途切れたアリア
佐々木慧太
途切れたアリア
お姉さま、こうして筆を執ること、もう何度目でしょう。いまだ舞台の上のお姉さまのお美しい凛としたお姿が目に浮かびます。申し訳ありません、私ったらお姉さまの辛いお気持ちも考えずに、このようなことをつい書いてしまって。ですが、いまさらこの気持ちを隠しても仕方が無いと思ってもいます。お姉さまは私の一番大切な人なのです。だからこそ、どうしてもこの気持ちを伝えられずにはいられないのです。お姉さまの可愛らしい笑顔も、あの美しい声も、私にとっては何よりも大切な思い出なのです。学園にはまだお戻りになれませんでしょうから、私にはお姉さまをお待ちすることしかできませんが、こうしてお手紙は送ることができます。私には何よりこうしてお姉さまとつながっていられることが幸せなのです。自己満足でしょうか? そうですよね。お姉さまはいま病魔と戦っていらっしゃる。私にできることがあれば何なりとお申し付けください。どうかご自愛なさって、お姉さま。私はいつまでもお姉さまの妹です。
五月二〇日
緑さん、お手紙ありがとう。一緒に送ってくれた花浜匙も真っ白な病室に彩りをくれたわ。緑さんらしくて思わず笑ってしまったのだけれど、緑さんの気持ちが伝わる、とっても素敵な花だわ。病室での生活はさすがに息が詰まるから、緑さんのお手紙が何よりの慰めよ。自己満足なんてそんなことはないわ。いつも私の心に潤いをくれるの。とても感謝しているわ。ありがとう。身体自体はそんなに悪くはないのよ。声帯に問題があるだけで、それ以外は至って健康そのものよ。頑丈な身体に感謝するべきね。私のことよりまずは勉学に健康に、何より緑さん自身のことをしっかりと考えて? 私は緑さんの重荷にはなりたくないわ。これは姉としての意地よ。私たちが姉妹であることに変わりはないけれど、それが緑さんの未来の弊害になってはならないわ。そうでしょう? だからどうか、この情けない姉のお願いを聞いてくださいまし。緑さんには、無限の未来が待っているわ。
五月三〇日
お姉さま、どうかご自身のことを卑下なさらないでください。私にとってはこの上なく大切なお姉さまなのですから。いまだに私が妹であることが信じることができないことと同時に、とても誇りに思います。他ならぬお姉さまのお願いとあらば、私は従わざるを得ません。ですが、お姉さまを大切に思うこの気持ちに嘘もつけません。できることならば今すぐにでもそのご尊顔を拝することを許していただきたい、そう思っています。その手に触れ、お姉さまのぬくもりをこの身に感じたいと願っております。ですが、それは今は許されないことと承知しております。お姉さまの存在が私の重荷になるだなんて! そんなことは絶対にあり得ません。今期の成績は学年でも十位以内でしたから、お姉さまのお心を煩わせるようなことは致しません。これはお姉さまの妹としての、いえ、私の意地です。私には無限の未来があるとお姉さまは仰ってくださいますけれど、私の希望はずっとお姉さまと共にいることです。
六月五日 緑
緑さん、いつもお手紙ありがとう。改めて感じたけれど、緑さんは達筆ね。とても美しい文字だわ。それだけでも姉として鼻が高いわ。今期の成績が良かったのね。それならば安心したわ。私のせいで成績が落ちたとなれば、私はどう責任を取ったら良いものかと心配だったの。ごめんなさい。自意識過剰だったかしらね? 元々緑さんが勉学に励んでいたのは知っていたのだけれど、状況が状況でしょう? 私も不安だったの。でも、緑さんのお手紙をもらって心が軽くなったわ。ありがとう。今日の診察で心因性失声症の可能性があると診断が出たのだけれど、この状態ではメンタルケアもできない状態だからと他の治療法を探すことにしたわ。と言うよりも私は心因性では無いと考えているの。何より私は歌うことが好きだから。両親とも相談して精密検査を受けることにしたわ。詳しく書くと長くなるのだけれど、緑さんには伝えておくわね。脳の構造解析、といっても直接脳を開くのではなくて、コネクトームのマッピングをして、私の疑似人格を形成し、それに私の記憶を追体験させて失声症の原因を探るというものよ。臨床試験も充分に行われている検査だから、安心してね? 私も前を向いて歩いていかなくてはならないと思ったから、この決断をしたの。だから緑さん、どうか心配しないで。私は必ず大切な妹のところへ戻るわ。
