【短編】思い出の中に

お茶の間ぽんこ

思い出の中に

 小学校六年生の最後の夏休み。熱気が肌に付きまとってくるほどの暑さを少しでもしのぐため、僕たちは木陰で休んでいた。


「まったく嫌になるほど暑いわ。圭太けいたに付き合わないで家で涼んでいた方がマシだったわ」


 隣に座る華倉礼美はなくられいみちゃんは綺麗な長髪をかきあげながら、さっき自動販売機で買ったジュースを口にした。


「え、えぇ…。元はと言えば礼美ちゃんが外で遊びたいって言うから」


「今何か言った?」


「い、いや、何にも」


 僕は礼美ちゃんに睨まれてそれ以上何も言えなかった。


「何だかつまんないわね。圭太、何か面白いことをしてみせてよ」


「そんないきなり言われても思いつかないよ」


「そうだ、この木のてっぺんまで登ってみせてよ」


「そんな、僕がクラスでウスノロと呼ばれるぐらい鈍臭いって知っているでしょ?」


「だからこそよ。ウスノロのあなたが必死になってる様は見物だわ。ほら、早く」


「わ、分かったよ」


 僕は礼美ちゃんに言われるがまま仕方なく木に登り始める。


 慎重に、慎重に、上へ。下を見ると怖くて落ちるかもしれないので上の方だけを見る。


 次に手をかける所に目を向けると、うねうね動く虫がいた。


「う、うわあああ」


 驚きのあまり木から手を放してしまった。


 真っ逆さまに地へと体が落ちていく。


 ドスッと音をたてて背中を強打した。


 僕は死んだ虫のように体を丸くさせた。


「きゃははは、圭太って本当面白いわね」


 礼美ちゃんは落ちた僕を見て笑い声をあげた。


 このような具合に、僕と礼美ちゃんはいつも二人で遊んでいた(僕が礼美ちゃんの玩具になっている気もしなくはないが)。


 礼美ちゃんはお金持ちの家のお嬢様だ。それに比べて僕は平凡な家の平凡な人間である。


 では、なぜ僕と礼美ちゃんが一緒に遊んでいるのか。


 僕は礼美ちゃんと席が隣になり、礼美ちゃんが教科書を忘れてきたことがあった。


 礼美ちゃんはその高飛車な態度から学校の子たちに距離を置かれていて隣のクラスから教科書を借りるあてもなく、教科書なしで授業を受けようとしていた。それを見かねた僕が教科書を見せてあげたことが礼美ちゃんとの最初の接触であり、それ以来、礼美ちゃんに絡まれる機会が多くなった。


 僕も友達が決して多いわけではなく、ましてや女子の友達なんていなかったので礼美ちゃんと仲良くできるのは嬉しかった。


 礼美ちゃんは確かに高圧的で手に負えないが、礼美ちゃんと絡んでいく中で他には見せない一面を僕だけが知っているという優越感らしきものを感じることができた。


 礼美ちゃんは時折寂しそうな目をしている。心が満たされていないというか、つまらなさそうな目だ。


 だけど、僕が持ち前の鈍臭さを披露することで礼美ちゃんを満たすことができている、そんな気がしてとても嬉しかった。


 礼美ちゃんは家に帰るときも寂しそうな目をしていた。


「圭太、もう帰っちゃうの?」


 そう呟く礼美ちゃんの声は弱弱しいものだ。


 そのいつもの強気な態度とは違ったギャップが悲壮感を感じさせた。



 

