君は儚いキメラの希望
葦沢かもめ
第1話 悪魔を生み出した研究室
「何者だ、お前たちは?」
チェーンロックをかけた玄関扉の隙間からこちらを覗いている目が、扉の前に立っているちびっこ先輩を睨みつけていた。
疑ってしまう気持ちは、よく分かる。玄関を開けたら、まるで子供みたいな背丈の少女が、キメラ管理局の紺色の制服を身にまとっているのだから。おまけに、その後ろには同じ制服を着た人物が二人立っている。葉巻を咥えているサングラスの金髪女と、眠たそうな目をした冴えない男。見るからに怪しい。この男が、僕なのだけど。
「私はキメラ管理局情報部所属の監視官、レイラ・ヴァーリイ。博士の作ったキメラのウマの件で捜査に来た。入るぞ」
「監視官には見えないが?」
扉の向こうで、丸メガネをかけた中年男性が眉間にシワを寄せていた。
「ツェーナー博士の目は節穴かね?」
ちびっこ先輩は小さな胸を張った。その胸には、金色のグリフィンのバッジが輝いている。それを見て、博士は一応納得したようだった。
「キメラのウマなら若い頃にたくさん作ったが、もう覚えていないかもしれないな」
「スレイプニールという八本脚のウマのキメラだ」
レイラ先輩が、古ぼけた写真の載った資料を掲げて見せた。
「そんなウマ、作ったような気もするな。一体、何があったんだ?」
「昨晩、スレイプニールが脱走した。その情報収集だ」
「……いいだろう。今開けるから、少し待ちたまえ」
そう言って、彼は一旦扉を閉めた。
「珍しい。レイラが信用してもらえるなんて」
サングラス女が煙を吐きながら呟いた。
「ジェシカ。これでも私は大人のレディなのだよ?」
「じゃあ吸ってみる?」
ジェシカは吸っていた葉巻を指で挟んで、レイラ先輩の前に差し出した。
「うむ。上司を気遣うのは部下の努め。よい心がけだ」
「先輩、無理はしない方が……」
僕は止めたのだが、レイラ先輩はためらうことなく葉巻を咥えて、思い切り煙を吸った。
「ケホッ、ケホッ!! うー、煙たい!」
「あー、やっぱり」
一方、ジェシカはケタケタ笑っていた。
「すまんな、主任殿の口には合わなかったか」
「くそぉ。ジェシカ、次やったらクビだからな!」
「クビにできるもんならやってみろよ!」
我々のチームは、慢性的に人手不足だ。彼女がいないと仕事が回らないのが実情である。
「ところで遅くないですかね、博士」
「確かに」
僕が扉をノックしてみたが、返答がない。扉を開けようとしても鍵がかかっているらしく、びくともしない。
「博士! ツェーナー博士! 開けてください!」
「やめたまえ、エヴァン君。もはや手遅れだ」
レイラ先輩の視線の先には、ツェーナー博士の自宅の中庭があった。博士は大きな鷲の背中に乗って、今まさに飛び立とうとしているところだった。
「博士を逃がすな!」
レイラ先輩の指示とともに、ジェシカは口笛を吹いた。すると、どこからともなく地を駆ける音が響いてきた。宙を舞って我々の前に姿を現したのは、真っ黒な獣だった。大きさは大人の二倍ほどもある。スラリと伸びた逞しい四脚。その漆黒の中に光るのは六つの赤眼。そこでよく目を凝らすと、漆黒の中に浮かび上がる三つの頭。三つの口元からは鋭い牙が覗いている。その黒い獣はつまり、ケルベロスと呼ばれるキメラだった。
「行くよ、スコル、ハティ、ヘレン!」
ジェシカはケルベロスに飛び乗ると、傍に立っていた僕の腕を乱暴に掴んだ。
「あんたも行くんだよ」
「おい、ちょっと待って」
僕は半ば引き摺られるようにして誘拐された。何とか体勢を立て直して、僕はジェシカの後ろに座った。
「しっかり掴まっとけよ!」
ケルベロスは僕のことなどお構いなしに博士の乗る大鷲を追いかけているので、すぐに振り落とされてしまいそうだった。僕は咄嗟にジェシカの腰に手を回した。そうでもしないと、頭から落下しそうだった。ジェシカの髪の匂いが、僕の鼻先を掠めた。
「がんばってくれー」
そう言ってレイラ先輩は僕たちを見送った。レイラ先輩は頭脳労働専門だ。一緒にいても足手まといになることを、彼女は分かっていた。それにしても、もう少し心を込めた言葉をかけて欲しいものだが。
「あと博士は生きて捕まえるようにー」
「この男がヘマしなきゃ殺さないよ」
ジェシカは、まだ僕を信用していないらしい。
博士の自宅を離れ、我々は牧草地に入ってきていた。辺りは一面の草原で、まばらに低木が生えている。大海原を渡る舟のように、ケルベロスは草原を突き進んでいた。博士の乗った大鷲の姿は、かなり近付いてきていた。
「この速度を維持してくれ!」