六月一二日 紫
お姉さま、私は何とお返事して良いものかわかりません。お姉さまのご決断はとても立派なものだと思いますし、お姉さまのその勇気に敬意の念を抱かずにはいられません。医療が発展してこのかた、科学は人の意識さえも支配できるようになったと聞き及んでおります。そのような話を聞くにつけ、どうしても今は不安な気持ちを拭い去ることができません。申し訳ありません、お姉さま。ですが、私も俯いてばかりいられませんもの、お姉さまの一日でも早い回復を願うばかりです。お手紙を頂いてから私も少しだけ人の意識について勉強してみたんです。曰く、疑似人格は全く別人になる可能性もあるとのことで、私はそれを懸念しています。もしもお姉さまの疑似人格がお姉さまご本人と違うものであったならば、いくら検査や実験をしても結果はまばらになるのではないか? そんな疑念が頭から離れません。お姉さまの意識は一体何を見たのでしょうか? お姉さまが欲しいものは何なのでしょうか? 私のような平凡な人間には到底理解できぬこととは存じておりますが、お姉さまのためならばこの身を捧げる覚悟はできております。どうかお姉さま、ご自分を大切になさってください。
六月二〇日 緑
緑さん、お返事が遅くなってしまってごめんなさい。検査の連続で筆を執る時間が取れずにいたの。まずは検査結果を報告させていただくわね。私の疑似人格は概ね同じ反応を示したわ。失声症になる個体が九割ほど。残りの一割は失声症になることなく通常の生活を送ることに成功した。もちろんこれはシミュレーションでしかないのだけれど、その一割の人格が一体何の因子によって失声症にならずにすんだのか。その特定を急いでもらっているところよ。緑さんの言うように、もしかしたら私の体験したものに何か特定の因子があるのかもしれないわね。だけど、こうも考えられないかしら。例えば緑さんと出会ったことが私にとって幸福なことなら、私は私の声と引き換えに幸福を手に入れることができた。そうだとしたらとても素敵なことだわ。とっても可愛らしい妹が私のそばにいてくれるのですもの。そう考えると、私は生きていても良いんだと思うことができるの。すべては緑さん、あなたのおかげよ。私を生かしてくれているのは緑さんなのよ。ごめんなさい、少し考えが飛躍しすぎているわね。けれど、緑さんがいるからこそ、私は今こうして前に進もうとすることができている。その事実は変わらないわ。だからどうか悲しまないで。緑さん、私はあなたに会いたいわ。できることならこんな病室を飛び出してあなたのところへ。愛しの妹。待っていてくださいね。すぐ会いに行くわ。
七月一〇日 紫
お姉さま、お姉さまが私のことを考えてくださっているだけで私は幸せです。ですが、お姉さまのお声と引き換えに私がお隣にいることなどできません。お姉さまのお声は必ず神様が取り戻してくださると、そう願っています。お姉さまがご入院なされてから、一日たりともお祈りを欠かしたことはございません。私はお姉さまにふさわしい妹でありたいと勉学に運動にと励んでいましたが、お姉さまのお声を失わせてしまった原因は私にあるのではないでしょうか? もしもそうだとしたら、お姉さまに何と謝罪して良いものか想像もつきません。本当に私が妹でよかったのか、そればかり考える毎日です。お姉さまは古くから名のある家柄の御息女でいらっしゃる。それに引き換え、私は高等部から編入したごくありふれた生徒の中の一人です。元よりつり合いが取れていないことは存じ上げておりました。ですが、お姉さまの優しいお心にすっかり魅了されてしまい、差し伸べられた手を取らずにはいられませんでした。私のような者を姉妹として迎えてくださったあの日のこと、今でも鮮明に覚えています。お姉さまには深く感謝しております。ですが、それが原因で級内でお姉さまに悪いお噂がたっていることも存じております。私は本当にお姉さまの妹でいてよろしいのでしょうか? 私も今すぐにでもお姉さまにお会いしたい気持ちでいっぱいです。お姉さま、どうかこんな低俗な妹をお許しください。
七月一五日 緑