 小学校の卒業式の日。胸に花をつけた子供たちと大人が記念撮影に夢中になっている中、礼美ちゃんから人影がない校舎裏に呼び出された。


 もしかして礼美ちゃんから告白されるのかとウキウキしながら向かった。


 礼美ちゃんは校舎裏で僕を待っていた。


「どうしたの」


 僕は告白される覚悟を決めて、努めて冷静に振舞おうとした。


「あのね」


「うん」


「私、この街からいなくなるの」


「え?」


「だから、圭太とはお別れ」


 礼美ちゃんから思いがけない言葉が出てきた。


「そ、そんな。いきなり、だね?」


「昨日決まったの」


「どうして?」


「お父様の仕事の都合で。こんな私と今まで遊んでくれてありがとうね」


 たまに見せる寂しそうな目で礼美ちゃんは言った。


 返す言葉を必死に探したが何も思い浮ばなかった。


 礼美ちゃんは言う。


「でも、私みたいな悪い子がこの街からいなくなって清々するんじゃない?」


「そんなことないよ。僕は礼美ちゃんがいなくなって寂しい」


「本当に寂しいと思ってる?」礼美ちゃんは僕の顔を覗いてくる。


「本当だよ」


 僕が目に涙を浮かべて訴えた。


 少し気まずい時間が流れ、再び礼美ちゃんの口が開く。


「私ね。家ではさ、ちゃんとオシトヤカなんだよ」


「そうなの?」


 オシトヤカとはどういう意味か分からなかったが適当に相槌をした。


「ええ。だってちゃんとしなかったら怒鳴られたり叩かれたりするもん」


「え」


「私の家ってゲンカクだからさ。でも私ってシュクジョとして振舞える才能がないからよく怒られてるんだ」


 礼美ちゃんが話す言葉は所々意味が分からないものばかりだったが、礼美ちゃんの家が厳しいということは分かった。


「家でちゃんとしなきゃいけなかった分、外では自由に振舞いたいなと思って反発して悪い子ししてたの。でも、そんな私に圭太は優しくしてくれた。とても嬉しかったよ」


 礼美ちゃんは僕に向かって微笑んだ。いつもの鬼畜な礼美ちゃんとは相反する、天使のような微笑みだ。


「いつから引っ越すの?」


「明日よ」


「僕、礼美ちゃんとお別れしたくない」


「ありがとう。でももう決まっちゃったから」


「嫌だ。離れたくない」


「またいつかは会えるわよ」


「礼美ちゃんはそれでいいの?」


 淡々と僕の質問に答える礼美ちゃんの口が止まった。


 礼美ちゃんの目には涙が溜まっていた。


 そして、せき止められていたものが溢れ出した。


「だって仕方ないじゃない!私たちみたいな子供は何にもできないんだから! 大人の言う通りになるしかないのよ!」


 礼美ちゃんは顔をくしゃくしゃにして泣き叫び、僕の胸に体を預けてきた。


 その叫びは今まで抑圧された蓄積を発散しているように思えた。


 礼美ちゃんの苦痛が接触部分を通って僕の体に伝播しているような心地がした。


 そして、女子らしい匂いを嗅いだからか、空気の読まない僕の下半身は盛りを見せた。


 僕は礼美ちゃんの背中に手を回し、震える体を静かに叩いてあげた。


 礼美ちゃんを守ってあげたい。


 そんな身の程知らずな気持ちが沸いてきた。


「僕がいつか礼美ちゃんを迎えに行くよ」


「迎えに?」


 僕の胸で泣きじゃくる礼美ちゃんは顔を上げた。


「うん。僕が君のお父さんより偉くなって礼美ちゃんを迎えに行く」


「本当に?」


「うん。だから、そのときまで待っててよ」


「圭太、ありがとう。私、待ってるね」


 僕と礼美ちゃんは約束を交わしたのであった。

 



