第1話 仄かな香り
喫茶店、カフェ・ボヌール。
私が働くこのお店は、神楽坂の路地裏にある。木造建築で、テーブル席が二つとカウンターのみの小さな喫茶店だ。
壁には、写真やドライフラワーを
また、壁沿いには本棚が置かれていて、大小様々な本がびっしりと詰まっている。これらは
コップを
セーラー服姿の彼女は、
「いらっしゃいませ」
私は爪を見ないようにしつつ、声をかけた。
「一人なんですけど……」
人差し指を立て、小さな声で答える彼女。見た目の印象と性格が全然違うように見えた。
「一名様ですね、こちらへどうぞ」
カウンター席に案内すると、マスターがメニュー表と水をスッと用意してくれる。そのまま私のそばに来て、小さな声で耳打ちした。
「あの子のこと頼むね。そこまで色は
「はい、お任せください」
私は口角をあげた。
先ほどの彼女に目を向けると、カウンターに
「何か悩み事ですか?」
私はそっと話しかける。すると彼女は申し訳なさそうにうつむいてしまった。
「……あ、いや、すみません……」
「いえいえ、謝らないでください。ここはお客様に幸せを届ける喫茶店なんです。私でよければいくらでもお話聞きますよ」
私がそう言うと、彼女はゆっくりと顔をあげた。その表情は、来店したときよりも少し和らいで見える。
「幸せを届ける……ため息つくと幸せが逃げるって、よく言いますもんね」
いたたまれない気持ちになったのか、彼女は手で顔を隠すように前髪をいじった。
「……それは違いますよ」
「え?」
「ため息をつくと幸せが逃げるんじゃなくて、幸せじゃないからため息が出るんだと、私は思います」
彼女のハッと息をのむ音が聞こえた。
「そっか、なるほど……」と、か細い声で呟く。
緊張、ほぐれたかな?
――それから私たちは、好きなことや趣味について話し、だんだんと打ち解けていった。彼女、
「帆夏ちゃんの話をまとめると、友達といるときに息苦しさを覚えてしまうって感じかな」
「はい……もちろんみんなのことは嫌いじゃないんです。でも一人になったときの解放感が心地良くて、なんだか後ろめたい気持ちになってしまって」
うんうん、と相づちを打ちながら話を聞いていると、帆夏ちゃんに何もおもてなししていないことに今さら気づく。私は思わず「あっ!」と声をあげてしまった。
「
「帆夏ちゃん、飲み物用意してなくてごめん! 何がいい?」
「そういえばそうでしたね。話に夢中になっていて注文するの忘れてました……東雲さんのおすすめはありますか?」
「おすすめかぁ……わかった! じゃあちょっと準備してくるから、本でも読んで待っていてくれる?」
私は店の本棚を指さす。
「わかりました。おすすめ楽しみです」
そう微笑んだ彼女は、本棚を
私は急いで裏方へ行き、とある豆を選んだ。静哉さんの要望で導入した手動式ミルに豆を入れ、ゴリゴリという音に耳を傾けながら豆を
ろ紙をドリッパーにセットし、コーヒーを受けるサーバーに乗せた。そこに先ほど挽いた豆を平らになるように入れる。ドリップ用ケトルで、「の」の字を描くようにお湯を注いだ。コーヒーの香ばしい匂いが、
何度かお湯を注ぎ、適量になったらドリッパーをゆっくりとはずした。コーヒーをカップに入れて、完成だ。
コーヒーの抽出は一発勝負、とマスターがよく言っていた。均一に注ぎ、均一に抽出する。お湯の温度、注ぐときの高さにまで気を配り、最高の一杯をお客様に届けるのだ。
「うん、これでよし」
再びカウンターに戻ると、帆夏ちゃんは少年漫画に熱中していた。私に気づくとサッと漫画を閉じる。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「ささ、冷めないうちに飲んでみて」
彼女はフーっと息をふきかけてから、ゆっくりと一口飲んだ。
「おいしい……」と
「これ、ブラックコーヒーなのに、甘い香りがします。バニラ……ですか?」
「大正解。これはフレーバーコーヒーって言ってね、
「へぇ~」
興味深そうに帆夏ちゃんはコーヒーを見つめた。
「……帆夏ちゃんはさ、今の自分好き?」
さりげなく私が問いかけると、彼女は
「うーん」と首を傾け、ネイルを見せながら困ったように笑う。
「こういう見た目は、あんまり好きじゃないかもです」
「そっか。友達と離れたあと解放感があるって言ってたけど、どこか無理しているのかもしれないね。気を張っていたのかも」
帆夏ちゃんはカップを両手ではさむ。
「そうかもしれません……内気な自分を変えたくて、メイクとか色々頑張ってみたんです。今の友達と一緒にいても浮かないようにって」
「その友達もきっと、帆夏ちゃんの見た目を理由に、一緒にいるわけじゃないと思うよ。ちゃんと帆夏ちゃんの良いところを見てくれてるはず」
「はい。そうだと嬉しいです」
彼女はそう言うと、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「今日は話を聞いてくれてありがとうございました。スッキリしました」
「いえいえ、無理せず頑張ってね」
「はい、ごちそうさまでした」
帆夏ちゃんはお店で販売しているコーヒー豆を一袋購入して帰った。きっと今頃「なんでコーヒーなんて買ったんだろう」と不思議に思うはずだ。
なぜならこのお店での記憶はなくなってしまうから。ここはそういうお店だ。
「あの子、来店したときよりだいぶ顔色も良かったですね」
「そうだね。色も薄くなっていたよ」
静哉さんとマスターは口々に言った。
マスターには、その人の色が見える。落ち込んでいる人、悩んでいる人の顔に、黒いモヤがかかるのだそうだ。私と静哉さんにはそれらは見えない。
「大した助言もできませんでしたが、大丈夫でしょうか……?」
不安な気持ちを打ち明けると「あとはあの子次第だよ」とマスターは私の肩に優しく手を置く。
また会えますようにと願いながら、私は閉店作業をおこなった。
とはいいつつ翌朝、やっぱり彼女の様子が気になった私は、こっそり帆夏ちゃんの最寄り駅に向かった。電柱の陰に隠れていると、制服姿の女子が目に入る。
帆夏ちゃんは昨日とは違い、スカートは丁度膝くらいの長さに伸ばされ、メイクもナチュラルな感じになっていた。あんなにとがっていたネイルもなく、高い位置で一つに結ばれていた髪は下ろされ、落ち着いた雰囲気をまとっている。
そういえば昨日、好きな女優さんの話をした。きっと彼女を目標にイメチェンしたのだろう。改札口で待っていた友達たちは、みんな目を丸くして驚いている。
帆夏ちゃんは友達に向かって何か言っていたようだが、ここからはよく聞こえない。でもその後の笑顔を見る限り、大丈夫そうだ。
私は来た道を引き返し、人混みの間をスルスルと抜けていく。
「大学行くか~」
背中を
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