第8話 噂のヒーロー
糸と咲良は駅に行く途中にある自動販売機の影で人目を盗みながらコスチュームを脱ぐ。
目立たない制服姿に戻ると渋谷駅の改札を抜けて、適当な電車に乗った。
「私達かっこよかったよね!」
興奮を抑えられないのか、帰宅ラッシュで混雑した電車の中で咲良は声を上げた。
「ああ、かっこよかった」
戦いを終えた糸の方は至って冷静であった。
「糸君が最後にナンパ男に喰らわせた飛び蹴り、まるでスローモーションに見えたよ。周りも熱狂していたし、もうほんと最高!」
「それはどうも」
「糸君も楽しかったでしょ?」
「……いい気分転換にはなったかな」
自分から攻撃を仕掛けた時、少しだけ懐かしくて心地良い気持ちになったのは間違いない。
「これからも続けるよね?」
「いや、約束通り今日で終わりだ」
流れで糸は「うん」と呟くと思っていたのだろうか、咲良は大きく肩を落とした。
咲良にコーヒーがかかってしまった罪滅ぼしで始めたヒーロー活動は一回きりだ。約束は果たした。今度はまたいつものように家族の約束を守らなければいけない。
咲良も糸の考えを変えることは出来ないと悟り諦める。
「分かった——今日は付き合ってくれてありがとう。最後に聞かせて。人を守れて良かった? あの女の子達は、糸君に助けられたんだよ? だから私達に『ありがとう』って言ってくれた」
その感謝の気持ちは糸が立ち去る時にも聞こえていた。
「ああ、役に立ててよかった。今日のことは忘れない、忘れられないと思う」
電車は次の駅に到着した。糸はそこが最寄りではなかったが、咲良の話を聞いていけばまた何か起きてしまいそうな気がして、電車を一人下りた。
夜8時ごろ糸が家に到着する、父の照が仕事で遅くなるということで、京と綾はとっくに食事を済ませており糸の分はいつもの席に一人分用意してあった。
糸が遅めの夕食を取っている時、同じテーブルで綾が勉強していた。
「お兄ちゃん、今日は実に美味しそうにご飯を食べるね」
お茶碗をかき込む糸を見て綾は無邪気に笑った。
「そんなことはないよ」
とは言うものの、母の料理はいつも美味しいが今日は一層美味しく感じられる。
「何かいいことでもあった?」
「特に……何も変わらないよ」
「ふ~ん」
本当の所糸は咲良と別れてから家に帰る途中、男との戦いを頭の中でリピートすると体が熱くなる。そのたびに大好物のアイスが食べたくなった。
記憶がなくなってから、周りに自分の事情を悟られないように学校生活を送り、大人しくしていた糸にとって初めて胸が高鳴り、体を火照らせた出来事であった。
「あ、そういえば、さっき凄い動画が出回ってきたの!」
綾は何かを思い出したのか、ペンを置いて勉強中は封印しているスマホを弄ると、糸に画面を見せつけた。浮かび上がる三角を傾けたボタンを綾が押すと、画面が動き始める。
動画に映っていたのは大通りで男を翻弄するパーカーを身に着けた糸の姿であった。
箸を置いて綾のスマホを奪う。映像をよく観察すると、構図的に観衆が撮った映像であると気がつく。
「ちょ……これ——」
どうして? と綾に聞くのを何とか踏みとどまる。
「友達が塾に行く途中に見かけたみたい——」
「綾のメールに来たのか?」
そう尋ねるが綾は首を振り、糸の手からスマホを奪い返す。
「違うよ。SNSで投稿されていて、私がその友達をフォローしているから見たの」
「……? いまなんて言ったの」
「だからスマートフォンのアプリでみんなと交流できるの」
糸はソーシャルネットワーキングサービスどころかスマートフォンすらも使ったことがない。
記憶を失ってもパソコンキーボードの位置や電車の乗り方、コンビニでの買い物やり方は憶えていたので恐らく記憶を失う前も使ったことがないのだろう。
「メールと何が違うんだ」
「全然違うよ、メールは送った相手にしか伝わらないけど、SNSはユーザーが投稿した文章や、写真、動画は全世界に向けて配信されるの」
「全世界!?」
驚きのあまり一段キーの高い声を出してしまった。
自分のピンクパーカー姿が世界に知られているのか——
「全世界と言っても、基本はフォローしている人しか見られない。だけど『グッド』が沢山押されて話題の投稿になればいろんな人の目に入るよ。この投稿なんて、かなり『グッド』ボタンが押されているから、話題の動画と言えるね」
綾が糸に説明する姿はまるでネットを使ったことがない高齢を相手にしているみたいである。
「仕組みは分からないけど、とりあえず大ごとになっているということね」
大勢を囲んで喧嘩をしてしまい、こんなことになった。そもそも闘い辛いと大通りに出たのは自分の考えた結果であるが、SNSを知っていればそんなことをしなかった。
「お父さんにスマホ買ってもらって、勉強すれば?」
「そうしたいけど、まだ必要ないと言われた」
何気なく糸が不満を口にすると、綾の顔が固まった。
「そうだ! このパーカーを着た人、パステルボーイって言うらしいよ。服もそうだけど動きがかなり派手だよね。まるでアクション映画のワンシーンみたい」
綾は再び視線をスマートフォンに戻す。
映画を見た覚えがないため、その例えがよくわからなかった。
「そのパーカー男の名前も知っているんだな」
「だって動画の最後にこのブルーのパーカーを着た女の子が言っていたから」
「ああ……そういうところまで撮影されているんだ——凄いね」
一度限りの活動と言っておいて良かった——
目立つことこそがヒーローだと主張して咲良はそれを実践している。糸にとってはリスクでしかない。
「この子のスカートどこかの制服っぽいから女子高生なのかな……顔がよく分からないけど、可愛いと思う、どんな人なんだろう」
動画を見て咲良の身元は分かることはないが目元がぱっちりしていて、口元を覆っていても整った顔立ちをしているのが分かる。正体が気になるのも無理はない。
「まあ動画に出ているこの二人は派手だし、綾がさっき言った通りなにかのアクションシーンの撮影にも見えないか」
「まあ……たしかに、名乗る所なんてまさしくヒーロー映画の場面だね」
「そうだろ、本当か分からないからお父さんには言わないほうがいいんじゃないか? あの人心配性だし」
綾は中三で年頃の女の子であるが、父を尊敬している。日常会話のノリでこの会話をされては都合が悪い。
「まあ、確かにこの動画を信じて、外は危ないから塾に行くなとか、遊びに行くなとか言われたくはないね」
渋谷でこんな格好をしたヒーローが実際に現れるわけがないと綾も納得したようでスマホをしまい勉強に戻った。
難を逃れた糸は、冷凍庫からアイスを取りに行った。
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