カフェ・ボヌールでひと息

浅川瀬流

プロローグ

 神楽坂かぐらざかの路地裏、石畳のかれた通りは、どこかなつかしさを覚える。そんな物静かな街に、一軒の喫茶店があった。

 店の前には『カフェ・ボヌールへようこそ』と手書き看板が立てられ、準備中の札が掛かっている。


 そこを、一匹の猫が通り過ぎた。小さな茶色の猫は軽い足取りで店の裏口へと向かう。

 裏口には、初老の男性が一人。鍵を開け店内に入ると、れた様子で電気をつけた。彼の名は柏木かしわぎ幸次ゆきじ。御年六十三歳でこの店のマスターである。


「こんにちは~」

 すると同じく裏口から、小柄な女性が現れた。肩につかないくらいの長さで切りそろえられたこげ茶色の髪は、可愛らしく外にカールされている。

 彼女は大学生の東雲しののめ萌花もか。アルバイトとしてこの店で働いている。


「こんにちは、萌花ちゃん。昨日の課題は無事に提出できたかい?」

「はい。提出時間ギリギリでした」

 萌花はドヤ顔をマスターに向けた。

「もっと余裕を持ってやらないとだめだよ」

 そう言ってマスターは柔らかく微笑ほほえむ。まるで孫を見ているかのようだ。


 二人が店内を掃除していると、ガチャリと扉が開いた。

 眼鏡をかけた男性があわただしく入ってくる。走ってきたのか、ひたいには汗をかいていた。

「お、遅くなりました……。生徒の質問に答えていたら、家を出るのが遅くなってしまって」


「大丈夫ですよ、静哉せいやさんの遅刻は毎度のことですしね」

 萌花はエプロンをつけながらからかった。静哉と呼ばれた男性は、ごめんなさい、とうなだれる。

 彼、窪田くぼた静哉もここで働く従業員の一人。カフェ・ボヌールで働いているほかに、自宅で外国人を対象にしたオンラインの日本語教室を開いている。


「ほらほら、汗をふいて髪を整えないと」

「ありがとうございます、マスター」

 マスターは更衣室からタオルを持ってきて静哉に手渡す。

「さ、そろそろ開店準備始めるよ」


 ――フランス語で幸せを意味するボヌール。お客様に幸せな時間を提供することが、この店のモットーだ。

 さて、今日はどんなお客様に出会えるだろうか。

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