ジェシカはケルベロスに指示を出しながら、肩から提げていたランチャーを構えた。走るケルベロスの上でも狙いを定められるバランス感覚は、天性のものだ。
「さっさと捕まっちまいな!」
乾いた爆発音と共に、ジェシカのランチャーから捕獲ネットが放たれた。ネットは広がって大鷲を包み込んだかに見えたが、大鷲は華麗なターンでそれを避けた。
「もう少し距離を詰めないと!」
「やってんだよ! 文句垂れんな!」
ジェシカは辺りを見回して、一本の大きな杉の木を指差した。
「あれだ! あれで飛ぶぞ!」
「いやいや、正気か!」
「空を飛ぶくらいできるさ、この子たちなら」
ジェシカがケルベロスの背中を撫でると、三匹は自信に満ちた雄叫びをあげた。僕を振り落としてでも、彼らは飛ぶのだろう。恐ろしい。
ケルベロスは、勢いよく杉の木へと突進していった。ぶつかる直前、跳躍して枝に前脚を掛けると、あっという間にてっぺんへと登っていく。枝葉が次々と体に当たる。その度に落ちてしまいそうになり、僕は生きた心地がしなかった。
「いいぞ、そのまま突っ込めぇ~~~ッ!!!」
まるで弾丸のようにケルベロスは宙へと飛び出し、大鷲まであと馬車一台分ほどの距離まで迫った。
「もらった!」
ジェシカがランチャーを構え、捕獲ネットを発射した。さすがにこの距離では大鷲も避けられない。
だがその瞬間、網は真っ赤な炎に包まれてしまった。大鷲が炎を吐いたのだ。焼き切った網の隙間から、大鷲は逃げ出した。
「炎魔術のキメラ! 鳥類では珍しい……」
「何ボーっとしてんだ! お前も仕事しろよ!」
地上に降りた我々を見下すように、大鷲は丘向こうへと飛び去ろうとしていた。
「あの丘を超えたら山岳地帯だ。さすがにケルベロスでは追えないぞ」
「うるせぇ! んなこたぁ、分かってんだよ!」
「なぁ、ジェシカ。もう一度、大鷲に近付けるか?」
「あの丘の上の岩からジャンプするしかないぞ」
「分かった。それでいい」
そして僕は呼吸を整えた。ケルベロスの疾走するリズムに合わせて息を吐き、集中する。僕の皮膚が硬い鱗で覆われていき、野生の鼓動が全身を駆け巡っていく。熱い炎が、心臓の中でほとばしる。指先からは、鋭い鉤爪が伸びていく。着ていた制服は、大きくなった胸板ではち切れそうだ。僕の中の理性が、人間性が、倫理が、透明な箱の中に押し込められていく。僕は僕の体をじっくりと眺める。もうこの体は、サラマンダーになっていた。
ケルベロスが丘の上まで駆け上がり、石灰岩へと飛び乗る。全体重を後脚へ乗せて、空を飛ぶ大鷲目がけて跳躍した。風を裂いてケルベロスの黒い体が宙を舞う。それを避けるように距離を取ろうとしている大鷲に狙いをつけて、僕はケルベロスの背中から飛んだ。
何の支えもない空中。冷たい空気が僕の肺を満たす。耳元を過ぎ去っていく風の甲高い音が僕を包む。大鷲と博士の姿は、間近に迫っていた。まさか僕がサラマンダー男になって飛んでくるとは思ってもいなかったのだろう。博士の驚く顔が見えた。
目測通り、僕は博士へ抱きつくようにして大鷲の背中に飛び移ることに成功した。
「何なんだ、お前は!?」
逃げ場のない大鷲の背中の上で、博士は恐れおののいた表情を浮かべていた。
「私はエヴァン・フォレスター。監視官レイラ・ヴァーリイの使役するキメラです」
「禁忌を犯した者共には天の裁きが下るであろう」
「その前に、博士にはご同行頂きます」
「近寄るな、『忌み子』め。私はまだ死ぬ訳にはいかないのだ。あのガキと共に地獄へ堕ちよ」
その言葉に、僕は我慢ならなかった。僕の恩人を侮辱する人は、誰であろうが許せない。僕は全身がサラマンダーの炎で焼かれているように熱くなり、湧き上がる怒りは脳を、神経を、血管を、筋肉を埋め尽くした。
気が付いた時には、僕の右手の鉤爪が博士の首を切り裂こうとしていた。
「待て、バカヤロー!」
その時、ジェシカの駆るケルベロスが宙を舞って横から飛び込んできた。三匹の頭が僕を咥えて、大鷲の背中から連れ去った。
「離せ! あいつ、ぶった切ってやる!」
「落ち着け! 主任殿も言ってただろう。『生きたまま捕まえろ』って」
「うるさい! うるさい! うるさい!」
サラマンダーの炎を吐きながら抗議する僕を、ジェシカは解放してくれなかった。僕は空の小さな点となって稜線の向こうへ消えていく大鷲の姿を目で追いかけることしかできなかった。
「次に見つけたら八つ裂きにして火炙りにしてやるからな!」
届かない叫び声を、天に向かって吐いた。
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