緑さん、自分のことを責めるのは良くないことよ。私は自分の意志であなたを妹にしたのですから。そこに微塵も後悔はありません。あなたは私が誇りに思う最高の妹よ。あなたの姉で良かったと心から思っているわ。だから緑さん、自分を卑下してはいけないわ。心を強く持って、堂々と私の妹でいて。それがあなたの妹としての責務なのよ。決して自分を責めることがあなたの償いではないわ。そして償うことなど何もないのよ。あれから病院内のラボでは実験が続いているわ。私の疑似人格がどういった因子にどのように反応するのか、それをより細かく検証しているの。私であり私でないものが被検体というのは何だか変な気持ちね。余計なことを考えてしまうわ。例えば一人目の私は緑さんと姉妹でなかったとしましょう。そうした場合に何が私に起こるのか、想像するのも恐ろしい実験だわ。例えば二人目の私は歌を歌っていなかったとしましょう。それもやっぱり想像ができないの。私を構成する要素とは何かしら? それを改めて考えさせられる日々よ。ひとつ間違えば私は私でなかったということが日に日に検証されていくの。これも神のお導きなのかしら。あるいは私は、私という存在はどうやって構成されているのかしら。緑さん、あなたも私という存在を構成する一部、私を私たらしめている存在なのよ。だからどうかお願い。私の妹で良かったと言ってくださいまし。それが私を救ってくれるわ。
七月二一日 紫
お姉さま、お姉さまがそう思っていてくださるだけで私は幸せです。今こうして私が学園で生活できるのもお姉さまがいてくれたからこそ。それ以外にありません。お姉さまと出会えたことが私のすべてです。感謝の言葉もありません。それほどに私の中でお姉さまの存在は大きいのです。それ故に私はより一層の努力をしなければなりません。お姉さまのお隣にずっといられるように。私にはお姉さまのお心を察することができず、情けなく思います。お姉さまはお姉さまの戦いの真っ最中であられますのに、私が弱気になってはいけませんね。お姉さまはいつもお強く気高く、それでいて慈愛に満ち溢れたお心で凛としておられる。そんなお姉さまのお考えは私には理解の及ばぬ範囲ではございますが、お姉さまの仰ること、少しだけ理解したく私も考えてみました。私でありながら私でないもの。含蓄が深く、私の想像力の及ばぬところではございますが、私なりに考えてみた所感では、ひとつの可能性のようなものではないかと愚考いたします。人はたくさんの選択肢の中から、今の自分に最もふさわしいと思える選択をしたからこそ、その人たり得るのではないかと。それ故、今のお姉さまが存在するのは、お姉さまの選んだ結果、そして今の私が存在するのはその瞬間瞬間で私が選んできたことの結果なのではないか。そのように思うのです。もしもあの時、お姉さまが差し伸べてくださった手を取っていなかったら、今の私はあり得ません。別な存在であったことでしょう。ですからお姉さま、お姉さまの選択にはきっと意味があったのだと思います。もちろん私の選択にも。そして、その意味がわかるときは、きっとお姉さまのお声はより美しいものになっているのだと私は確信しております。どうか私の大切なお姉さま、お心を傷めないでください。神様はきっと私たち姉妹に微笑んでくださいます。
七月三〇日 緑
緑さん、どうか悲しまないでくださいね。私の声はいつ戻るのかまだわからないの。お医者様が言うには、まだ実験結果に規則性が見いだせないとのことだったわ。もう少し、もう少しと自分に言い聞かせてはいるのだけれど、やっぱり不安というものは簡単には拭い去れないわ。この際だからと失声症についても色々と調べてみたのだけれど、私と同じような症例は過去になかったの。本当にこれは未知の症例だそうよ。私もさすがにお手上げだわ。お医者様でもわからないことが私にわかるはずが無いもの。でもね、緑さん? 私は不思議と落ち込んでいないのよ。どこか晴れやかな気持ちもあるの。そうね、もしかしたら歌うことが苦しかったのかもしれないわね。最近そんな考えが頭をよぎるの。これは私を開放してくださるために、神様が私に与えられた試練なのではないかと考えるようになったわ。何から解放されるのかは今のところ私にはわからないけれど、もしかしたら、この先にはより良い未来が待っているのかも知れないと感じるようになったわ。いえ、それは私の願望かもしれないし、本心ではないのかも知れない。それでもね、緑さん? 家も地位も捨て去ることができたなら、そのときこそ緑さんと共に歩める未来が待っていると思うの。傲慢かしら? だとしても緑さんといられない未来よりも、ふたりで共に歩んでいける未来を私は選ぶわ。例え、この声を失うことになったとしても。
