12 仕事場で


 いつも買う缶コーヒーは売り切れだった。別のを買おうとしたらSuicaの残高不足で買えなかった。


 ひとつ空いていた座席は、タッチの差で先を越された。疲れてるのに。


 向こうから来る人を避けようとしたら、相手も同じ方向に動いた。ぶつかりそうになって舌打ちしたら恫喝された。やべー。


 怠い体を引きずってやっとこさ会社に戻った。エレベーターに乗ったら、定員オーバーのブザーが鳴ったので見送った。

 はぁー。

 ついてない、ムカつく。

 うまくいかない、イラつく。

 あれもこれも、全部ショウのせいだ。


 ウソ、全部俺のせいだ。


 うちに入り浸っていたらどうなるか。この結果なんて少し考えれば予測できたのに。放任な家だなーと自分に都合よく思い込んでいたこと、後悔と反省しかない。


 『待ってろ』だって、偉そうにさ。

 大人のケジメか…俺ってば何言ってんだよな。自分の発した言葉が今になって恥ずかいわ。

 待ってるからさ、早く戻ってこいよ。


 あー、くそ怠い。ますます頭がぼーっとしてきた。喉も痛い。


「はー…仕事しよ」


 頭を切り替えるため、大きく深呼吸をした。

 就業時間が過ぎていたが、フロアにはまだ多くの人が残っていた。

 何から手をつけようか。段取りを頭に浮かべながら、ビジネスリュックを下ろした。


「音成さん。これ確認してもらっていいですか」


 隣の席の後輩、佐竹が書類を持って立っていた。


「ん、置いといて。今日中?」


「はい 明日、朝イチで課長んとこ持って行くんで…。ホントに、迷惑かけてすみません……」


 佐竹は小柄な体をさらに小さくして頭を下げた。最後は消えそうな声でボソボソ言うからよく聞こえなかった。


 そう、彼のほんの小さなミスがきっかけで、班のみんなは自分の仕事を後回しにして対応に追われていた。

 いつも弾けそうなくらい元気で、周囲の様子に敏感なムードメーカーの佐竹。そんな彼が、別人のように静かで誰とも目を合わさず、ずっと下を向いている。


 ここ数日、毎日誰よりも遅くまで残っている。自分の起こしたミスとその影響を理解して、そして悔いている。

 気にするな、と言ったところで無理だよな。よくある事だ、じゃ困るけど肩の力を抜いて、もう少しラクに呼吸をしてもいいんじゃないかと思う。


「辞表出そうとか、考えんなよ」 


 周囲に聞こえないくらい小さな声で念を押した。

 佐竹は驚いた顔で振り向いた。


「何で…」


「わかるのかって? わかるんだよ。みんな似たような経験あるからな」


 バンと佐竹の背中を一発叩いた。


「今日は早めに帰れよ。寝不足だろ、目にクマできてる」


 佐竹は泣きそうな顔で首を振り、またパソコンに向かった。


「それはお前もだ」


 向かいの席から山川先輩が顔を出した。


「ヤマ超えたし、二人とも家で休め」


「あー。じゃ、キリのいいところまで終わらせて帰りますね」


 正直キツイ。今日は早めに切り上げて、佐竹を引っ張って帰ることにしよう。


 俺は椅子に深く座り、じっと目を閉じた。

 そろそろ薬を飲む時間だな。頭痛薬も一緒に飲もう。

 その前に。何か腹に入れないと。あーコンビニで何か買ってくればよかった。また外出るか? 億劫だなぁ。そうだ、確かウィダーが引き出しに…あったあった。あとは水を沢山飲めば大丈夫だよな。

 

 ふと、さっき別れたショウの顔が浮かんだ。鍵取られて、睨んでたなー。ふ、まさか泣いてないよな。

 だめだ切り替えないと。やっぱりコンビニ行こう。コーヒー飲みたいし、水も買わなきゃなんねーし。

 スマホと財布を持って立ち上がった


「音成くん」


 げ。面倒くさいのがやってきた。メス豚Bがやって来た。今回のトラブルをチャンスと見たのか? 2、3日前から頻繁に接触してくる。

 少し前までターゲットだった男は、年明けてすぐに恋人と入籍した。再び俺に狙いを定めたのか。懲りない奴、いい迷惑だ。


 周囲から同情に満ちた目を向けられた。

 はぁー、おめーの相手する体力ねーよ。頭痛増した…。


「今日も残業? 後輩のフォローも大変だよねー。私も手伝うから指示して」


 佐竹がチラリとこちらを見て小さく頭を下げた。

 まったくのこの豚はよー。隣に当事者がいるのに。気遣いのカケラもねーな。


「大丈夫です。手は足りてます」


 嘘だけどな。


「一緒にやれば早く終わるよ。ね♡」


 来んな、あっち行け。

 軽い眩暈がして思わず目を閉じた。

 一瞬のスキを見逃さないハンター女は、一歩俺に近づいた。さりげなく俺の腕を取り、胸をピタリと密着させた。

 逆セクハラだ。全身がゾワリとして首筋に鳥肌が立った。頭の痛みがさらにひどくなり、内側から殴られてるみたいだ。

 プチリ。体のどこかで何がが弾け飛んだ気がした。


 整えられた、自慢のネイルで飾られた魔女みたいな手を強く払った。メス豚は反動でたたらを踏んだ。


「ブヨブヨしたでけー胸をわざとらしく押し付けてくんな、キモい。何を期待してんだ? 俺はあんたに女の魅力は一ミリも感じない。仕事の邪魔だ、失せろ」


 冷静にメス豚の顔を見据えて、ひと息でキッパリと言った。聞き間違えることがないよう一言一句ハッキリと。

 ザマァ。爽快感で全身がゾクゾクした。


 俺の声は思いのほか響いたようで、フロアが水を打ったようにシンとした。

 『音成、よく言った』と誰かが言った。遠くの方でパチパチと拍手する人までいた。


 メス豚はみるみる顔を真っ赤にした。全身をブルブル震わせ、涙を浮かべて俺を睨みつけた。

 バシッと俺の頬に平手打ちをくらわせ、そのままフロアを出て行った。爪が当たったらしく、頬から血が滲んでいた。


「音成さん、大丈夫ですか」


 佐竹が心配そうな顔でティッシュを差し出した。


「あーあ、」


 山川先輩が少しニヤついた顔で声をかけてきた。

 その顔を見て、一瞬で正気に戻った。

 うわーやってしまった。頭のてっぺんから水をかぶったように、体温が一気に下がった気がした。

 後悔しても遅い。


「ちょっと、頭冷やしてきます」


 俺もフロアを後にした。





 翌日出勤すると、周囲は静かにざわついていた。理由は俺だろうか…勤めて平静に、淡々と業務をこなした。

 夕方、部長から社内メールが届いた。

 俺の異動を伝える内示だった。

 俺は新年度を待たずに仙台に転勤することになった。






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