ると、面会したいと申し出た。初めて会った時も、レイラ先輩の背丈は僕より小さかった。でも水晶のように澄んだ瞳で僕の目をまっすぐ見つめると、「君をパートナーにしたい」と言い出した。僕は冗談だと思った。監視官は、パートナーとして職務をサポートするキメラを使役している。それを皆から疎まれている僕にしようというのだ。あまりにも非現実的である。

 当時、他の人たちも反対していたらしい。だがレイラ先輩は、それを押し切った。

「彼が問題を起こしたら、私が責任を取りますから」

 どうしてそこまでして僕をパートナーにしたのか。その理由を、僕はまだ尋ねたことがない。尋ねる勇気が、僕にはなかった。それに僕は、檻の中から連れ出してくれたレイラ先輩に恩返しができれば、それだけで十分なのだ。

「ほら、着いたよ」

 気が付くと、もう目的地に着いていた。二人共、ケルベロスから降りていて、僕を不思議そうに眺めていた。

「すみません」

 僕も降りて、急いで後を追った。

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