八月六日 紫
お姉さま、お姉さまのお気持ちを理解できぬ私をどうかお許しください。私はお姉さまのあの美しいお声が聞けなくなるくらいなら、神にこの身を捧げる覚悟です。私にとってお姉さまは私の世界のすべて。それが無くなるくらいならば、どうかこの妹の身を贄にしてでも、お姉さまのままでいて欲しいのです。お姉さまには天賦の才がございます。学園のみなさんもそれを知っておいででしょう。ですから、妹として私が成さねばならぬことは、お姉さまのために寄り添い、この身を尽くすこと。それより他に成すべきことなどありません。お姉さまのお心を乱しているものは何か。これから私はそれを私なりに考えていきたいと思っています。病院の方は実験や研究を行っていらっしゃるのでしょうが、お姉さまの疑似人格では、お姉さま本人のお気持ちなどがわかるはずがありません。だってお姉さまはお姉さまただひとりなのですから。私は諦めていません。今年のクリスマスに、舞台で歌うお姉さまのお姿を毎晩夢見ています。必ずお姉さまならばまたあの華やかな舞台の上に立つことができると信じています。世界中の誰もが疑っても、私だけは信じて、祈り続けます。私にできる精一杯のことをするだけです。だからどうかお姉さま、私のことを信じてください。そして何より、お姉さま自身のことを信じてください。お姉さまなら、何だってできます。きっとです。
八月一四日 緑
緑さん、ありがとう。緑さんの気持ち、とても嬉しく思うわ。こんな私をそうやって信じてくれるのは緑さんだけよ。本当にありがとう。検査の結果が出たわ。私の症例は前例が無いということは以前伝えたわよね? 疑似人格を使った実験の結果、私の深層意識、そうね、無意識の部分、とでも言うべきかしら、そこに原因があるのではないかという結論に至ったの。心理とはまた別の問題なの。カウンセリングでは到達できない無意識の部分。私を構成している、いえ、私を私と定義しているもの、かしらね。有り体に言えば、魂とか、そういったものよ。科学でここに踏み込むのはいくらかの危険を伴うわ。私という人格そのものに触れることになるの。意識のマッピングは疑似人格程度なら問題は無いけれど、今回は脳の内部、偏桃体や大脳皮質まで調べることになる。不安でないと言えば噓になるわ。まるでロボトミーね。もしこれが失敗して私が私でなくなったら。そう考えるとまるで眠れないの。緑さんのこともわからくなってしまったら、私は緑さんを傷つけてしまうことになる。姉としてそれはあるまじき行為だわ。決してそんなことはあってはならない。絶対よ。妹を幸せにできない姉に姉妹の契りを交わす資格など無いわ。緑さんの言う通りよ。私は私でいたい。でもね、緑さん? 可能性があるなら私は賭けてみようとも思うの。もう一度あなたのために歌いたいの。緑さんのためだけに。私はどうしたら良いのかしら。緑さん、こんな私をこれからも姉と呼んでくれるかしら? こんなにも弱い私を。
八月二三日 紫
お姉さま、どうか悲しまないでください。お姉さまはずっとずっと私のお姉さまです。この気持ちに決して噓偽りはございません。私はお姉さまでなければ嫌なんです。お姉さまはご自分のことを弱いと仰います。ですが、私にとっては憧れそのもの。お姉さまより素敵な方は、この一六年間一度も見たことがありません。お姉さまは私の特別なのです。こんな気持ちを私は他に知りません。なんと表現して良いのかも、お姉さまにどんな顔をして会えば良いのかも、今の私には皆目見当もつかないのです。お姉さま、お姉さまの魂は、意識は、今どこにあるのですか? お姉さまの中でしょうか? それとも何処か遠く、私の手の届かない所にあるのでしょうか? もしも私の手の届く所にあるのならば、必ず私が繋ぎ止めます。絶対に離しません。お姉さま、私は以前も申し上げたように、お姉さまのお声のことは諦めていません。私が諦めてしまったら、お姉さまの妹の名が廃れます。お姉さまは学園のみなさんの憧れ。そんなお姉さまの妹である私が、このようなことで諦めてしまっていては、お姉さまにも、学園のみなさんにも、顔向けができませんもの。私には未だお姉さまの本当のお気持ちが理解できぬままですが、いつまでもお慕い申しております。お姉さまが学園にお帰りになるその日まで、私は折れぬ心でお待ちしております。
