8 ごめんな

 

 川沿いの遊歩道から外れ、緩い坂を登った静かな住宅街の一角。交差点に面して立つ二階建てアパートの一階、西側の角部屋が俺の部屋。

 玄関ドアの前の黒い塊…コンクリートの冷たい床に膝を抱えて踞る人影を認めて、やっぱりと思った。予感が当たって嬉しかった。安堵感に包まれ、ゆるりと顔が緩んた。


 さっきコンビニで一人暮らしとは思えない食べ物を買い込んだのは、無意識に彼のことが頭にあったからだ。

 近づく足音に気づいて影がパッと顔を上げた。

「ナルさん……」

 それは切羽詰まった絞り出すような弱々しい声だった。口をへの字にして、今にも泣きそうな顔をしている。 

 『捨てられた犬のよう』とは上手いこと言うよな。今の彼を表すのにぴったりだ。全体的になんとなくボロボロで、伏せた耳と元気のない尻尾が見えるようだった。

「いつからいたんだ?」

「……」

「いや、うん。とにかく中に入れよ、風邪ひく」

 突き放すような口調に聞こえたかもしれない。そんなつもりはないのに。


 ドアを閉めた途端、背後から縋るようにそっと抱き締められた。背中から伝わった冷気に体がゾクリと震えた。ショウの上着はすっかり冷えていて、長い時間外で待っていたことが伺える。


 やんわりと腕を外して、靴を脱ぐよう促した。体も冷えているだろう。急いで部屋に上がりエアコンとホットカーペットの電源を入れた。


「あの、」「コーヒー飲むか…」


 おっと。遮るつもりはなかった…タイミング悪いな。

「いえ。喉乾いてないんで…すみません」


 そう言って、ショウは座卓の前に腰を下ろした、正座で。膝の上で指を組んだり開いたりして落ち着かない。

 俺は座卓を挟んでショウの向かいに座った。顔を上げたショウと目が合った。

「あのさ、もう怒ってないから。謝んなくていいから」

 俺の言葉に眉を寄せて、怪訝そうに頭を少し傾けた。

「あの時さ、何度も謝ろうとしてくれたのにな。無視してごめんな、LINEも。なんかさ、意地になっちゃって。俺から歩み寄るべきだったよな。

 今日もさ、何時に帰るかわからないのに来てくれて、ありがとな」

 俺の話を聞きながらの表情の変化が面白かった。驚いて、少し戸惑ったのか目線が左右に揺れて、そして理解したあとは嬉しそうに、でも目を逸らして自分の手元に視線を移した。ああ、照れてるな。

「怒ってない…ですか?」


 こちらを見上げ、確認するように聞いてきた。

「うん」

「まだ彼氏のまま?」

「うん。もう一人で暴走すんなよ」

「はい。よかった――」


 体ごと勢いよくソファに倒れ込んだ。

 心の底から安心したような嬉しそうな笑顔を見て、いい事をしてやったんだという気分になった。実際は、許してやるんだという優越感が滲む態度だっただろうに。

 言ったままを素直に受け取るんだな。心の中でもう一度ありがとうと呟いた。

「相変わらずよく食うなー」

「へへ、安心したら腹減っちゃって」

 捨て犬がどんどん元気になってゆく。大ぶりの丼鉢を彼の前にドンと置いた。

「これも食え、ツナ玉うどん。麺つゆにマヨネーズは無敵だぞ。ぐっちゃぐちゃに混ぜると美味いんだ。あと肉まんな。温めるから待ってな」

 レンジに肉まんをセットして、冷蔵庫から水とジンジャーエールと俺にはノンアルビールを取り出した。

『♪♪♪』

「ナルさん、電話鳴ってます」

 ショウが左手でスマホを指差している。ツナ玉うどんを頬いっぱいに詰め込んで。犬じゃなくて今はハムスターだ。

「電話? だれだろ。ちょ、表示みて」


「あーあれ、…お兄さん…?」


「は⁉︎」


 慌ててスマホを手に取った。画面には確かに『兄ちゃん』と表示されていた。見間違えたかと一旦目を閉じてみたけれど、やっぱり義兄だ。LINEじゃなくて電話をかけてくるなんて、何事だ?


「あ……」


「切れちゃいましたよ」


「……うん」


「何かあった、とか?」


 二人で静かになったスマホをじっと眺めていた。かけ直そうか、LINEにするか。


 想定通りというか、さほど時間をおかずに再び掛かってきた。心配そうな顔のショウが早く出ろと無言の圧をかけてくる。ゆっくりと通話ボタンをタップした。


「はい」


『あ、智久か? 良かった。今どこ、電話大丈夫か?』


「大丈夫、家。何?」


『お前さ、正月こっちに帰って来んのか?』


「うん、そのつもりだけど」


『わかった。今年の年末年始はみんなで温泉な。人数に入れとくから。詳しいことはまた連絡する。じゃあな』


 言いたいことだけ言って切ってしまった。義兄は変わらず義兄だった。会話とは言えない会話に苦笑いする。


 義兄は結婚して、実家の近くに住んでいる。きっと両親が温泉旅行を希望したのだろう。予約サイトで旅館やホテルを探していて、早く人数を確定して決めてしまいたかったに違いない。


 せっかちで強引だけど、周囲をまとめてグイグイ引っ張って行くところは義兄らしくて頼りになる。反面、面倒なときもあるけれど。


「年末年始は実家で決まりだ。悪いな、元旦の初詣は無理だ」


「じゃあクリスマス」


「わかった。仕事のあとに合流しよ。どこも混んでるだろうな。メシでも予約する?」


「ナルさん家がいい。金曜日だから泊まりたい」


「いつもと同じじゃん?」


「ナルさん家がいいんです」と、ニッコリ頷いた。そこまで言われたらOKするしかないだろう。








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