第11話 Trigger to the past

 放課後に糸と咲良は新宿にある小規模の劇場に足を運んでいた。


 スクリーンに映像が映し出されている。咲良の言う通り古い映画のため、画質や音質は少し荒いがスクリーンに引き込まれるような圧倒的な舞台と、息つく暇もなく行われるアクションシーンは糸と咲良を夢中にさせた。


 物語は終盤、家族を敵から守りきった主人公に待ち受けていたのは、悪役が最期の悪あがきで街に仕掛けた時限爆弾であった。このままでは主人公の住む町に大惨事が訪れると、主役は爆弾が設置してある街の中心にそびえたつ高いタワーを目指す。


 糸は少しだけ夢に出てきた偽の爆弾装置を思い出したが、主人公の活躍の方が気になりすぐに消えた。

 タワーの地下に設置してある時限爆弾装置を目の前にした主人公は勇敢にも一人で時限装置の処理を始める。

 順調に処理をすると映画の主演俳優の手が止まった。


『赤い銅線か、青い銅線か——どっちを切ればいい』


 主演俳優は額とYシャツに汗を滲ませながら、ペンチを握りしめている。赤と青の銅線を左右に見ながらどちらを切ろうか彷徨う、迫真の表情がアップでスクリーンに映し出され、スピーカーから主人公の心臓の鼓動が流れていることで緊張感を表現している。


 劇場にいるお客は主人公をうんうんと相槌を打って落ち着いている。ここで主人公が間違った銅線を切ってしまえば爆弾が作動してビルが崩壊してしまうバッドエンドが訪れるはずであるが、その心配している人は誰一人いない。

 大事な局面で間違った選択をしないのが主人公であると皆信じている。

 それに昔の名作映画のため既に見たことがある人にとってはこの後の展開は明らかであるし、何が起源かは誰も知らないが、物語で爆弾を処理するシーンなんてありきたりで、それでも失敗したケースなんて見たことがない。だから観客には爆弾処理に成功する未来が頭に刷り込まれており安心して見守っていた。


 ただ一人を除いては。


 糸は劇場で唯一主人公を強張った表情で見つめていた。爆弾を目の当たりにしたシーンから主人公と同じような量の汗を額に流し、息が荒くなっている。

「はあ——はあ——」


 自分でも、こんなに息が荒れている理由は分からない。

「大丈夫?」

 明らかに尋常ではない糸に気がついた咲良が周りに漏れないように小さな声で問いかけた。

 糸はスクリーンのただ一点を見つめている。

「——知っているんだ」

 糸は顔を咲良の方に動かせなかったが、咲良は糸の言葉を聞いて微笑んだ。

「見たことあるんだね——私もここからが好き」


 違う——こんな映画見たことない——だけど——


 糸の頭の中では今まで経験したことのない強い稲妻が頭の中で駆け巡った。瞳孔が大きく開き、唇を震わせる。

 映画はここから観客にも緊張感を味わってもらえるように時限装置のタイマーのデジタル音を心臓の音と一緒に流した。その音が糸にとってはなにより煩わしかった。

『そういえば今日、妻がネクタイの色を選んでくれたな』

 スクリーンに映し出されている主演俳優は、白い歯を見せて笑いながら自分の首元についているボロボロになっている赤いネクタイを見つめた。

 すると主演俳優は自信に満ちた表情を見せる。


 駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ――


 糸は心の中で何度も呟いた。

 今すぐ立ち上がり、ここから出たい。だけど、体はもうとっくに動かない。

 銅線を絶対に切ってはならない、何より自分がこれ以上先を見てはいけない。


 記憶の神殿が崩壊し、そこで閉じ込めていた禁忌の箱が開かれてしまう——


 その中になにがあるのかはまだ分からないが、分かってしまう目前まできてしまった。

 糸は家族にゆっくり記憶を取り戻せと慰めて貰っても、昔はやんちゃだったと言われても失った過去にはどうせ退屈な日々しかないだろうと、自分の過去に興味がなかった。


 映画によって糸は頭の中で記憶の箱と向かい合う時が来てしまった。

 失われていた記憶は予想とは違い、退屈な過去が一切存在しなさそうな、薄気味悪い真っ黒な箱。至る所にテープが巻き付けられ、鎖で繋いでいるまさしく禁忌の箱である。


 もうやめてくれ——こんな映画見たくない——気持ち悪い——

 糸は祈るが、スクリーンに映画は止められない。

『嗚呼、神のご加護を——』

 スクリーンに映る主演俳優は天を仰いで祈ると覚悟を決める。


 左手で今朝妻が選んでくれた赤いネクタイを握りしめながら、赤い銅線選んでペンチで挟み込んだ。


 主人公の心臓の鼓動と壮大なクラシックがスピーカーにも響き渡る。いよいよクライマックスであると誰でも分かる作りで、そんな演出にこの時だけは劇場は緊張感に包まれている。


 自分で選ぶな。爆発する。爆発したら終わり。死んだ。


 なんとか首から上を動かすことが出来た糸は、首を振り抵抗する。

『パチッ——』

 ペンチで銅線が切れる音が劇場に響いた。

「うああああああああああああああああああああああああ」

 糸は叫んだ。銅線が切れた瞬間、迫真のクラシックも、カウントダウンの音も消えた無音の劇場いっぱいに糸の声が響き渡る。


 隣にいた咲良は隣にいた糸のリアクションに驚かされる。

 映画の方は当然主演俳優の決断のお陰で爆弾処理に成功した。音楽が心地よいメロディーに切り替わると、主人公はどっと疲れが押し寄せて来たのか、満身創痍な顔で寝ころんでいる。


 今そんな場面を見ている人は劇場に一人もいない。

 観客は何事かと、叫び声がした方向を見ている。糸の近くに座っていた観客の一人は、迷惑な客がいたもんだと冷たい視線を糸に送っていた。

 糸は顔面蒼白になりながら、なんとか主演俳優の活躍を見届けると、目を閉じた。

「糸君!?」


 エンドロールに入ると、咲良は糸に声を掛けてみた。肩を持って揺らしてみると、ぷらんぷらんと無抵抗に体が左右に動く。


 糸は座席シートいっぱいに背中を預けて気を失っていた。目を閉じた隙間から、一縷の涙が零れ頬に伝わっている。



 映画の物語は爆弾によって町が吹き飛ぶことなく、平和が訪れた。しかし、糸の頭の中にある禁忌の箱は爆発して、残酷な火の粉に包まれていた。

 思い出したくない記憶の炎が燃え上がり、糸の記憶を支配していくとようやく確信した。


 自分は夢に出ていた〈カナリア〉だ。自分は常盤糸なんかじゃない。


年に見合わず金髪にしていてやせ細った少年は自分であり、一緒にいた男に利用されていた。

 豆粒ほどの電球しかない掃除用具の部屋が自分の居場所だった。

カナリアは罪を犯した。それも数えきれない、この先も償いきれない位の大きな罪だ。


 糸は思い出してしまった。記憶を失ったのは銀行強盗を決行した日だったことを。

 現実世界では気絶している糸は、意識下でその事件の日を整理する。


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