八月三〇日 緑
緑さん、私の大切な妹。どうかそれを重荷に感じないでくださいまし。私を慕ってくれていること、いつもお手紙から感じているわ。ねぇ緑さん? 私のことを特別と思ってくれているのなら、どうかこの姉の頼みを聞いてくださらないかしら? あなたのことを「緑」と呼んでもいいかしら? そして私のことも「紫」と呼んでいただきたいの。おかしいかしら? 姉妹なのに名前を呼んでもらえないことを少し寂しく感じていたの。私も緑さんのことを特別に思っていたから。私の我が儘を許してくれる? あなたの前でだけは本当の私でいたいの。何者でもない、ただの「私」として私を見て欲しいのよ。それが私にとっての特別なこと。特別な関係と呼んでも良いかもしれないわね。それが私の望み。意識、魂、そんなものがあるとして、私はきっと緑さん、あなたを求めていたのだと思うわ。明後日、私の脳の検査があるわ。疑似人格ではわからなかった範囲に踏み込むの。ねぇ緑さん、私に足りなかったのは何だったと思う? 私はそれが知りたいの。足りないもの、それが見つかったらきっと、私はまたあなたと手を繋いで歩いて行けると思うの。緑さん、私の大切な妹。どうか私のお願いを聞いてくださいね。我が儘ばかりでごめんなさい。
九月五日 紫
お姉さま、私の大切なお姉さま。いえ、これからは紫お姉さまとお呼びします。紫さんとお呼びしては姉妹としての決まりに反してしまいますもの。紫お姉さまから私の名前をより親しく呼ばれることに胸が高鳴ります。お手紙の文字でさえこれほどまでに胸が高鳴って仕方ないのに、実際に紫お姉さまの美しいお声で呼ばれると思うとはしたなくも赤面してしまいます。今年のクリスマスが楽しみです。クリスマスと言えば、今年のオペラの演目は『愛の妙薬』に決まりました。紫お姉さまならアディーナにぴったりです。きっとそれまでに紫お姉さまのお声は戻っています。絶対です。私が保証いたします。昨年は『トリスタンとイゾルデ』だったとお聞きしました。その時の紫お姉さまをこの目で観てみたかった、そう思っています。さぞ美しかったことでしょう。ですが、これからはずっと紫お姉さまの隣で紫お姉さまが舞台に立つところを観続けられるのだと思うと私は何と幸せものでしょう。紫お姉さま、私と紫お姉さまはこれからもずっと特別です。何があろうともお傍を離れることはありません。姉妹の契りを交わした時よりも一層、今それを思っています。ですから、必ずこの妹、緑の所に戻ってきてください。約束です。
九月十二日 緑
緑さん、ありがとう。検査結果が出たわ。私の意識の欠損部分。それがわかったの。私はずっと家の都合で、と言うのもおかしいけれど、誰よりも皆の規範に、いえ、それ以上に社交界の中でも、何よりも家のために、家を優先して物事をこなしてきたわ。それが私の務めだったのだもの、仕方のないことだと、どこか諦めていた、そんな私がいたのね。私がこの世界と繋がっていられるのは家があってこそ、そう思っていたわ。いえ、事実今もそれは何ひとつ変わらないわ。お父様もお母様も、私がいずれどこかの良家のご子息のもとへ嫁ぐことを望んでいらっしゃる。でもね、緑さん、いえ、緑。私はあなたのことを愛してしまったの。姉としてではなく、ひとりの人間として、女として、あなたを愛しているわ。驚いたかしら? こんなことおかしいわよね。姉妹の契りはただの制度、あるいは風習だというのに。私はもうあなたのことしか考えていないのよ、緑。だから私の名前を呼んでくれてとても嬉しいわ。潜在意識の中の私は、本当の私は、家のことを重圧として感じていたのよ。今思えば当然のことよね。だってそれは私自身の意志ではないのだもの。だからあなたと出会った時、自分の身体に、心、意識、魂、何と呼べばいいのかしら、とにかく私の全身に稲妻が走ったような感覚があったわ。この子なら私を鳥籠から、いえ、私の鳥籠の鍵を開けてくれるのではないかと期待してしまったの。今思えばひとめぼれと言うことかしら? そういった経験が無くて表現できないのだけれど、きっとあなたに恋をしてしまったのね。私はもうそれだけで幸せな気持ちだったわ。そしてあなたは私と姉妹になってくれた。あの時の気持ちは緑にもきっとわからないでしょう。私のほうこそ幸せものだわ。こんなにも素敵な妹がいて、私の隣にいてくれると約束してくれた。ありがとう、緑。私は今とても幸せでいっぱいよ。
