11 駅のホームで
*日記のような、近況報告のような…
『一月往ぬる二月逃げる三月去る』
目の前の案件をこなしているうちに1月が終わっていた。言葉どおり2月は逃げるように過ぎ、あっという間に3月に入った。
決算月ということもあって、音成の所属する営業部だけでなく社内全体がなんとなく慌ただしい空気に包まれていた。
例の迫崎家も、二転三転どころか五転六転かそれ以上に要望がコロコロ変わり、ずっと停滞していた。ようやく家の間取りが決まり着工に向けて動き始めた。が、油断してはいけない。今後もいろいろあるはずだ。
迫崎さんは相変わらずあれこれ面倒くさいが、俺は冷静に対応できている。
ショウは合鍵を受け取った時、意外にも飛び上がって喜ぶことはなかった。小さな鍵を手のひらに乗せてじっと見つめたあと、静かに、財布の普段使わない隙間にしまい込んだ。
「大切にします」
「無くさなきゃいいよ」
彼は合鍵を使って無断で家に入ることはしなかった。俺としては勝手に入ってくれて構わないと伝えたが、必ず連絡をよこした。彼なりのルールのようだ。
年明け以降は仕事が忙しく会う時間が取れない代わりに、ショウから頻繁に『そっち行ってもいい?』とLINEがきた。疲れていたり仕事を持ち帰ることもあったが、基本的にOKしていた。
これまで、うちに来た時はほぼ毎回セックスしていたが、合鍵を渡して以降メシを食べて寝るだけの日が増えた。こちらの体調を慮ってのことかな、と思うと腹の奥がくすぐったい。
腕の中に抱き込まれて眠ることもあれば、隣に並んで寝る時もあった。どちらにしても、ショウの体温を感じながら目を閉じると不思議と深く眠れた。
甘えていい、安心できる場所だと知らず識らずのうちに理解したのかな。
先週、同じ班の後輩がミスをした。小さな間違いかと思われたそれは予想外に多方面に影響を与えてしまった。顧客や取引先への説明とお詫び、その資料作りや大幅な数値の訂正と再チェック等々……チーム全員で対応に追われていた。
3月は、暖かい日が続いたと思ったら一気に冬に逆戻りして、季節が安定しない。今日は晴れていて風もなく、春を実感できる日だ。
数日前からくしゃみが続き、いよいよ俺も花粉症デビューかと覚悟したが、医者いわく微熱が続いているから風邪だろうとの診断だった。
――ここんとこ働きすぎてるしな。けど、今は休めないし。
薬のおかげで怠さが幾分和らいだが、まだまだ本調子ではない。
今日も、いつもなら直帰するところだが、会社に戻って残業だ。自分の報告書や細かい残務整理は後回しだが、優先順序が変わったのだから仕方がない。締め切りは待ってくれないのが辛いな。
「はぁー…」
ホームで電車を待つ少しの時間、重い体を休ませたくてベンチにドサッと腰掛けた。
体の芯がすっきりしない。マスクの間からのど飴を放り込んで背もたれに体重を預けて目を閉じた。
賑やかな声が階段を降りてきた。元気だなあと声のする方を見た。難関校として有名な高校の学ラン姿の三人……。
「ショウ⁉︎」
思わず叫びそうになって、慌てて背を向けた。
驚いた。こんなところで会うとは想定していなかった。カバンを落としそうになった。心臓の音がうるさい。
――マスクしてるし、バレないよな…あれ? バレたらまずいのか?
学ランの三人は、俺の座るベンチのすぐ後ろに座った。ショウは、友達からも『ショウ』と呼ばれているらしい。
肩越しにそっと覗いてみた。『ショウ』たちは、何が楽しいのか大声で笑い、お互いを指さしたり肩を組んだりと忙しい。じゃれ合う姿は元気な子犬のようで、若いエネルギーが全身から溢れている
なんだか子どもに見える……あれが素なのか? 俺といる時は背伸びしているのかもしれないな。
ぽろぽろと会話が漏れ聞こえてきた。テストがあったのか。ショウの成績のことを話している。俺は耳を集中させた。
「ショウってさー。ついに50位落ちたじゃん。一桁キープしてたのに。やばくね?」
「模試は?」
「模試もA判ゼロなんだろ。いよいよじゃん」
「最近付き合い悪いしよー。何やってんの?」
「こいつ今、年上と付き合ってんだよ、な?」
「んだよー。そんじゃ勉強なんてやってらんねーか?」
「でもさーでもさー。お前ん家さー放任だけどさ。成績だけはめちゃくちゃ厳しいじゃん。あの順位見たら激怒するんじゃね?」
「……やってるし」
「今回の模試はまだ、さ…
「……だよな。順位…
俺はマスクを外して、静かに立ち上がった。
気配に気づいてショウが顔をあげた。目の前に立つ俺に気づいて、驚いて目を大きく見開いた。
俺はショウを強く睨みつけ、顎をクイとあげて『ついて来い』と合図を送った。
階段に向かった俺の後ろで、彼らの声が聞こえた。
「え? 何、忘れ物?」
「バカだなー。じゃあ、またな」
俺は駅前の小さな噴水の前で待った。ほどなくやって来たショウに、花壇のヘリに座るよう指差した。
彼は叱られるのを待つ子供のようにおとなしく座った。俯いて、じっと俺の言葉を待っていた。
立ったまま、静かに呼吸を整えた。
「高校生だったのか。ま、気づいてたけど」
「ごめんなさい。すみません」
「何年?」
「……2年、です」
「ふーん。で、聞こえたけど。何、成績ガタ落ちだって? ここ数ヶ月なら俺のせいだな」
ショウは弾かれたように顔をあげ、ふるふると顔を左右に振った。
「違います! ナルさんは関係…」
「ふざけるな。関係ない訳あるか。少なくとも理由の一つだろうが。違うか」
「でもそれは、俺の…」
「もう会わん」
俺は先を聞かず、会話を断ち切るように言った。
「え、ちょ、え? 待って……」
言葉が見つからないのか、金魚のように口をパクパクさせた。
「次に会うのはお前の成績が戻った時だ。証拠に成績表か順位表持ってこい。それまで会わねーからな。オトナとしてのけじめだ。高校生に対しての責任だよ、わかったか。
うちにも来るなよ。もし来たら本気で別れるからな」
ショウを見下ろして一気に言い放った。そして手のひらを出した。
「鍵、返せ」
ショウはひゅっと息を飲み込んだ。納得いかない様子で、黙ったまま無言の抵抗を示した。
俺に譲る気配がないことを感じたのか、諦めたようにのろのろとカバンに手を入れて財布を取り出した。最後の抵抗を示すように、小さな鍵を両手で強く握りしめた。
ようやく差し出されたそれを無言で掴み、駅に向かった。案の定、ショウも後ろをついてきた。
俺は何も言わず、停まっていた電車に乗り込んだ。
ショウはホームに立ったまま、ドアが閉まる瞬間まで俺を睨んでいた。悔しそうに唇を噛み、握る拳は小さく震えていた。
電車が動き出した。
最後に見たその顔は、眉を寄せて泣きそうにも怒っているようにも見えた。
すぐに届いたLINEは『絶対に戻す。それまで待ってろ』と、ショウにしては珍しく強い口調のものだった。
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