第3話 真実の扉

 そこは何の変哲もない住宅街の一角だった。中流階級向けの比較的新しい住宅地らしい。似た形状の家が並んでいるが、どこも小奇麗に整えられていた。漆喰の白壁からは清潔感が漂い、路上に面した壁際には鉢植えの植物が緑を添えている。玄関から路上へと伸びる石畳が、小ぶりな庭に広がる青い芝生に橋を架けていた。

「ツェーナーですか? 最近は連絡も取っていませんが……」

 玄関先に立った元夫人メアリーは、不安気な表情を浮かべながら、事情をかいつまんで話すジェシカの声に耳を傾けていた。

「もしかして、その闘技場のキメラと主人に何か関係があるのですか?」

「実は合成者がツェーナー博士なのだそうです。あぁ、でも私たちは博士を逮捕するために来たのではありません。キメラの合成時の実験データを頂くために参りました」

「そうでしたか」

 メアリーの口から深い溜息が漏れた。メアリーの目は、遠い過去を眺めているようだった。

「あの頃のキメラ職人には、そういう仕事しかありませんでした」

「そういえば学舎で習いました。確かキメラ研究が国の管理下になったのが十八年前でしたよね。それ以前はキメラ職人が独自に仕事を請け負っていて、半ば無法地帯だったとか」

「それは半分正しいですね」

 その目で直接見てきたメアリーの言葉には、言外に含められた重みがあった。学舎というのは監視官の養成学校である。レイラ先輩もジェシカも学舎を卒業しているが、学舎で得た知識は役に立たないといつも言っていた。結局、習うより慣れろということらしい。

「確かにキメラ職人は、どんな仕事でも依頼されれば断りませんでした。あの人は『キメラの声の伝導師』なんて呼ばれて結構有名だったから、ビックリするような仕事が毎日舞い込んできてね。闘技用のキメラの他にも、ちっちゃいペットキメラとか、空を飛ぶ鯨とか、……あ、これは結局飛べなかったんだけど。あと貨物運び用のドラゴンでしょ。それにサーカス団からピエロ模様の猿なんてのも依頼されましたね。でも、無法地帯ではありませんでした。だってキメラ職人には、キメラ職人の魂があるから。もし人と獣の合成なんて依頼を裏で持ちかけてくる人がいれば、」

 諭すような眼がジェシカに注がれた。

「次の日には依頼人が監獄の中に入っていましたね。両手を獣用の拘束具で縛られて」

 思い出を懐かしむように、メアリーの口から言葉が紡がれていった。

「つまりは自浄作用があったのです。誰かさんに管理されなくっても、自分たちで正しい方向へ歩んでいました。そこにいきなり政府が入ってきて、国家試験なんてものを導入したでしょう? 結果、それまでの調和がかき乱されて、むしろ酷くなってしまいました」

「学舎では、キメラ職人を騙る偽物がいなくなったから状況は改善された、と教わりましたが?」

 メアリーの首がゆっくりと横に振られ、白髪が揺れる。

「いいえ。まだそこにキメラ職人がいない状態で試験するのなら問題はなかったかもしれない。でも、あの時はキメラの合成で生計を立てていた人たちが大勢いました。しかも経験と勘でやってきた職人たちに、細胞だの研究史だのって試験を出したのです。仕事を失って路頭に迷ったキメラ職人は沢山いました。そうなったら、もう裏の仕事しかないでしょう? 強盗、マフィア、テロリスト。魂を悪魔に売ってしまえば、雇ってくれるところはいくらでもありました」

 それを聞いたジェシカの瞳の奥に映し出されているのは、時に流されていった無念の数々であろう。

「そんなの、教科書には書いてありませんでした」

 まるで親戚の不幸を後から知ったかのように、ジェシカは深く肩を落としていた。その見かけによらない純真な姿を見つめるメアリーは、どこか安堵したように目元を緩ませて語りかけた。

「教科書には必ず真実が書いてあるだなんて、どの教科書にも書いてないでしょう? それなら仕方がないじゃない。これからは貴方が教科書になればいいんですよ」

「はい、覚えておきます」

 ジェシカの曇っていた顔に、少しだけ活気が戻ったように見えた。

「ところで、ちょっとお聞きしたいのだが」

 不意に横から口を挟んできたレイラ先輩に若干戸惑いながらも、メアリーは「えぇ、どうぞ」と頷いた。口を開くレイラ先輩の眼は、真剣そのものである。

「『キメラの声の伝導師』ということは、キメラの言うことが分かるのか?」

 理解に達するまで、若干の空白。

 これにはみんな呆気にとられてしまった。しばらく沈黙が続いたが、ジェシカがくすっと笑いながら、

「こういう人なんです」

と言うと、ようやくメアリーも状況を飲み込んだようだった。遠くを見つめながら、冗談めかした口調で答えを返す。

「言われてみれば、確かにそうかもしれませんね。あの人は昔から変わってたから。ほら、動物好きなら、動物に『調子はどうだい?』なんて声をかけたりするでしょう? あの人もそういう人なのだけど、でも相手が変わっていて。何だと思う?」

 ジェシカは腕組みをして思案し始めたが、すぐにレイラ先輩が答えた。

「F細胞、だな?」

「よく分かりましたね。簡単だった? あの人はね、顕微鏡を覗きながら小さな針でF細胞同士をくっつける作業をする時は、いつも『いいぞ、その調子だ』とか『どうにかくっついてくれないかい?』なんてボソボソ呟いていました。私がそれをどんなに笑っても、やめようとはしませんでしたね。『こうしないと融合してくれないんだ』って、紅くなりながら言い訳していました」

 当時を思い出して笑うメアリーの話を、レイラ先輩はにこやかに聞いていた。だが、その眼だけは笑っていなかった。

「かたじけない。それと、もう一つ。二十数年前、今回逃げ出したキメラの仕事を請け負った頃も、ここで研究をしていたのか?」

「いいえ。ここには自宅兼研究室ができてから移りました。十五年くらい前でしたでしょうか。それより前は、ここから北に行った所にあるノーガンという小さな町で研究所を開いていました。真っ当なキメラ職人としてね」

 それを聞いて頷くレイラ先輩の動きは、どこか固い。

「やはりそうだったか。では詳しい場所を教えて頂きたい」

「まさか、そこまであの人を探しに行くつもり? さすがにそんな所にはいないでしょう。もう建物は壊してしまったし」

 だがそんなことに耳を貸す素振りなど微塵も無く、レイラ先輩の手はポケットに伸び、ペンと紙切れを取り出した。そこへすらすらとペンを走らせると、メアリーへ手渡す。描かれていたのは簡単な近辺の地図で、あとは場所を教えろというのである。

「あなた、悪いところであの人に似ていますね。メモ用紙が散らばったあの人の部屋を、久しぶりに思い出しました」

「それは身に余る光栄だ」

 レイラ先輩は小さな胸を張った。

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