九月二〇日 紫
紫お姉さま、私がそのようなお言葉をいただいてもよろしいのでしょうか? 私には何も特技もありませんし、紫お姉さまとは天と地ほどの身分の違いもあります。そんな私を愛してくださっていると。私は何と答えれば良いのでしょうか? いえ、身分不相応であることを私は気にしているのです。私が紫お姉さまのことをどう思っていたのか。それは紫お姉さまのお手紙ではっきりしました。私の気持ち、これは愛していると言うことなのだと思います。ただ、愛しているという気持ちが一体どういった状態を指すのか私にはまだわからないんです。紫お姉さまに触れたいとか、抱きしめて欲しいとか、そういった気持ちのことなのでしょうか。考えれば考えるほどわからないのです。私は、紫お姉さまとどうなりたいのか? そんなことばかり考えてしまいます。紫お姉さま、私は今、紫お姉さまにどうしても会いたいです。祈るよりも、願うよりも、ただ、お会いしたい。そう思っています。
九月二五日 緑
緑、今私は
一〇月一日 紫
追記
古垣内病院 五〇三号室
午後一八時、病室のドアがノックされる。こうなることはわかっていた。私は、覚悟を決めなくてはならない。誰が入ってくるのかはわかっていた。私は立ち上がり、ドアを引く。
「紫お姉さま……」
私は緑の手を強く握る。走ってきたのだろう、体温の高まりが伝わってくる。
「紫お姉さま、私、何と言ったら良いのか……」
私は頷いて返事をする。
「お姉さま、私、お姉さまが好きです」
私はまた頷いて返事をする。何かを言いかけた緑を制して、机にある紙とペンを取る。
『ありがとう、会いに来てくれて。緑、大好きよ』
「紫お姉さま……」
私はペンを走らせる。
『私と、付き合ってくれるかしら?』
緑の頬を、涙が伝う。
「……はい。これからも、ずっと、お傍にいさせてください」
少し時間をおいて私は緑に問いかける。
『ありのままの私を、必要としてくれる?』
「はい」
私の望みを、緑に問いかける。
『すべてを失っても、それでも愛してくれる?』
「はい……紫お姉さま……」
私は緑を抱きしめた。緑の涙の感触が胸を伝った。潜在意識解析のパターンが変化していく。赤、青、オレンジ、緑……まるで、虹のように。秋の始まりが私たちの門出を祝福してくれている、そう信じて、私は緑に愛していると言った。
クリスマス。紫お姉さまはリハビリもそこそこに、完全復帰した。おろしたての深紅のドレスが眩しいくらいに輝いている。
「紫お姉さま、とってもお似合いです!」
「ありがとう、緑。後は本番まで待機ね」
「はい。私は舞台袖におりますので、何かあればお申し付けください」
「大丈夫よ、ありがとう。それと、ふたりのときは……」
「……はい、ゆ、かり、さん……」
「それで良いのよ。恋人なんだから、気を遣わないでも大丈夫よ」
「はい……ですが、慣れるまではちょっと……」
「緑は可愛いわね。大好きよ」
紫お姉さまの潜在意識、と言うよりも意識は変容を遂げ、紫お姉さまは声を取り戻した。奇跡だ、とは病院のラボの研究者の話だが、私は奇跡ではなく、お姉さまはシンギュラリティを迎えたのだと考えている。きっと本人も気がついていない。だが、その歌声は以前のそれよりも透きとおって、静謐さを増していた。意識のシンギュラリティは、おそらく本人も気がつかない所で起きるのだろう。きっと私もあの日シンギュラリティを迎えたに違いない。おそらく、私にも気づかない所で。今年のクリスマスはきっと学園で語り継がれるものになるだろう。妙薬は私たちを変貌させた。そして、聖夜は私たちを祝福してくれるに違いない。私と紫お姉さまの旅路に、神のご加護があらんことを。あの時途切れたアリアの続きが、今、始まった。
途切れたアリア 佐々木慧太 @keita_jet
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