 小学校六年生の同窓会。かつて少年少女だった僕たちは十数年を経て、三十歳手前の大人になっていた。


 僕は学生時代を勉学に注ぎ込み、巷では有名な高校、大学に進学して外資コンサル企業の最前線で働くほどになっていた。


 華倉礼美、小学校を卒業して離れ離れになって以来、消息が分からなくなっていた。


 礼美ちゃんとの約束を果たすために人並み以上の努力をしてきた。礼美ちゃんという存在がなかったらここまで頑張れていなかっただろう。


 同窓会を主催した幹事から、同窓会に礼美ちゃんも来ると話を聞いていた。しかし、同窓会が始まっても姿を現さなかった。


 僕の経歴を知った同級生の女たちは僕に取り入ろうとしてきたが、礼美ちゃん以外の女はどうでも良かったので適当にあしらった。


 十分、三十分、一時間と過ぎていき、待っていても礼美ちゃんは来なかった。

僕は煙草をふかしに外に出た。外は蒸し暑く、肌に鬱陶しくつきまとってきた。


 ソフトから煙草を取り出して火を点ける。


 口から吐いた煙が消えていくのをぼんやり眺めていると、何だか礼美ちゃんとの思い出が消えていく気がして虚しくなる。


「圭太?」


 後ろから声が聞こえた。


 聞き覚えがあったが、記憶にある声より幾分と優しい声。


 振り返るとそこには暗めのシャツワンピースを着た、礼美ちゃんがいた。


 透き通るような長髪は店の明かりによって照らされて綺麗に映った。


 僕は慌てて吸っていた煙草を地面に落として靴で消した。


「礼美ちゃん、だよね?」


「そう、本当に久しぶりだね。圭太」


 あまりの嬉しさに目が潤んでしまった。


「遅かったね」


「取引先の接待が長引いちゃったの」


「もう終わりそうだから、このまま違う所でどう?」


「ええ、いいわよ」


 礼美ちゃんは僕の提案を快諾したので、幹事に話をつけて僕の家で飲むことになった。




 僕は家に連れてきた礼美ちゃんをソファに座らせて、家に置いていたウィスキーのボトルを開けた。


 礼美ちゃんのために炭酸水で混ぜたハイボールを作ってあげた。


「あれから十年以上も経っちゃったね」


 僕は礼美ちゃんの横に座ってロックで割ったウィスキーに口を付ける。


 氷の当たる音がこの場の雰囲気に馴染んだ。


「時間の流れって早いものね。圭太、あれから随分と雰囲気が変わったわ。大分落ち着いたというか」


 礼美ちゃんが僕を見て言う。


「礼美ちゃんこそ、すっかり見違えたよ」


 僕は礼美ちゃんに見つめられるのが恥ずかしく感じてウィスキーに目を落とす。


「あの頃は私もまだ考えも幼かったから」


 そう言う彼女の様子は、落ち着きが見て取れた。


「今は何しているんだい?」


「お父様の会社で働いているわ。お父様についていって接待するのが主だけど」


「楽しいかい?」


「ええ、お偉いさんとお話して、色々な世界が見ることができて刺激を貰っているわ」


 彼女は静かに微笑んで答えた。


「あの頃の約束覚えてる?」僕は下を向きながら聞いた。


「卒業式にした約束? もちろんよ。私、とても嬉しかったから」


「僕、あれから凡人なりにも猛勉強して、有名な外資コンサルに就職したんだ。君に相応しくなるために」


「とても嬉しいわ。小学校の私なんか、あなたに碌なことしてなかったのに。あの時の私は子供すぎたわ。ストレスを周りに発散して。あれから反省したの。もっと大人にならなくちゃいけないって」


 彼女は大人しやかに言った。昔の自分と今の自分は別人であるみたいに、他人事のように。


 僕はそれが哀しく思えた。


「でも僕に映っていた礼美ちゃんが好きだった」


「ふふ、ありがとう。あのときの私なんかのために頑張ってくれたのね」


 彼女は優しく答えた。


 僕の中で彼女に対して抱いていた何かが崩れていく気がした。


「礼美ちゃん、今、無理してない?」僕は彼女の方に向き直って言う。


「いきなりどうしたの? 私は今楽しいわ」彼女はきっぱりと答えた。


「違う。僕が知っている礼美ちゃんは、こう、強さの中に脆さがあったんだ。君はそういう人間だった」


「時間とともに考え方も変わるものよ。確かにあの時は淑女然とする教育方針に辟易していたけど、考え方は環境に順応していくのよ」


 彼女はハイボールをゆっくりと飲んでそう言った。


 今まで僕の中にあった華倉礼美の人間像が崩壊していく。


 僕だけに見せてくれた弱さ。


 あの頃の礼美ちゃんの寂しそうな目。


 校舎裏で聞いた悲痛な礼美ちゃんの叫び。


 礼美ちゃんから伝わった心理的苦痛。


 それが今の彼女にはもうない。


「違う。礼美ちゃんじゃない」


 僕は彼女のか弱そうな細い首に手をかけた。


「何の冗談?」


 彼女は掴んでいる手を離そうとする。


 僕は構わずぎゅっと力を入れる。


「圭太、酔っているの?手を離してよ」


 礼美ちゃんは苦しそうな顔をする。


 とても美しい顔だ。


 僕は更に力を込める。

 

 礼美ちゃんの顔がどんどん綺麗に映える。


「や、やめ…て」


 僕は勃起していることに気づいた。


 あのときと同じ感覚だ。


 思い出を再現している気がして興奮した。


「そう、そういう顔だよ。僕は礼美ちゃんの中にある脆さを見たかったんだ」


 僕は礼美ちゃんに夢中になる。


 礼美ちゃんの動きが鈍くなり、ついに抵抗しなくなった。


 綺麗な首には僕の跡がくっきりと残っていた。


 部屋に広がる静けさの中にウィスキーの氷が場違いにカランと音を立てた。


 僕は動かなくなった礼美ちゃんを抱き寄せる。


 これからも礼美ちゃんは僕の思い出の中で生き続けるだろう。


 それで良い。あの頃の礼美ちゃんのことが好きだったのだから。

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